第50話:胎蔵の間への道行き_2


「やめろおおおおおおおお!!」


 男性は喉が裂けるほど叫んだ。蜘蛛の黒い膜が一瞬だけ揺らぎ、彼の片目から涙が零れ落ちる。

 その姿を通路の向こうで見ていた涼たちは、彼に何と声をかけて良いかわからなかった。あんな所にいては、彼も作業員と同じ目に遭う可能性は高い。

 それに、その姿は圭介を彷彿とさせた。丸で圭介が囚われているような感覚に陥ってしまう。見た目は違うが黒い管に囚われ、異形の餌食になっている。



 男性の顔は、何かを思い出したように色が変わった。嬉しそうな顔をしたり、悲しそうな顔をしたり。走馬灯でも見ているのかもしれない。そして段々と目が虚ろになっていく。それでも何とか、平静を取り戻そうと藻掻いているようにも見えた。

 そんな彼に対し、黒い染みが広がっていく。巣喰い蜘蛛の吐き出す黒い糸が、記憶を塗り潰すかのように絡みついていく。


「……あ……っ、おい! 負けるな! 藻掻け!!」


 涼が通路の向こうから叫ぶ。


「俺は……まだ、人間だ……っ! 人間なんだ! た、助けっ……助けてくれぇ!!」


 男性は自分の胸に手を当てようとした。だが、蜘蛛がそれを許さない。黒い管がさらに深く脊髄へ突き刺さり、脳を直接支配するかのように電撃のような痛みを流し込む。


 ズズズッ……ガギャッ!!


 蜘蛛が再び壁を登り、上層へと向かう。崩れ落ちる石材が滝のように落ち、涼たちはそれを避けながら追うしかなかった。同じ目的地だろう場所に向かって。


「一条さん、道はどっちですか!」

 涼が叫ぶと、一条は震える手で地図を示す。


「胎蔵の間へ行く通路は……あの崩れかけた階段だ!」

「……追いつかなきゃ……圭介さんが完全に取り込まれる前に! あの男の人だって、きっと同じ場所へ向かうはずです……!」


 美咲の声は震えていたが、その目には決意があった。涼もそれに同意するように「行こう!」とまた叫んだ。

 涼急いで崩れかけた階段を駆け下りる。だがその途中、逃げていた蜘蛛が後方へ向けて粘着糸を放った。


 シュッ……バシィッ!


 白い糸が鞭のように壁を打ち抜き、瓦礫が飛び散る。


「美咲ちゃん、気をつけろ!」


 一条が美咲をかばい、すんでのところで倒れた柱の下敷きになるのを防いだ。

 蜘蛛はまるで意図的に追跡を遅らせるように、壁や天井を崩していく。男性がわずかに意識を戻しているときだけ、通路を完全に塞がないよう動きが鈍るのが見て取れた。


 ――あの男性が、抵抗してるんだ。


 涼はそう確信し、走る足を止めなかった。


 ――蜘蛛はついに、巨大な扉の前で立ち止まった。

 その扉は古びた石造りで、中央には胎児を模した紋章が刻まれている。紋章は生きているかのように脈打ち、時折、ぬるりと動いた。


「……もう、ダメだ」


 男性が苦痛に歪んだ顔で呟いた。彼の片目は涙を流し、もう片方の黒い瞳孔が蜘蛛と同じように蠢いている。


「まだ、死に、たく、な……」


 男性も涼たちも『背中に載せられて拘束されたのは、餌にするためだ』と思っていた。胎蔵の間で餌を必要とするナニかのための。一瞬の隙を突けば助けられると、助かると思っていた。だがそれは現像だった。


 黒い管がズルズルと男性を持ち上げる。


「う、あ、あっ!」


 それ以上、涼たちは蜘蛛に近付けなかった。危険すぎる。どうしたものかと思案している間に、管は男性の腕へ絡みつき、ねじるような動きを見せた。


「あぁぁぁぁ――!! いだっ、いぃぃぃぃ――!!」


 あり得ない方向へねじられる腕。蜘蛛はやめようとしない。やがで、ミリミリ、ブヂッ――という音とともに、男性の腕がもげた。


「ああああああああ!!」


 次は反対の腕にかかる。その様子を、涼たちはただ口を開けて見ているしかできなかった。――できることなら助けたい。だが、蜘蛛は自分たちが何もできないことをわかってやっていると感じでいた。目の前には、圭介がいるはずの扉。ここで全滅しては、彼を助けられない。


「ヒィィィ……イィィィ……」


 初めて、諦めることを選んだ。自主的に。涼は、男性を助けられないと思った。


 蜘蛛は男性からもいだ両腕両脚をその場に捨てると、微かに喉の奥で「たすけ」と血とともに吐く男性の残った部分を、涼たちに向かって投げつけた。


 ドォン――


 壁にぶつかった男性の遺体。そう、遺体。もう息はしておらず、動くこともない。開かれた目には、光は宿っていないが、恨みが宿っているように見えた。彼がまき散らした血は、涼たちに届きその身体を濡らしている。


「あ、あ……」


 美咲がその場にへたへたと座り込んだ。頬についた男性の血を震える手で拭い、ジッと見つめている。

 一条は唖然とした表情で蜘蛛を見た。『餌になるほうがマシ』とすら思えるほど、彼の死に救いはないと感じていた。

 涼はガックリと肩を落とし項垂れている。「ごめんなさい」と呟きながら、目尻に涙を溜めていた。


 シャアァァァ――


 そんな三人の気持ちも関係なく、蜘蛛の声が扉の向こうに消えていくと同時に、胎蔵の間から、さらにおぞましい蠢動音が響き始めた。

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