夜這い星

宇佐美秋澄

第1話

夜は、人を無口にする。

 それはきっと、空が暗くなるからではない。

 音が、街の奥から消え始めるその瞬間、人の輪郭が静かに解かれていくからだ。


 渡辺幸治は、夜の訪れに対してある種の敬意を抱いていた。

 それは崇拝ではなく、共犯にも近い、静かな了解だ。


 彼はその日も、講義を抜けた。

 理由はなかった。行く意味がないことが、いつも通りの答えだった。


 窓際の席で、開いてもいない参考書の上に肘を置き、午後の陽が少しでも傾き始めるのを待っていた。

 まるでそれだけが、自分にとっての“進行”だったかのように。


 部屋はいつも通りだった。物は少なく、余白が多く、音がない。

 テレビは持っていなかったし、ラジオも聞かない。スマホは充電されていたが、通知はなかった。

 それらすべてが、幸治の「生活」というものの完成形だった。


 ふと、彼は立ち上がった。

 窓の外には、すでに陽が沈みかけていて、空が灰色から群青にゆっくりと移っていく最中だった。


「行くか」


 誰にともなく、そう呟いて靴を履く。

 目的地は、いつもと同じ。海だ。


幸治にとって、海というのは“開放”ではなかった。

 それはむしろ、自分が世界からどれほど隔絶されているかを確認するための装置だった。


 誰にも干渉されず、ただ広がっていく音と闇。

 そこには希望も救いもない。

 けれど、だからこそ信じられた。


 海辺までは、大学からそう遠くない。

 だが、人がほとんど来ない時間帯を選ぶのがコツだった。

 それは深夜0時を少し過ぎた頃。夜が完全に“人間”を諦めたような時間帯。


 秋彦はいつもの場所――防波堤の端に腰を下ろす。

 足元には波が絶え間なく打ち寄せ、月光がその表面をなぞっていた。


「……うるさいな」


 それは波に対する文句ではない。

 自分の心のどこかにこびりついている“言葉にならない何か”への吐き捨てだった。


 星空が広がっていた。

 冬に近づく空は、空気が澄んでいて、無駄に星が多い。

 それを「綺麗」と思うほど、幸治の情緒は単純ではなかった。

 ただ、「無意味にそこにある」ものを、見下すこともできなかった。


 無関心。

 それが一番近い。


 世界は、そこにあるけれど、僕には関係がない。

 ただ、それだけだ。


 月は、優しさの象徴ではない。

 秋彦にとって、それはむしろ“監視”に近かった。


 夜のすべてを照らすわけでもなく、ただ黙って存在しているだけの、薄い、冷たい目。


幸治は月が嫌いだった。

 理由は明確じゃない。

 だが、子どもの頃に月を見て泣いた記憶がある。

 理由は思い出せなかったが、その時からずっと月が苦手だった。


 今日の月は、ちょうど半分。

 浮かんではいたが、どこか中途半端だった。


「――満ちても、欠けても、どうせまた戻るのに」


 そう呟いて、自分の言葉にわずかな嘲りを混ぜる。


 感傷すら、今の自分には贅沢だ。

 感情というものは、投げかける相手がいないと立ち上がってこない。

 ひとりきりでいる時間が長すぎると、喜怒哀楽はただの概念にしかならない。


 幸治にとって、孤独は選択ではなく、呼吸と同じだった。

 必要だからしているだけ。

 でも、それが苦しいときもある――などという“弱さ”には、未だ名前を与えていなかった。


 砂浜を少し歩いた。

 靴の底から伝わる湿り気が、生きていることを教えてくれる。

 でも、そんな感覚に寄りかかるのは癪だった。


「もし、今ここに誰かいたら」


 そう思うことはある。

 でもすぐに打ち消す。

 誰かがいたら、自分はその人のために“人間”を演じなければいけない。


 面倒だ

 疲れる

 何より、もうできない。


 かつて、誰かを信用したことはある。

 でも、それはずっと昔の話で、あの人はもういない。

 顔も声も思い出せないほど、遠い。


 波が足元を洗うたびに、思考がリセットされる。

 自分が誰で、なぜここにいるのか。

 それを、また最初から探しなおさなければならないような感覚。


 そうしてすべての言葉が、海の底に沈んでいく。


 星は、何も語らない。

 それでも人は星に願いを託す。


 滑稽だ、と幸治は思う。

 自分の願いくらい、自分で叶えればいい。

 それができないなら、黙っていればいい。


 それなのに…

 それなのに、どうして。


 ――時折、星を見上げる自分がいる。

 星座の名前など知らない。

 覚えようとしたこともない。


 ただ、そこにある光に、なにか“意味”があるような気がしてしまう。


 そういうとき、幸治は自分が一番嫌いになる。


 意味など、どこにもない

 それが、この世界の最も優しい真実だ。

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夜這い星 宇佐美秋澄 @usami_18

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