第17話

 カルワラ州のスディルマン公の邸宅は、夕暮れの光に穏やかに輝いていた。

 椰子の木々がそよぐ庭園を抜け、邸宅の門に一台の黒い自家用車が滑り込んだ。

 ロシタワティ夫人が、王都での用事を終え、帰宅したのだ。

 気品ある美貌に、貴族社会の誇りを湛えた彼女は、運転手から荷物を受け取りながら、どこか満足げな笑みを浮かべていた。

 だが、車から降り立ったのは彼女だけではなかった。


 ロシタワティ夫人の後ろには、プレマワティの兄、バグス・ハルサが立っていた。

 精悍で知的な顔立ちのハルサは、サンタルガの王太子、アリア・キラン殿下の秘書として王都に住む将来有望な貴族令息である。

 長身で、落ち着いた物腰の中にも王都仕込みの洗練された雰囲気を漂わせていた。


 玄関で出迎えたプレマワティは、母と兄の帰宅に驚きながらも、温かな笑顔を見せた。


 「お母様、お兄様、お帰りなさいませ! 王都でのご用事は無事にお済みでございますか?」


 ロシタワティ夫人は、娘の肩を軽く叩き、得意げに言った。


 「プレマ、王都では、王后陛下と有意義な話ができました。ハルサ、あなたからプレマに話してあげてください」


 ハルサは、妹に穏やかに微笑み、しかしその瞳にはどこか真剣な光が宿っていた。


 「プレマ、実は、王太子殿下がお前に会いたいと仰ってるんだ。殿下は、サンタルガの未来を担う若者たちと交流したいと考えておられて、その中でもお前に興味を持たれたんだ」


 その言葉に、プレマワティは目を丸くした。


 「キラン殿下に……私を? お兄様、なぜ急にそんな話に?」


 彼女の声には、驚きと戸惑いが混じっていた。

 彼女の心には、勇との出会いと、秘密の祠で交わした想いがまだ熱く残っていた。

 アリア・キラン殿下――国民からも慕われる魅力的な王太子――との面会は、サンタルガの貴族女性として名誉なことだったが、彼女の魂は別の光を追い求めていた。


 ロシタワティ夫人は、目を輝かせて娘の手を握った。


 「プレマ、キラン殿下は、サンタルガの次代を担うお方。あなたが、殿下にお会いするのは当然のことです。スディルマン家の誇りともなるでしょう」


 彼女の声は、貴族社会の価値観と、娘を名門に結びつけたいという野心に満ちていた。


 スディルマン公は、広間のソファに座し、家族の会話を静かに聞いており、平静を装っていたが、内心では警戒心が芽生えていた。

 プレマワティと勇の縁談を、ロシタワティ夫人にはまだ知らせていない。

 彼女が外国人との結婚を厭うサンタルガ貴族の伝統を盾に反対することは明らかだった。

 だが、キラン殿下との面会となれば、話はさらに複雑になる。

 スディルマンは、娘の幸せを第一に考える父として、慎重に状況を見極めなければならなかった。


 「ハルサ、プレマ」と、スディルマンは穏やかだが落ち着いた声で割って入った。

 

 「キラン殿下との面会は、確かに名誉なことだ。だが、プレマの気持ちを尊重することも大切だ。急な話だ、ゆっくり考えようではないか」


 プレマワティは、父の言葉にほっと胸を撫で下ろした。


 「お父様、ありがとうございます。私は……殿下にお会いすることは光栄ですが、今はまだ、心の準備が……」


 彼女の言葉は、勇への想いと、女神への信仰の間で揺れる心を映していた。


 ロシタワティ夫人は、眉を軽く上げ、不満げに言った。


 「プレマ、このような機会は二度とないでしょうから、どうか私たちの願いを承諾してほしいのです。ハルサもそう思いますでしょう?」


 ハルサは、妹を見つめ、柔らかく答えた。


 「プレマ、お母様と俺はお前の幸せを願っている。殿下に会うことが、お前の道を広げるかもしれない。だが、お父様の仰る通り、急がなくていい。自分の心に正直でいてくれ」


 その言葉に、プレマワティは小さく頷いたが、内心では勇の顔が浮かんでいた

 「またお会いできますか?」――空港での涙と約束が、彼女の心を離さなかった。


***


 その夜、プレマワティは家寺で母なる女神に祈りを捧げた。


 「慈母よ、私の心を導きたまえ。勇様への想い、そして新たな道……あなたの光が、私の進むべき道を示してくださることを」と、彼女の祈りは星空に響いた。


 スディルマン公は、書斎で一人、勇との縁談とキラン殿下の提案を思案していた。

 彼の心は、娘の幸せと、サンタルガの伝統の間で揺れていた。

 「プレマ、お前の光を守りたい」と、彼はそっと呟いた。


 遠く東京では、勇がプレマワティの微笑みを思い出し、再びカルワラに戻る日を心に誓っていた。


 チャハヤワティの導きは、新たな試練を前に、二人の魂をさらに強く結びつけようとしていたのであった……

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