第0話 月下ノ音

宵闇が神社の境内に帳を下ろし、提灯の朱い光がぽつぽつと灯り始める。祭りの最終日。夏の終わりの湿気が、肌にまとわりつくように重い。その熱気は、人々の高揚感とは裏腹に、悠斗の胸の内に微かなざわめきをもたらしていた。彼の意識の片隅には、この数日間の「狐の面をつけた少女」の姿が、忘れようもなく留まり続けている。


悠斗は、境内の隅、古びた手水舎の前に立っていた。三日前、宵宮の準備を手伝っていた悠斗が、ふと視線を向けたその場所に、彼女はいた。月光を浴びて、銀糸のような髪が揺れていた。それは、彼の目に焼き付くような、しかしどこか現実離れした光景だった。その瞬間から、彼の心に「あの少女は誰だろう」という問いが生まれ、常に考えを巡らせていた。


初めて彼女を見たとき、悠斗の心には微かな違和感が生まれた。日常の喧騒から切り離されたかのような、静謐な存在。そして、彼が視線を向ける度に、泡のように消え去るその姿。この違和感は、日に日に興味へと変質し、やがて彼の心の中で「彼女を知りたい」という感情の膨張を引き起こしていた。彼は彼女がなぜそこにいるのか、なぜ顔を隠すのか、彼の知的好奇心が内側から突き上げてきたのだ。


今日もまた、少女はそこにいた。月光に照らされたその姿は、まるで夢の続きのようだった。悠斗はゆっくりと、慎重に、まるで脆いガラス細工に触れるように、彼女へと歩みを進める。一歩、また一歩。彼の心臓は、いつもより速く鼓動を打つ。この鼓動は、彼自身も説明できない抗いがたい惹かれの表れだった。


祭りの喧騒が遠ざかり、二人を包むのは、ひっそりとした沈黙だけになった。少女は身じろぎもせず、悠斗の方へと顔を向ける。狐の面の奥から、僅かな視線を感じる。それは、彼の心を読み解こうとするかのような、静かで深い眼差しだった。


「あの、君…」


悠斗は、言葉を探した。何を、どう切り出せばいいのか。彼の頭の中では、様々な言葉が渦巻く。しかし、目の前の少女の存在が、それらの言葉を霞ませる。この感情的な戸惑いこそが、人間らしい心の動きだと、彼は知らず知らずのうちに感じていた。


すると、少女がゆっくりと右手を持ち上げた。その細い指に握られているのは、色とりどりの組紐。


「これ…あげる」


震える声だった。その声は、祭りの賑やかさとは隔絶された、澄んだ水滴のような響きを持っていた。悠斗ははっと息を飲む。その声が、彼の心の奥底に響き、得体の知れない感情が芽生えるのを感じた。それは「この優しい存在を守りたい」という衝動に似ていた。


悠斗は、差し出された組紐を、彼女の指先が触れないよう、そっと受け取った。それは、鮮やかな青と白で編まれた、小さな腕輪だった。組紐は、彼の掌でじんわりと温かさを放つ。


「これ、俺に?」


少女は小さく頷いた。その拍子に、狐の面がわずかにずれる。そこから覗いたのは、透き通るような白い肌と、憂いを帯びた大きな瞳だった。その瞳の奥には、深い悲しみが沈んでいるように見えた。悠斗の胸に、その悲しみがじんわりと伝播する。それでも、その瞳は、悠斗の心を掴んで離さない。彼の価値観が、この少女を理解し、寄り添いたいと明確に発動した。


「ありがとう。でも、どうして…」


言葉が途切れる。少女の瞳に、かすかな悲しみが宿るのを悠斗は見た。彼女の表情は、まるで遠い記憶を辿っているかのように、ぼんやりと焦点が定まらない。


「今夜だけは…人間になりたかったの」


彼女の言葉は、まるで月光が水面に映るかのように、儚く揺らいだ。悠斗の頭の中で、その言葉の意味が反芻される。「人間になりたかった」。それは、彼女が人間ではないという示唆なのか。彼の心の中で、理性的な思考と、目の前の少女への感情的な共感が激しくぶつかり合う。しかし、この説明しがたい矛盾こそが、彼女の存在をより特別なものにしていた。


少女は再び狐の面を直し、顔を隠した。その仕草には、何かを受け入れたかのような、静かな諦めが感じられた。それは、悠斗の心に、言いようのない焦燥感を抱かせた。


「もうすぐ、時間が来るから」


寂しげな声が、悠斗の胸を締め付ける。時間が来る、とは何を意味するのか。彼女がこの場所から、彼の視界から消え去ってしまうことを指すのか。彼の心に、微細な苛立ちと、納得できない沈黙が広がっていく。その沈黙は、彼女を引き留めたいという強い動機を、彼の内側で増幅させていく。


「待ってくれ!君は…」


悠斗は、彼女を引き留めるべく、思わず少女の手を取ろうと伸ばした。その指先が、彼女の腕に触れる寸前。ふっと、少女の体が淡い光に包まれた。


悠斗の目は、その光景を捉えることができなかった。光は一瞬にして弾け飛び、少女の姿は、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。残されたのは、ひんやりとした夜の空気と、彼の手に握られた組紐だけ。


祭りの喧騒が、再び悠斗の耳に届き始める。それは、彼が幻を見ていたとでも言うかのように、現実の音として響く。しかし、彼の手に残る組紐の感触だけが、あの出会いが紛れもない現実であったことを告げていた。


悠斗は組紐をぎゅっと握りしめた。彼の心には、初めて会った日から膨らみ続けていた感情の波が、今、確かな形となって宿っていた。彼女が何者であろうと、彼は彼女に惹かれ、彼女を知りたいと強く願っていたのだ。


翌朝。悠斗は、あの手水舎の前に立っていた。そこにはもう、少女の姿はない。しかし、彼の心には、あの夜の出来事が鮮やかに焼き付いていた。彼の胸には、「あの娘にまた会いたい」という、切実な思いが去来する。


「また、会えるかな…」


悠斗は、組紐を腕に結んだ。青と白の組紐が、彼の肌にそっと馴染む。それは、夏の夜の幻のような出会いと、彼の初恋の証だった。そして、悠斗の心には、彼女と再会し、その真実を知るという、揺るぎない決意が生まれていた。

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