下車
痛みは無かった。
真っ暗な世界の中、背中に何かが触れている感覚が伝わってくる。人の腕のような感触だが、それらしい温度は無い。
「お客様」
聞いた覚えのある声に呼ばれた。
それでようやく、自分が目を閉じていたのだと気が付いて、瞼を上げる。
タクシー運転手の顔が間近にあった。
「お怪我はありませんか?」
淡々とした声だ。
……こうして改めて見ると、何故か顔の判別が出来ず、ぼんやりとした印象しか抱けない。
私は驚いて「ああ、と」だの「うん」だの呟いてから、ようやく「大丈夫です」と答える。
「そうですか」
それだけ言うと、男は私の身体をゆっくり降ろした。背中に触れていたのは、男の腕だったのかと、どうでもいい事を考える。
床……では無く、地面に触れた掌と脚がヒヤリとした。秋の夜のアスファルトは冷えているのだなと、生まれて初めて知った。
周辺は未だ暗く、街灯だけが私達を照らしている。
いつの間にか、外に居た。
「三千二十二円です」
「……さんぜん?」
「はい。三千二十二円、です」
「……あぁ、すみません。今出します」
……そうだ、タクシーに乗ったのだから、お代を支払わなければ。
私は自分の財布を開く。丁度ぴったり手持ちにあったので、男の掌に差し出した。
「丁度頂きます。ありがとうございました」
「……こちらこそ、ありがとうございます……?」
未だぼんやりした頭のまま、辺りをキョロキョロと見ると、後ろで出水と服部が転がっていた。二人とも気を失っているが、寝顔が穏やかだったので安心する。
よくよく目を凝らすと、私達の背後にある建物は、出水の暮らす木造二階建てのアパートではないか。
――そこでようやく、ハッと気が付き、慌てて男の方へ視線を戻す。
男はタクシーに乗り込むところだった。既に前方のドアを開き、私に背を向けている。
「待ってください!」
私は彼を引き止めようと、立ち上がり声を掛けた。
しかし何と続けるべきなのか。
目的地に着いた事への感謝。注文した料理が提供されなかった事。最後に急停止したのはなぜか。あのお冷はただの水なのか。
尋ねる事は山程あるだろう――
「……」
――けれど、振り返った男の顔を見てしまう度に、頭の中がぼんやりと霞みがかったようになる。
顔の見えない男は、私の返答が無いのを確認してから、一文字に閉ざされた口を開く。
抑揚の無い、穏やかな低い声だった。
「――またのお越しを、お待ちしております」
男がタクシーに乗り込み、発進してしばらく経つまで、私はその場で、ぼうっと立ち尽くしていた。
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