第5話 目覚めて、抱かれて
彼の部屋に入った瞬間、私は急に無口になってしまった。
初めての場所。薄暗い間接照明のなかに、藤崎さんの暮らしが静かに息づいている。
玄関の隅に並べられた革靴とスニーカー。
洗面台に置かれた髭剃り。
生活の匂いが、どこか落ち着いていて、少しだけ切なかった。
ソファに腰を下ろすと、手のひらが汗ばんでいるのがわかる。
緊張。興奮。不安。
全部がごちゃまぜになって、呼吸が浅くなる。
(大丈夫。私は、ちゃんと決めたんだから)
藤崎さんは、冷蔵庫から水を取り出して私に差し出すと、
その隣にゆっくり腰を下ろした。
「……緊張してる?」
やさしい声だった。
私は、水をひと口だけ飲んで、小さく首を振った。
「うん……ちょっと緊張してるけど、来てよかったって思ってます」
そう言ったあと、藤崎さんの目を、まっすぐに見つめた。
そのとき、彼が私の髪にそっと触れた。
ゆっくりと撫でるように指を通してから、頬に手が添えられ、 自然と瞼を閉じた。唇が、重なった。
やさしくて、あたたかくて、泣きたくなるようなキスだった。
(これが、キス……)
頭がじん、と痺れる。
肩に添えられた手の重み。
彼の匂い。体温。肌の熱。
――私は、今、ほんとうに彼に抱かれようとしている。
服の上から触れられるたび、心臓が跳ねた。
それでも逃げ出さなかったのは、怖さよりも、
彼に触れていたいという気持ちの方が強かったから。
ブラウスのボタンが、ひとつ、またひとつと外されていく。
藤崎さんは、私の表情を見ながら、何度も確かめるようにキスをしてくれた。
「……怖くない?」
私は、小さく首を振った。
「……大丈夫です」
震える声。
でも、それは迷いではなかった。
私は、彼の腕の中で、初めての夜を迎えた。
身体の奥が熱くなって、何度も呼吸が乱れた。
彼の動きは、想像よりもゆっくりで、やさしくて。
痛みもあったけれど、それすらも包まれるようで。
自分が女になっていくのを、ひとつひとつ、身体で知っていく――そんな夜だった。
名前を呼ばれたとき、思わず涙がこぼれた。
こんなふうに、大切にされるなんて思っていなかったから。
終わったあと、私はシーツにくるまりながら、彼の胸に耳を預けた。
静かな鼓動。
あたたかな肌。
「うれしかったです」
そう呟いた私の髪に、彼の手がふわりと触れた。
その夜、私は確かに“女”になった。
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