第六章 「君の声が、僕を変えた」
夏の終わり。空気にわずかに秋の匂いが混じりはじめたころ。
蓮は、会社の安全管理講習会に出席するため、都内の貸し会議室へ向かっていた。
「じゃ、グループワーク、始めてください」
淡々とした講師の声が響く中、蓮は周囲を見回す。
誰も話しかけてこない。目も合わさない。
蓮もまた、話しかける理由を持たなかった――そのときまでは。
「ねえ、あのチェックリスト、そっちにもありますか?」
少し高めで、でもやさしい声だった。
顔を上げると、短く整えた黒髪に、白いシャツが似合う女性が立っていた。
「……え、あ、あります。はい」
どこか慌てたように答える蓮に、彼女はふっと笑った。
「ありがとう。佐原 美月(さはら みづき)っていいます。よろしくね」
それが、彼女との出会いだった。
⸻
講習のあいだ、彼女は気さくに誰にでも話しかけ、場の空気をやわらかくしていた。
その明るさが、蓮にはまぶしかった。
休憩時間。窓際の自販機でコーヒーを買おうとしたとき、美月がまた話しかけてきた。
「蓮くん、って言ったよね?」
「……なんで名前、覚えてるんですか?」
「一番、声が小さかったから。なんか、気になったんだよね」
その無邪気な笑顔に、蓮は戸惑いながらも、少しだけ心を開いていた。
⸻
講習が終わる頃には、LINEを交換する流れになっていた。
蓮にとっては、それだけでも異例のことだった。
その夜、美月からメッセージが届いた。
「今日はありがとう。またどこかで会えたらうれしいな。
人見知りっぽいけど、話してくれてうれしかったよ!」
画面を何度も読み返す。
その文字は、蓮の心の奥の、固く閉ざされた扉を、静かにノックしていた。
⸻
―――数週間後。
「久しぶり。よかったら、夜ご飯どう?」
美月からの誘いに、蓮は躊躇したが、やがて「行きます」と返事を打った。
彼女が選んだのは、静かな定食屋だった。居酒屋でも、チェーンでもない。
「落ち着くから、こういうとこ好き」と美月は言った。
「ねえ、蓮くんってさ……辛かった時期、あったでしょ」
突然の言葉に、蓮は箸を止めた。
「……どうして?」
「なんとなく。目が、そういう人の目してる。私もね、ちょっとだけ分かるから」
美月の目は笑っていなかった。
その一言に、蓮は胸の奥にしまい込んでいた記憶を思い出した。
「……施設で育った。母が何度か逮捕されて。
もう、人との関係って、信じられないって思ってた。今もまだ、全部怖いよ」
言葉が、ぽつりぽつりと零れた。
それを、美月は黙って聞いていた。
「……でもね、話してくれてうれしい。
それって、もう一歩進めたってことだと思うよ」
静かな店の空気の中で、蓮は不思議と安心していた。
誰かに心を開くって、こんなに温かいことだったのかと、初めて知った夜だった。
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