カウンター越しの、あなたと私と、偽りの恋
凪野 ゆう
第1話 プロローグ
これは、私の恋の記憶。あの夜――私は、初めて“女”になった。
いま振り返れば、それは甘くて、そして少しだけ、ほろ苦い記憶。
カウンター越しに立つ私――凛花、23歳。
居酒屋の、しかも立ち飲み屋なんて、最初は不安しかなかったのに、気づけば、ここが“私の場所”になっていた。
毎日、変わらず顔を見せる常連たち。グラスを拭きながら交わす、何気ない会話。酔って大声を出す人もいれば、無言でただ飲むだけの人もいる。そんな空気に、いつしか安心している自分がいた。
でも――その中に、ひとりだけ、気になる人がいた。
藤崎さん。
口数は少ないけれど、優しくて、笑うとほんの少しだけ目尻が下がる。その笑顔を見たくて、私は彼が来るたび、無意識に視線を追っていた。
初めて声をかけたのは、たしか雨の日だった。濡れた傘をたたむ彼に、思わずタオルを差し出してしまって。
「……ありがとう」
そのときの声が、妙に胸に残っている。
それから、少しずつ会話が増えていった。でも、それでも彼のことは、何も知らない。年齢も、仕事も、住んでいる場所さえも。
それでも、惹かれていた。
そして――あの夜。
運命の一夜を共にする。酔っていたのか、気が緩んでいたのか。それとも、もう抑えきれなかっただけなのかもしれない。
私は、藤崎さんと一線を越えた。
初めての夜。ずっと“女”になれなかった私が、ようやく誰かの腕の中で、目を閉じることができた夜。
彼の体温、手のひらの重み、優しいキス。全部、鮮明に覚えている。
……ほんとはね。ずっと思ってたの。
23歳で、処女って――遅いのかな?恥ずかしいことなのかな?そんなこと、誰にも聞けなかった。
麻里みたいに明るくて恋愛に積極的な子に、いまさら「私、まだなの」なんて言えないし。
誰かに話せば、「意外」とか「うそ、まじで?」って、驚かれるか、笑われるか……。
そんなの、耐えられそうにない。
私、まだ処女だったの。それを、誰にも言ったことはなかった。だって恥ずかしかったし、言ったら笑われる気がして。
山口百恵さんの『ひと夏の経験』って曲に、「誰でも一度だけ経験するのよ」って歌詞があるけど、私はまだ、その“経験”をしていなかった。
早く誰かに抱かれてみたい、女として生まれ変わりたい――そんな気持ちはずっとあったのに、いざというときになると怖くて、逃げてしまっていた。
焦る気持ちと、不安と、自分への諦め。それでも私は、彼の優しさに救われた。あの夜、私はようやく“女”になれたんだと思う。
でも……あの夜から、何かが変わってしまった。
彼の口からふと漏れた“単身赴任”という言葉。それが、頭のどこかに引っかかっている。
聞きたいのに、聞けない。知りたいのに、知りたくない。
もしも――彼に奥さんがいたら?私のこの想いは、いったい何になるの?
これは、恋?それとも、ただの過ち?
わからないまま、私は今もカウンターに立っている。笑顔を作りながら、胸の奥が、少しだけ痛い。
これは、私が“女”になった夜から始まる――偽りの恋の、物語。
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