第8話
カルワラの海辺に佇むチャハヤワティ女神の寺院は、創立祭の朝、華やかな賑わいに包まれていた。
石造の苔生した壁は朝露に輝き、芳しい南国の花々で飾られた祭壇には、漁民たちが捧げた果物や甘菓子、魚の干物などの供物が溢れていた。
ガムランの音色が空気を震わせ、村人たちの笑顔が寺院の中庭を彩る。
スディルマン公は、勇と隆を連れて寺院に到着した。
州知事は穏やかな笑みを浮かべ、勇に語りかけた。
「勇殿、今日は寺院の創立祭です。サンタルガの信仰と文化を、存分に感じていただけるでしょう。そして、娘のプレマワティも奉納の舞を務めます。どうか、ゆっくりご覧ください」
勇は頷いたが、胸の鼓動は抑えきれなかった。
プレマワティに会う瞬間が近づいている。
隆は、落ち着いた眼差しで勇を見やり、そっと微笑んだ。
「副社長、本日が素晴らしい一日になりますよう、お祈り申し上げます」
中庭に設けられた舞台では、祭りの儀式が始まっていた。
参詣に集まった村民たちを、巫女見習いのインタンが先導し、司祭パラマトマの祝福の言葉が響き、巫女ダルシャナが
やがて、ガムランの音が高まり、儀式のクライマックス――奉納の舞が始まった。
プレマワティが舞台に現れた瞬間、場が静まり返った。
彼女はいつもの質素な白いケバヤではなく、金糸の刺繍が施された伝統的なサンタルガの
類稀なるエキゾチックな美貌は、まるでチャハヤワティ女神の化身のように輝き、ジャスミンの花飾りが舞の動きに合わせて流れる。
彼女の手は優雅に弧を描き、足はガムランのリズムに合わせて軽やかに踏みしめる。
その姿は、神聖でありながら、魂を揺さぶる美しさだった。
勇は、言葉を失った。
彼女の舞は、単なる儀式を超え、まるで天と地を結ぶ祈りのようだった。
彼女の瞳には、チャハヤワティへの深い
勇の心は、初めて信仰というものの深さに触れ、圧倒された。
隆は、呆気に取られた勇の様子を見て、くすりと笑った。
「副社長、まるで魂を奪われたようなご表情でいらっしゃいますね。プレマワティ様の舞、誠に素晴らしいものでございます」
勇は顔を赤らめ、照れ隠しに咳払いした。
彼は、あまりの感動と戸惑いに震えていたのだ。
***
舞が終わると、プレマワティはムラティ、ハストゥティと共に祭壇の前に進み、チャハヤワティ女神への讃歌を捧げ始めた。
ヘンダルトもまた、ガムランの演奏に加わり、金属的な音色を響かせる。
プレマワティの声が、流麗に響き渡った。
至高の女神、聖にして永遠なる御母
世界を照らす光、我が魂の清浄を冀わん
願わくば我が魂、汝の光と一体とならんことを
プレマワティの声は、清らかで力強く、まるで海の波のように広がった。
ムラティとハストゥティの軽やかな明るい声も重なり、讃歌は天に届く祈りとなった。
ヘンダルトのガムランは、力強くも繊細に響き、プレマワティの歌を支えていた。
彼の瞳は、プレマワティを見つめ、秘めた想いを音に込めた。
だが、彼女は気づかず、ただ女神に心を捧げていた。
勇は、プレマワティの讃歌を聴きながら、彼女の信仰の深さに心を奪われた。
慈愛の娘の歌と舞は、勇の魂の奥底に眠る何かを揺さぶった。
彼女の存在は、単なる美しさや高潔さ以上のもの――まるで神聖な光そのものだったのだ。
***
儀式の最後に、プレマワティは祭壇の前で跪き、最後の祈りを捧げた。
村人たちが静かに見守る中、彼女がゆっくりと立ち上がり、振り返ったその瞬間――彼女の瞳と勇の瞳が、初めて交差した。
時間は止まり、ガムランの音も、波の音も、すべてが遠のいた。
プレマワティの瞳は、深く、清らかで、まるで星の光を宿しているようだった。
勇の胸は高鳴り、彼の瞳には、彼女の魂の輝きが映り込んだ。
彼女もまた、勇の誠実な眼差しに、ほのかな驚きを感じた。
それは一瞬だったが、まるで永遠のように長く、魂と魂が触れ合うような瞬間だった。
プレマワティは、すぐに視線を逸らし、祭壇の方へ向き直った。
勇もまた、タカシに促され、席に戻ったが、彼の心はまだその一瞬に囚われていた。
「あれは……なんだ?」
彼は自問したが、答えは見つからなかった。
ただ、彼女の瞳が、勇の心に消えない光を刻んだことだけは確かだった。
スディルマン公は、二人の間に流れた微かな波動を感じ、穏やかに微笑んだ。
「勇殿、プレマワティの舞、いかがでしたか?」
勇は、言葉を探しながら答えた。
「……閣下、失礼いたします。プレマワティ様はまことに見事でございます。まるで……女神の光そのものでございます」
勇の言葉に、スディルマン公は満足げに頷き、隆も安堵していた。
プレマワティは、ムラティとハストゥティに囲まれ、村人たちと笑顔で言葉を交わしていた。
だが、彼女の心には、勇の眼差しがかすかな波紋を残していた。
「あの方は……お父様の客人かしら?」
彼女はそっと呟き、チャハヤワティへの祈りを心の中で繰り返した。
二人の魂は、初めて触れ合った。
チャヤワティの導きは、その糸をさらに強く、確実に紡ぎ始めていたのであった……
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