掌編小説「桜の記憶、宵に咲く」

マスターボヌール

戦国の出会い

この物語を語るには、まず四百年前の春に戻らねばならない。桜の花が誓いを抱いた、あの戦火の中の約束の季節へ。


永禄十二年、春。織田信長の近江侵攻が始まった頃のことだった。


足軽頭の勝三郎は、敵の矢に射られた左肩を押さえながら、戦場から離れた山間の村へと逃れていた。血が滲む傷口から力が抜け、桜並木の下で膝をついた時、彼の前に一人の女性が現れた。


「まあ、お怪我を」


お由良と名乗った彼女は、二十歳ほどの美しい女性だった。戦火を逃れてこの村に身を寄せているという。彼女は迷うことなく勝三郎を自分の小さな庵に運び、傷の手当てをしてくれた。


「どうして、見ず知らずの武士を助けてくださるのです」


「人が困っていれば助けるのは当然のこと。それに」お由良は微笑んだ。「お武家様といっても、こうして見ると普通の若者ですもの」


その笑顔に、勝三郎の心は激しく揺れた。戦に明け暮れる日々の中で、こんなにも温かな気持ちになったのは初めてだった。




傷が癒えてからも、勝三郎は戦の合間を縫ってその村を訪れるようになった。お由良との時間は、彼にとって戦乱の世における唯一の安らぎだった。


二人は桜並木を歩き、小川のほとりで語り合った。お由良は京で公家に仕えていたが、戦乱で両親を失い、一人でこの地に逃れてきたのだという。


「戦のない世が来れば、どこか遠くで一緒に暮らしませんか」


桜が散り始めた頃、勝三郎は意を決して彼女に告白した。お由良は頬を染めて頷いた。


「私も、あなた様と共にいられるなら」


しかし、戦国の世は二人の愛に時間を与えなかった。勝三郎の部隊は越後への遠征を命じられた。出発の前夜、桜の古木の下で、二人は永遠の愛を誓った。


「必ず戻ります。来年の桜が咲く頃には、きっと」


「お待ちしています。この桜の下で、ずっと」


お由良の瞳には涙が光っていた。




ここから先は、私自身の体験として語らせていただこう。


勝三郎として生きた前世の記憶を持つ私は、現在、現代の京都で歴史研究者として暮らしている。なぜこのような記憶があるのか、科学的な説明はできない。しかし、その記憶は夢や幻想などではなく、確かに私の中に刻まれているのだ。


大学で日本史を専攻したのも、無意識のうちにあの時代への憧憬があったからかもしれない。そして二十五歳になった春、私は初めてあの場所を訪れた。


琵琶湖のほとり、今では小さな公園となっているその桜並木で、私は強烈なデジャヴを感じた。これは間違いなく、あの時の場所だった。




それ以来、私は毎年桜の季節になると、その場所を訪れるようになった。最初の数年は何も起こらなかった。しかし、ある夕暮れ時のこと、私は信じられない体験をした。


桜が満開の日の夕方、私はいつものようにあの古木の前に立っていた。風が吹き、花びらが舞い散る。その時、懐かしい声が聞こえた。


「長い間、お待ちしておりました」


振り返ると、桜の陰にほんのりと浮かび上がる女性の姿があった。お由良だった。彼女の姿は半透明で、まるで月光のように儚げだったが、その笑顔は四百年前と全く変わらなかった。


「お由良様...」


私の頬を涙が伝った。どうしてこんなことが可能なのか、現代の科学では説明できない。しかし、この再会の喜びは紛れもなく本物だった。


「あの後、私はこの桜の下で、あなた様の帰りをお待ちしておりました。そして気がつくと、とても長い時が流れていました」


お由良の声は風のように優しかった。


「遠征から戻ることができなかったのです。申し訳ありませんでした」


「いえ、こうしてお戻りくださった。それだけで十分です」


桜の花びらが私たちを包む中、彼女はゆっくりと私に近づいてきた。触れようとしたが、彼女の手は光の粒となって散ってしまう。




「私はもう、この世の人ではありません。でも、あなた様への愛だけは、ずっと消えることがありませんでした」


お由良の姿は、徐々に桜の光と一体になっていく。


「また来年も、ここでお待ちしています。そして、来世でも」


その言葉を残して、彼女の姿は春の宵に消えていった。


あれから十年が過ぎた。私は今でも毎年、あの桜並木を訪れている。そして毎回、お由良との短い再会を果たしている。周りの人には理解されないだろうが、私にとってはかけがえのない現実だ。


現代の忙しい生活の中で、私はあの桜の下でだけ、本当の自分に戻ることができる。四百年の時を超えた愛が、確かに存在することを実感できる場所。


桜の記憶は、時代を超えて咲き続けている。そして私たちの愛も、この桜と共に永遠に続いていくのだろう。


今年もまた、桜の季節がやってくる。私は今夜も、あの場所へ向かうつもりだ。お由良が待っている、あの桜並木へ。


**―終―**

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掌編小説「桜の記憶、宵に咲く」 マスターボヌール @bonuruoboro

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