3 手負いの鬼


 二人が辿り着いたのは黄昏通りにある食事処『すずめ食堂』だった。

 怪域と表の世界が繋がるよりも前から続いている、雀のモノノ怪の一族が営む店だ。量も多く味も良く、何より女将が朗らかで優しくて、カエデも気に入ってよく通っている。

 その店の中から辿って来た血の匂いがする。


 カエデは地面にそっとアズマを下ろすと、開け放たれたままの入り口から中を覗き込んだ。

 店内は壊れたテーブルや椅子が散乱しており、その中央に、丸々とした雀――女将であるモノノ怪のリンが、鬼のモノノ怪によって鷲掴みにされていた。


 その鬼は体のあちこちに怪我を負っており、その血がぼたぼたと床を濡らしていた。

 痛みによるものか、それとも疲労によるものか、鬼の呼吸は荒い。血走った金色の目が爛々と輝き、獲物を狙うかのようにリンに向けられている。


「やめてチュン、やめてチュン! うちの店で暴れたらだめチュン!」

「ああくそ、ぴいぴいうるさい雀だな。お前が客を逃がしたせいで、俺の飯がなくなっちまったじゃねぇか」

「飯じゃないチュン! お客様は食べちゃダメなのチュン!」

「仕方ないからお前を食ってやるよ」

「やー! やー! 食べちゃいやチュンー!」


 リンは半泣きになりながら、何とか鬼の手から逃れようともがいている。しかし鬼の握力は強く、指の一本すらびくともしていなかった。

 鬼が、大きな口を開ける。牙が見える。そしてパッと手を離し、口の中へリンを放り込もうとした時、


「はい、ダメ!」


 ――カエデはその横っ面を、思い切り蹴り飛ばした。


 鬼は店内を豪快に吹き飛び、壁に強かに体を打ち付ける。口からは、ガッ、と空気と共に悲鳴が零れた。

 それを背景音楽バックグラウンド・ミュージックに聞きながら、カエデは両手でそっとリンをキャッチする。カエデの手の上にころんと落ちたリンは、ぱちぱちと目を瞬いて、それからカエデを見上げ「あっ!」と嬉しそうな顔になった。


「カエデちゃん、カエデちゃん!」

「リンちゃん、大丈夫?」

「ありがとチュン! 大丈夫チュン! 大好きチュン!」


 リンはカエデに飛びついてチュンチュンと鳴いた。ふわふわしたその温もりにカエデの頬が緩む。

 しかし、ふわふわを堪能している時間はない。


 さて、と呟いて、カエデは自分が蹴り飛ばした鬼の方へ顔を向ける。

 もともと負っていた怪我でだいぶ弱っていたところで、カエデの蹴りを喰らったせいで、なかなか体を起こせない様子だった。


「この匂い……てめぇ、篠塚のところの犬か……!」

「そうですよ。いやぁ、私も有名になったもんですが、ご存じならばここへ来た理由もお判りでしょう。街で暴れたりしたらダメですよ」

「ハ、人間にすり寄った軟弱なモノノ怪の言うことなんてクソくらえだ!」


 ぺっ、と口の中の血を吐き出し、鬼は壁を伝ってよろよろと立ち上がる。ぼたぼたと血が落ちる。今の衝撃で傷口が広がったのか、先ほどよりも流れる出る量が多くなっていた。

 食事処でこれは良くないなぁ、とカエデは思いながら、振り返ってリンをアズマへ手渡す。


「どうします?」

「まずはいつも通り大人しくさせて、それからじっくり事情を聞くとしましょう。あの傷は普通じゃないですし、妖力の残り香もあります。あー、やだやだ。どうにも厄介事の予感がしますよ……」


 アズマは顔を顰めてそう言った。

 妖力の残り香ということは、あの傷はモノノ怪の術によってつけられたものということだ。

 モノノ怪の中でも頑強な体を持つ鬼が、ああも追い詰められているのを見ると、やったのはなかなか腕の立つ者のようだ。


(まぁ、おかげで少しは楽が出来そうですが)


 鬼とまともにやり合うのは、カエデでも骨が折れる。

 犬のモノノ怪の血を引くカエデも身体能力は高いが、素早い動きが得意なのであって、鬼と真正面からぶつかり合うのは少々分が悪いのだ。


 楽観視は出来ないが、あれだけ消耗していれば、万全の体勢の鬼を相手にするよりは苦労しないだろう。

 そう考えながらカエデは、スーツの上着にからナックルダスターを取り出し両手に装着した。それを見て鬼は目を丸くする。


「は? おいおい、何だそりゃ。お前、犬の半妖だろうが。何でそんなものつけるんだよ」

「そっちだってこん棒使ったりするでしょ。それと一緒ですよ。かわいいでしょ。握るところね、猫の柄なんですよ、これ」

「かわっ……それはかわいいな?」


 へぇ~、と鬼は興味津々な表情で近寄り、目の前に来たその瞬間。


 ――お互いに相手の顔面目がけて拳を繰り出した。


 ビッ、と空気を切って鋭い一撃が向かって来る。

 しかし、どちらも顔を逸らし、それを避けた。


「おやおや」

「ハハ」


 至近距離でニヤッと笑い合い、そのまま戦いを始めた二人に、アズマが呆れた様子でため息を吐いた。


「あの戦闘狂どもめ……」

「そうなんですチュン?」

「そうそう。嫌ですねぇ、野蛮で。リンさんはああなっちゃダメですよ」

「聞こえていますよ、アズマさん!」


 あんまりな評価にカエデがツッコミを入れた。

 聴覚にも優れているため、戦いの最中という騒がしい場所であっても、カエデの耳は色々な声や音を拾うので、些細な会話でも聞こえてしまうのだ。

 もっとも全部に反応をしていると「盗み聞き」なんて不名誉なことも言われてしまうので、時と場合によっては聞こえなかったフリをするけれど。


 そんなことを考えた時、その耳がまた違う音を拾った。

 キィン、という甲高い音だ。霊力や妖力を用いて行使する『術』の発動で聞こえる音である。

 何だ――そう思っていると突然、鬼がその大きな手で首を押えて膝をついた。見れば、鬼の首に先ほどまではなかった金色に光る首輪が嵌められている。


「ぐ、う、うぅ……!」


 鬼は蹲って呻いている。あれほどの傷を負って、あれだけ血を流していても、ここまで苦悶の表情など浮かべてはいなかった鬼が、だ。

 鬼は脂汗をかきながら、首を掻きむしっている。傷つけられた肌から血が零れ、他の血と混ざって床を汚す。


「くそ、くそ、くそぉ! こんなもので、鬼を、俺を縛るなんて……くそぉぉぉぉっ!」


 鬼は吼える。びりびりと空気を震わす絶叫に耳が痛んで、カエデは思わず顔をしかめた。

 そうしていると鬼に嵌められた首輪の光が強くなり、だんだんと根を張るように鬼の体を浸食し始めた。


「――まずい!」


 アズマの舌打ちが聞こえる。同時に、彼は懐から呪符を取り出して、鬼目がけて投げつけた。呪符は淡く発光しながら飛び、首輪ごと鬼の喉に貼りつく。

 そのまま呪符は首輪の光――恐らくあれは霊力だろう。首輪を形作っていた霊力を呪符が吸収して行くと、首輪も光もどんどん薄くなって行き、やがて消え去った。

 同時に鬼を浸食していた光も消えて、とたんに鬼は床に音を立てて倒れ込む。


 カエデは鬼に近付いて容体を確認する。

 顔色は悪いが呼吸はしているようだ。

 ホッと息を吐いてカエデはアズマを見上げる。


「生きています。気を失っているだけですね」

「それは何より。話を聞かなければなりませんからね」

「そうですね。それにしても今の術は一体……」


 もう一度鬼の方を見る。首輪は綺麗に消えているが、搔きむしった箇所はそのままの状態で残っていた。痛々しい傷痕から血が流れている。


「恐らく従属の術でしょうね。近場で術を使ったような霊力を感じませんから、術者の命令に従わないことで自動的に発動したという感じか」

「従属の術……」


 アズマの言葉に、カエデは反射的に自分の首に手を当てていた。

 

 従属の術とは、人が生み出した術のひとつだ。

 かつてモノノ怪と人が対立していた時代に、人はモノノ怪を飼い慣らして戦力にしようとしたことがある。その時に生まれた術が『従属の術』だ。

 術でモノノ怪の自由を縛り、命令に背けば苦痛を与える。それはそういう代物だった。


 ――まぁ、これだけ聞くと人の方が悪く思えるが、モノノ怪側も人を捕まえて食べる者もいたりしたので、所業としてはどっちもどっちである。

 もちろん当時から、モノノ怪も人も関係なく仲良くやっていきたいと考える者は一定数いるので、全部がそうだったというわけでもないのだが。


 今はお互いに和解し、住む場所も分かれているためその術が使われることはないし、何よりも人道に反するとして、術の使用自体が禁止されている。モノノ怪側の方も言わずもがなである。


(気分が悪い……)


 カエデも一度だけ、ほんの僅かな時間ではあったがその術を掛けられたことがある。あれはかなりの苦痛だった。首を絞められる苦しさと、体の内側から刃物でずたずたに傷つけられるような痛みが絶えず襲って来るのだ。

 その時のことが蘇って、カエデは眉間にしわを寄せる。


「この術、まだ使う人いたんですね」

「時代錯誤も甚だしいですね。迷惑なことです。……カエデさん、平気ですか?」

「ええ、もちろん。私はかわいいですが、そんなにやわじゃないですからね。弱々しく見えました?」


 ふさり、と尻尾を動かしてお道化てみせる。

 するとアズマはやれやれと首を横に振って、


「いいえ、頼もしいですよ」


 なんて苦笑したのだった。

 

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