【ヘイト】憎悪は快楽である、人はそれを実は楽しんでいる。そのことを自覚しないと、対話も共存もない
晋子(しんこ)@思想家・哲学者
人は被害者の顔をしながら、実際には加害者となり、憎悪し、暴力を正当化していく
人間はなぜ、これほどまでに他者を憎悪するのだろうか。人種によって、国によって、宗教によって、文化によって、果ては服装や言語の違いだけでさえ、私たちは互いに嫌い合い、罵り合い、殺し合ってきた。憎悪は個人的な感情のように見えて、実は社会的に量産された毒でもある。そしてその毒は、ただの感情ではなく、明確な暴力の衝動を孕んでいる。憎悪とは、暴力への許可証である。
本来、人は他人にそこまで関心など持っていない。ましてや異なる民族、異なる国の人間など、生活の中で直接的に害を受けることもない者に対して、なぜここまで強い敵意を抱くのだろうか。それは「本当に憎いから」ではなく、「憎んでいい理由が社会に存在しているから」である。つまり、憎しみは“自然発生”ではなく、“条件づけ”によって生成されている。私たちは生まれながらに誰かを嫌うのではなく、「嫌うべき対象」を教育され、刷り込まれ、それを当然のように抱え込んでしまう。
この構造において、最も卑劣な点は、憎悪が「正義」や「被害者意識」にすり替えられていることである。誰かを憎むとき、人間はしばしば「自分は被害者である」と語る。過去の侵略、差別、犯罪、文化的衝突。確かにそれらは無視できない歴史的事実であるが、その事実が「いま他人を憎んでいい」という免罪符になるわけではない。にもかかわらず、人は被害者の顔をしながら、実際には加害者となり、暴力を正当化していく。ヘイトスピーチもまた、こうした欺瞞の上に成立している。「私は正義の側に立っている」という錯覚が、最も恐ろしい暴力を生むのだ。
そもそも「ヘイト」とは何か。それは単なる感情の発露ではない。それは“他者を集団として記号化し、その存在価値を否定する言語的暴力”である。ヘイトスピーチは、単に「嫌い」と言うだけではない。それは「お前たちは劣っている」「お前たちは過去に罪を犯した」「殺されても当然だ」というメッセージを含んでおり、しかもそれを「公然と」発することによって、個人の命や尊厳を削り取る。ヘイトは、集団を記号化して呪詛し、全体を否定する。そして、それを行っている本人たちは、「自分が悪いことをしている」とはまったく思っていない。「真実を言っているだけ」「当然のことを言っている」「危機感を煽って何が悪い」などの言葉を並べ、自分の加虐性を正当化する。その心の底には、「暴力を振るいたい」という欲求が潜んでいる。
ではなぜ、人はそこまでして他人を憎みたいのか。それは、憎悪が快楽をともなうからである。暴力や差別、支配という行為は、優越感をもたらす。自分が上に立てる、自分が正義になれる、自分が力を持っていると錯覚できる。つまり、憎悪とは“快楽をともなった自己肯定の手段”なのだ。これほど強力な麻薬はない。理性ではなく情動、論理ではなく衝動。だからこそ、人間は憎しみをやめられない。そして、やめようともしない。
さらに重要なのは、憎悪は個人的な感情として閉じていないという点である。憎しみは伝染する。SNS、メディア、教育、宗教、そして国家。それらが“共通の敵”を作り出すことで、憎悪は集団的な熱狂へと変質する。そこではもはや個人の理性は機能しない。敵を罵倒し、排除し、迫害し、攻撃することが“正義”とみなされ、集団の結束が強化される。戦争がそうであり、民族浄化がそうであり、ヘイトクライムがそうである。
そして、ここに恐ろしいパラドックスが生まれる。人間は、「正義のために戦っている」と信じながら、実は「自分の欲望を満たすために」暴力を振るっている。祖国のため、伝統のため、子どもたちの未来のためと語りながら、実際には「ただ暴れたい」「ただ奪いたい」「ただ憂さ晴らしがしたい」というだけではないのか。まるで、憎悪を装った娯楽であるかのように、人はヘイトを楽しんでいる。その言葉に血が通っていなくても、殺意は十分に宿っている。
そして何より恐ろしいのは、そうした憎悪が“自分とは無関係なもの”に向けられているという事実だ。直接的に害を受けていない相手を、まるで予防接種のように攻撃する。これは自己防衛ですらない。ただの娯楽だ。ただのストレス発散だ。ただの空虚な人生の埋め合わせだ。人は、日々の不満や絶望や孤独を、他者への憎悪にすり替えて生きている。それが現代人の姿だ。
結局のところ、多くの憎悪とは「正義に見せかけた私利私欲」「大義に見せかけた快楽」でしかない。それは社会から与えられた役割を演じているにすぎず、本人の感情ですらない場合もある。だからこそ、私たちは問わなければならない。「なぜ憎んでいるのか」「本当にその相手を理解しているのか」「その怒りは自分のものなのか」と。
憎悪は人間にとって最も安易で、最も根深い暴力の形である。そして、その憎悪が「自分は正しい」「自分は被害者だ」という幻想によって強化されるとき、そこに真の悪が生まれる。ヘイトとは、その幻想の最も露骨な現れであり、人間のもっとも醜い本性の表現である。
私たちはまず、憎むことの快楽から目を逸らさず、それを自覚するところからしか、本当の対話も、共存も始まらないのだ。
【ヘイト】憎悪は快楽である、人はそれを実は楽しんでいる。そのことを自覚しないと、対話も共存もない 晋子(しんこ)@思想家・哲学者 @shinko
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