公女の祈り 〜女神は純愛がお好き〜

レスタリ

プロローグ

 ジャワ島の南下に浮かぶ小国サンタルガ。

 その島国の東に位置するカルワラ州の緑豊かな土地に、夕陽が金色のヴェールを投げかけていた。

 薄暮の椰子の木々がそよぐ風に揺れ、遠くの海から潮の香りが運ばれてくる。

 カルワラの州都、パドマサリの街を見下ろす丘の上に、この島の人々が篤く仰ぐ光輝の女神チャハヤワティの小さな祠が佇んでいた。

 女神像は慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、訪れる者を静かに見守っている。


 その祠の前に、純白のケバヤをまとった一人の女性が跪いていた。


 アユ・プレマワティ――愛称プレマ。


 サンタルガの貴族の令嬢でありながら、彼女の姿には高慢な気配が微塵もない。

 白い木綿のケバヤは簡素で、飾り気のない布が彼女のしなやかな肢体を包み、風に軽やかに揺れている。

 長い黒髪はゆるやかに結ばれ、夕陽の光を受けて琥珀色に輝いた。

 彼女はエキゾチックな美貌と類稀なる優美さに満ち、その瞳には深い思索と祈りの色が宿っていた。


 プレマワティは目を閉じ、両手を胸の前で合わせ、静かに祈りを捧げていた。

 チャハヤワティ女神への献愛バクティは、彼女の人生の中心であり、魂の支えだった。

 彼女の唇が小さく動き、聖句が囁かれる。


「万物の慈母たる大女神マハデウィよ、我が魂を浄め、我が心を導き給え。無明アウィディヤ我執アハンカラの闇より我を救い、叡智ジュニャーナ慈悲カルナの光を授け給え」


 彼女の声は、まるで風に溶けるように柔らかく、しかしその奥には揺るぎない信念が響いていた。

 カルワラの州民にとって、プレマワティはただの貴族の娘ではなかった。

 彼女は農民の田を訪れ、漁民の船に乗り、孤児たちに読み書きを教える姿で知られていた。

 彼女の手は、貴族のそれとは思えぬほどに土と海の香りを帯び、しかしその仕草には気品が宿っていた。

 民は彼女を「慈愛の娘」と呼び、チャハヤワティの化身のように慕った。


 だが、プレマワティの心には、静かな悩みが宿っていた。

 彼女の父、バグス・スディルマン公は、穏やかで思慮深い世襲州知事として州民から愛されていたが、最近、彼女に一つの提案を持ちかけていた。

 縁談――それも遠く日本に本拠を置く天宮家の御曹司、天宮勇あまみやいさむとの縁談だった。


「プレマ、私は結婚を強いるつもりはない。だが、彼はそなたの心と魂にふさわしい相手かもしれない」


 父の言葉は優しかったが、プレマワティの胸には複雑な思いが去来した。

 彼女は恋愛というものに疎く、むしろ女神への信仰と、民のための奉仕こそが自分の使命だと信じていた。

 結婚という世俗の絆が、彼女の魂を女神から遠ざけるのではないか。

 そんな不安が、祈りの合間に彼女の心をよぎった。


 祠の前で、プレマワティは深く息を吐き、立ち上がった。

 夕陽が地平に沈み、空は紫と藍のグラデーションに染まる。

 彼女は祠の女神像を見つめ、そっと微笑んだ。

 「私めをお導きください、至聖なる女神さま」と呟き、丘を下り始める。

 彼女の足取りは軽やかだったが、その心にはまだ見ぬ未来への予感が、かすかな波紋のように広がっていた。


***


 同じ時刻、遠く日本の東京、銀座の喧騒を抜けた高層ビルの最上階。

 天宮エンタープライズの本社オフィスで、天宮勇は窓辺に立ち、夜の街を見下ろしていた。

 雄々しく精悍な顔立ち、180センチを超える長身、完璧に仕立てられたダークスーツが彼の存在感を際立たせる。

 だが、その瞳には深い倦怠と、抑えきれぬ苛立ちが宿っていた。


 デスクの上には、経済誌が彼を「若き天才副社長」として称賛する記事が広げられていた。

 だが、勇はそれを一瞥いちべつするだけで顔をしかめた。

 「嘘ばかりだ」と呟き、雑誌をゴミ箱に放り込む。

 彼の手には、祖父・天宮毅あまみやこわしからの書類が握られていた。

 そこには、サンタルガの貴族令嬢、プレマワティとの見合いの提案が記されていた。


「俺は、祖父の操り人形になるつもりはない」


 勇の声は低く、しかしその言葉には抑えきれぬ反発が滲んでいた。

 天宮家の御曹司として、彼の人生は完璧に見えた。

 美形ハンサムで、富裕リッチで、高学歴。

 女性たちは彼を追いかけ、メディアは彼を祭り上げる。

 だが、彼の心は空虚だった。

 交際した女性たちはみな、打算と虚飾に満ち、彼の地位や財産にしか興味を示さなかった。

 恋愛はいつも失望に終わり、彼は自ら関係を断ち切ってきた。


 本当は、勇にも夢があった。

 高校時代、部活動レスリング部で汗を流し、仲間と共に勝利を掴んだ日々。

 あの頃、彼は教師になることを夢見ていた。

 子どもたちに、努力と誠実さの価値を教えたかった。

 だが、祖父・毅の強い意向で、彼は天宮エンタープライズの副社長に据えられた。

 祖父の威圧的な眼差しと、「天宮家の名を継ぐ責任」を繰り返す声に、勇は自分の夢を押し込めてきた。


 彼は窓に額を寄せ、冷たいガラスに触れた。

「俺は、こんな人生を望んだわけじゃない」と呟く。

 だが、その声は誰にも届かず、夜の東京の喧騒に飲み込まれてしまう。


 書類に記された「プレマワティ」という名を、勇は無意識に指でなぞった。

 サンタルガの慈悲深き公女。

 どんな女性なのだろうか。

 祖父が選んだ相手など、所詮は政治的な駒に過ぎない。

 ――そう思い込もうとしたが、なぜか彼の心には、かすかな好奇心が芽生えていた。


***


 カルワラの丘で祈るプレマワティと、東京の夜を見下ろす勇。

 二人の魂はまだ交錯しない。

 だが、女神チャハヤワティの光輝が、静かにその糸を紡ぎ始めていた……

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