第二話 暗い旧邸

 ◇◇◇◇


 文緒はこういった西洋館を訪れるのは初めてだった。


 どうやって自分が到着したことを知らせたらいいのだろうかと悩んでいた時、玄関の重厚な扉が開かれた。


「お待ちしておりました、本條文緒様」


 おそらく馬車が到着した音が聞こえていたのだろう。

 タイミングよく出迎えてくれたのは、六十代半ばほどの老紳士だった。


「私は綾羅城家の家令を務めております、楠上くすがみと申します。ようこそ綾羅城家へお越しくださいました」


「初めまして、本條文緒と申します。本日からお世話になります」


 物腰の柔らかな紳士は、心からの歓迎の笑みを浮かべながら文緒に近づいてくる。

 文緒は少しだけほっとして、姿勢を正してお辞儀をした。


 開けられた扉の奥に並ぶ使用人たちが、楠上に促されるようにして深々と頭を下げる。


 その人数の多さにも驚いたけれど、玄関の両脇に並ぶ使用人たちからは、複雑な感情を宿した視線が刺さる。

 同情とも憐れみとも取れる目付き――時おり文緒のほうを窺っては俯く、といった姿が気にかかった。


「申し訳ございません。当主は本日公務で不在でございまして」


 楠上は申し訳なさそうに言葉を継いだ。


「それでは空黎くれい様の元へご案内いたしますので、私とともに来ていただけますか」


 楠上は文緒を、豪華な西洋館とは反対の方向へと導いていく。


(空黎様は、こちらにはいらっしゃらないの…?)


 文緒は楠上の後を静かに歩きながら、心の奥にじわりと広がる戸惑いを隠せないまま着いていくしかなかった。


 そして石畳の小道をしばらく進むと、時の流れに取り残されたかのような古びた日本家屋が姿を現した。


「こちらは二十年前までは本邸ほんていとして使用されておりました。先ほどの西洋館が完成になってからはほとんど使用されていないままになっておりましたが…」


 そう言って穏やかに説明する楠上の声には、寂しさのような複雑な色が滲んでいる。


 かつて綾羅城家の本邸であったという建物は、今は見る影もなかった。


 雨樋あまどいは錆びつき、窓の木枠の一部は朽ちている。軒先の漆喰はところどころ剥がれ落ちて無残な姿を晒していた。


 庭の植木も手入れが行き届いていない。

 かつての格式を思わせる庭石や石灯籠もすっかり苔むして、伸び放題の雑草の中に埋もれている。


「さあ、どうぞ」


 楠上が玄関の戸に手をかけた。


 ギ……ィ……


 木材が軋む、重く嫌な音が響く。

 建てつけの悪くなった扉は容易には開かず、楠上が力を込めて押し開けるとそこから冷たい空気が漏れ出してきた。


 文緒は足を踏み入れると、埃っぽくじめじめと湿り気を帯びた空気が鼻をついた。


 草履を脱ぎ、廊下に上がって奥へと視線を向ける。


 一部が破れたままのふすまと古びた畳の匂い。

 雨戸はどこもすべて閉ざされていて、わずかな光が隙間から差し込むだけだった。まだ夕方にもなっていないのに、夜のように暗い。


 家全体が息をしていないかのように、ひっそりと静まり返っている。


「あの、本当にここに空黎様が……?」


 信じられない思いで呟くと、楠上がはい、と頷いた。


「左様でございます。本館にご自身のお部屋もございますが、二年前に呪病を発症され――その症状が酷くなって参りました頃からは、ずっとこちらに」


 楠上が目が一瞬だけ伏せられるのを見て、無意識に袖を握りしめる。

 冷たく湿った空気が肌を撫でて背筋がぞくりと震えた。


「ですので、文緒様のお住まいもこちらの旧邸になります」


 彼は文緒の表情を気遣うように見つめ、


「どうか、ご不便をおかけいたしますが……」


 と付け加えた。


「それはもちろん構いません、でも…」


(こんな場所で、空黎様は一人で過ごしていらっしゃるの...?)


 病に伏せっている方を、このような場所に。

 陽の光が入るようにして、風通しのよくして。もっと清潔な、少しでも気持ちが明るくなるような環境を整えることはできないのだろうか。


 この荒れ果てた屋敷でたったひとり、一日中、いやもうずっと長い間過ごしているのかと思うと、文緒はどうしようもなく胸が痛んだ。


(どうして、こんなふうに扱われているの……?)


 言葉にできないまま、文緒は小さく唇を噛みしめる。


「空黎様のお部屋はこちらです」


 楠上はまっすぐに廊下を進んでいく。


 廊下に敷き詰められた板材は色褪せていて、踏みしめるたびにわずかに沈み込む。

 慎重に歩いていると、楠上は一つの部屋の前で立ち止まった。


 その時、文緒の全身に言いようのない感覚が走った。


 目には見えないけれどかすかな空気の揺らぎ。


 指先に触れるほどの繊細な、不思議な感覚。


 まるで細かな無数の糸が宙を覆っているかのような――


「あの……」


 小さく問いかけるように声を上げると、楠上が振り返る。


「どうかされましたか?」


 文緒は襖の前に立ち止まって、そっと両手を組みながら尋ねた。


「このお部屋は私が入ってもよろしいのでしょうか?」


 その言葉に、楠上は目を見開いた。


「驚きました…お気づきになられましたか」


 彼はすぐに表情を緩めると、感心したように微笑んだ。


「空黎様のお部屋には特別な結界が張られているのです。現在の空黎様はほとんど霊力がない状態ですので、万が一にも邪気や瘴気しょうきに晒されることのないように…念のために私が張ったものなのですが」


 襖の向こうからは、確かに人の気配が感じられるような気がする。


「なので文緒様はもちろん、お入りになることができます」


 楠上はそう言うと、丁寧に身を沈めて膝をついた。


「空黎様、文緒様がお見えになりました」


 襖越しに深く頭を下げて、低く慎重に声をかける。


 この向こう側に、綾羅城空黎がいる。

 呪病に蝕まれ、かつて最強と呼ばれた力を失い、この旧邸に追いやられた人。


 いったいどんな思いで、この部屋に一人でいるのだろう。


 文緒は静かに息を吸い込んでから、ゆっくりと呼吸を整えた。




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