第10話 カウンターの向こうへ

春の終わりのような、あたたかい風が吹いた日だった。


私は、その日で立ち飲み屋を卒業することになった。


新しい仕事も無事に決まり、週明けからはデスクワークのオフィス勤務。慣れないことだらけだけど、どこか胸がすっと軽くなっていた。


常連さんたちが「卒業祝い」と言って、ささやかな飲み会を開いてくれた。いつもより少しだけ豪華なつまみが並び、カウンター越しには笑顔があふれていた。


その中で、誰かがふと口にした。


「そういえば、藤崎さん、来週転勤なんだってさ。こっち、半年で終わりらしいよ」


グラスを拭いていた手が、一瞬止まった。


(転勤……)


やっぱり、あの夜が最後だったんだ。


何も言わずに去っていくのが、藤崎さんらしいと思った。


……でもそのとき、ふいに扉が開いた。


無言で店内に入ってきたのは、藤崎さんだった。


私はすぐに気がついた。


いつもと変わらぬ雰囲気。でも、どこか距離を感じる面持ち。


彼は私の顔を見て、笑顔を見せて軽く頷いた。


今日で卒業するということを、誰かから聞いていたのかもしれない。


でも、それはどうでもよかった。


私は笑顔で「お疲れさまです」と言って、おしぼりを差し出した。


彼は「ビールを」と、いつものように一言だけ言った。


私はビールをジョッキに注ぎ、彼が立つカウンターの隅に運んでいった。


そのとき、彼がぽつりと口にした。


「お疲れ様。君と会えたこと、心に残る思い出になるよ」


胸がジーンと熱くなった。あの夜を思い出す。でも、私はもう、過去に縛られないと決めていた。


卒業祝いも宴たけなわとなり、常連客たちはそれぞれ笑顔で帰っていった。


そして、藤崎さんも会計のときが来て、レジに向かった。


私に向かって、小さく言った。


「……ありがとう」


その一言だけだった。


私は、何も言わずに頷いた。


泣かなかった。もう、泣かないって決めていたから。


彼の背中が扉の向こうへ消えていく。


私はその背中に、静かに微笑んで心の中で「さようなら」を告げた。


もう、追いかけない。もう、振り返らない。


カウンターの向こうに、新しい私が待っている。


だから私は、前を向いて、グラスを磨き続けた。


***


時は過ぎ、私は麻里と同じ会社に勤務するようになった。初めての環境にも少しずつ慣れ、書類の扱いも、電話応対も、思ったより自然に覚えられた。


ランチタイムに麻里と笑い合いながらお弁当をつつくたび、心の奥に少しずつ光が差していくのを感じた。


――恋は終わった。

でも、人生は続いていく。


そして私はいま、ようやく自分自身の足で歩き出せている。


カウンター越しに見つめていた景色は、過去の一部になった。


これからは、自分の未来を、この手で切り拓いていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カウンター越しの、あなたと私と、偽りの恋 凪野 ゆう @You_Nagino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ