嫁いだのは、余命一年の旦那様でした
綾瀬アヲ
序章
柔らかな春の日差しが、障子を透かして部屋に差し込んだ。
「とても綺麗よ、
「ありがとうお母様」
帯を締める母の
白地に淡く藤色が滲むようにぼかし染めが施された振袖。この振袖を母はとても気に入っていて、よく文緒にも見せてくれていたものだった。
袖を通した
「お支度はよろしいでしょうか」
廊下から聞こえてきた女中の声に、文緒は小さく息を吐き出した。
「もう少しです」
鏡台に映る自分の姿を見つめる。
「本当にいいの?今ならまだ……」
菜穂子の口からほろりと零れ落ちた言葉に、文緒はほんの少し胸が締めつけられる。
まだ、引き返せる―――
そう言いたげな菜穂子に文緒は小さく、けれどもはっきりと首を振った。
唇をきゅっと引き結んでから、肩に置かれた菜穂子の手に自分のそれをそっと重ねる。
今日、文緒は
その夫となる人は、綾羅城家の令息――
帝都の
その人は今、不治の病に蝕まれ余命一年を宣告された身でもあった。
『
綾羅城家の令息が呪病に冒されている。
そのことが公になったのは数ヵ月前のことだった。
実際は二年ほど前に発症していたらしいのだが、綾羅城家の現当主、つまり空黎の父・
恐らくその間に何らかの改善が見込めるよう、あらゆる方法を尽くしたのだろう。けれどその甲斐はなく、病状の進行をほんの少し遅らせるにすぎなかった。
余命一年とされている綾羅城家の令息、空黎との縁談が本條家にもたらされたのは、その直後だった。
帝都の三大呪術家にして統括者でもある綾羅城家。
その当主の嫡男ともなれば、本来はもっと格式高い名家や高貴な血筋との縁談が組まれる算段であったはずだ。
それが、呪術界の序列では下位に位置する本條家に――養女として育った文緒にお鉢が回ってきたというのはどういう事情か、想像に難くなかった。
文緒の周囲は皆、縁談を断るべきだと言った。
元来であれば格上の綾羅城家からの縁談を断ることなどできるはずもないが、今回ばかりは事情が違う。
特に最後まで承諾することに反対したのが、母の菜穂子だった。
後継ぎを望むでも血筋を守るためでもない。
これは看取ることを義務づけられた、契約結婚。
けれど、文緒にはそれは理由にはならなかった。
断る理由が見つからなかったのではなく、むしろ『そんな空黎様のそばにいたい』と、心の底から願ってしまったのだ。
(私でお役に立てるのなら、今こそ恩を返す時……)
文緒は
「……たとえ一年でも」
小さく呟いた言葉が、静かな部屋に響く。
たとえ一年でも、自分はあの方の妻として精一杯支えていきたい―――
襖の向こうからは、先ほどから忙しなく人が行き交う気配がして、出立の時間が迫っていることを予感させる。
文緒は最後にもう一度、鏡に映る自分に向かって小さく頷いた。
文緒が自室を出て玄関へと降り立つと、すでに文緒を送り出す
当主である父・
「体には気をつけろよ」
兄の言葉に、兄嫁の睦美が大げさに肩を叩く。
「もういやね、
いつも明るい睦美の言葉に、文緒は頷いて微笑む。
昨年義姉となった睦美は文緒にとって本当の姉のようで、二人で買い物に出たり午後の茶の時を共にしてお喋りをする時間は本当に楽しかった。
菜穂子が心配そうに何か言葉を紡ごうとするのを、寛明が首を振って
「やめなさい。縁談を受けると決めたのは文緒自身なのだから」
そして寛明は、懐から何かを取り出した。
それは古びたお守り――というよりも、石のついた
「これは……?」
文緒はそれを受け取ると、目を瞬いた。
石は今まで見たことのない色合いで、光にかざすと乳白色の石が遊色効果のようにさまざまな色彩を放つ。それがとても幻想的だった。
「本当に困った時は、このお守りに祈りなさい」
――祈る…?この石に…?
普段厳格な父が、まじないめいたことを言うのは珍しかった。
文緒は一瞬どう捉えていいのか分からずにいると、その目に言いようのない憂いが滲んでいることに気づく。
――あぁ、父も心配してくれているのだ。
「はい、お父様。ありがとうございます」
文緒はそれを振袖の襟の下にそっと忍ばせるように、外からは見えないように首に掛ける。肌に当たる感覚がひやりとするかと思いきや、不思議と温かいような気がした。
「お嬢様、馬車の準備が整いました」
門の前で待機していた従者が呼びに来る――時が来た。
文緒は向き直って深々と一礼する。
「長い間お世話になりました。それでは行ってまいります」
文緒は振り返らなかった。
迷いを振り切るように、まっすぐ前を見据える。
本條家は彼女にとって何よりも安らぎに満ちた場所。
そこに別れを告げて、文緒は綾羅城家へと向かう。
余命一年を宣告された伴侶となる人と婚姻を結ぶために。
文緒が選び取った一つの選択。
けれど、この時の彼女はまだ知らなかった。
自らの歩みがやがて呪術界を――そして帝都全体を巻き込み、大きく揺るがすことになることを。
けれど運命はすでに、確実に動き始めていた。
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