第4話 ふたりきりの夜

その日は、午後からずっと落ち着かなかった。


なにかが起こりそうな予感――

そう、勝手に思っていた。


夜の帳が下りたころ、店内はだんだんと静まり始めていた。

常連客たちも一人、また一人と帰っていき、私はカウンター越しにグラスを片づけ始めていた。


閉店時間も近づき、あと少しでシャッターを下ろそうとした、そのとき――

カラン、とドアが鳴った。


「こんばんは」


振り返ると、藤崎さんが立っていた。


(……え? こんな時間に?)


いつもなら早い時間に来て、軽く飲んで帰るはずなのに。

その日は閉店間際。すでに料理の提供は終了していた。


「ごめんなさい。もうお食事のラストオーダー終わっちゃってて……ビールぐらいしか出せませんけど」


「ううん、大丈夫。ちょっとだけ顔出そうと思って。お腹は空いてるけど、ビール一杯でいいよ」


その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。

(きっと、なにか話したかったんだ)


私はビールを注ぎながら、言葉を探した。


(あの時、麻里に背中を押されたことが頭に蘇った)


誘っていいのかな、迷惑じゃないかな――心臓がうるさいほどに脈打って、喉が渇いていくのがわかった。


でも、もうこのチャンスを逃したら、次はいつ来るかわからない。


勇気を振り絞って、グラスを差し出す。


「よかったら……店が終わったあと、少しだけごはんでも行きませんか?」


声が震えなかったのが奇跡だった。


藤崎さんは一瞬驚いたように見えたけれど、すぐに笑って「うん」と頷いた。


――そして、閉店後。


店を出た私たちは、近くの小さな居酒屋へ入った。

カウンターに並んで座り、私は緊張して箸も進まなかったけれど、

彼はそんな私の様子を見て、ふっと優しく笑ってくれた。


私は、箸を置いて、彼の横顔を見つめた。

心臓の鼓動が耳の奥で響く中、口を開く。


「……さっきの話だけど、その……ずっと言いたかったことがあって」


ごくりと喉を鳴らしてから、続けた。


「私……藤崎さんのこと、ずっと気になってました」


彼は箸を止めた。

そのまま、何も言わずに、私の方を見つめる。


「いきなり、こんなふうに言ってごめんなさい。驚かせちゃったよね」


「……ううん。ありがとう。言ってくれて」


やさしい声。


私は、意を決してもう一歩、踏み出した。


「それから……もうひとつだけ、言いたいことがあります」


「うん」


「私、まだ……誰とも、そういうこと、したことがなくて」


その瞬間、藤崎さんの表情が、ふっと変わった気がした。


「処女ってこと?」


私は、こくんと頷いた。


「……なんていうか、ずっと怖かった。でも、藤崎さんには……」


言葉の続きを飲み込んだ私を、藤崎さんはじっと見つめた。

その視線に、なにかを察したように、彼は少しだけ困ったように笑った。


「……うち、来る?」


私は、小さく、でもはっきりと頷いた。


もう迷いなんて、どこにもなかった。(麻里の言葉がなかったら、こんな風に積極的にはなれなかった)


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