はじまりのあと ⑤

 だって、あいつは『鬼』だから。


 『鬼』は恐ろしいことをする存在だから。


 ただいるだけで、周囲の人間を脅かすのが『鬼』だから。


 それだけで、充分だった。

 あいつは邪悪な存在だから。

 後ろ指をさされて当然の奴だから。

 皆が忌み嫌うだけの相応の理由があるから。

 こうなってしまえば、もうどうしようもなかった。


 それ以降、あたしは絶対的な差別の対象となった。


 お前だけが苦しめばいい。

 お前だけで苦しんでいればばよかったのに。

 本当に、そう言われている気がしてならなかった。

 大義名分さえ得れば、人はここまで残酷になれるのだ。いっそ感心する。

 あたしがどんな思いで生きてきたかなんて分からないくせに、その末にどういうことをしでかしたのかをも知らないくせに。何も分かろうとしないまま、知ろうとしないまま、ただただ悍ましいものとして扱ってくる。

 まるで学園から公認でもされたかのように。

 教職員も生徒たちも一丸となって、あたしを忌まわしい『鬼』として扱った。

 何より苦しかったのは、憶測で根も葉もない噂をされることではなかった。

 どう言い訳を重ねようと結局、それが動かしようのない事実であること。


 あたしは、人殺しの『鬼』だった。


            ※


 致命的なはじまりから月日は経ち、あたしは三年生の冬を迎えた。

 その頃には弟が四歳になっていて、夜泣きも癇癪の数も減っていた。

 なんであれば、昔のあたしに似たえへらとした笑みを良く浮かべている。


 かわいらしいものだった。


 ここまで窮まったあたしでも、一瞬その感情が去来する程に。

 その手が拭いきれない穢れだらけなのを忘れて、撫でてしまうくらいに。

 言うまでもなくお母さんの精神は安定していって、そうすると分類上は父親とされるあの男だって、あたしを裏で辱めるようなことは激減した。人並みに父親らしいことさえしてみせてた。全部が嘘だったというかのように。

 長塚家は安寧を取り戻して、ありふれた家族のように振る舞っている。

 強いていうなら問題は、あたしが美成瑚学園に通っている割には落ちこぼれの不良娘というところであろうか。成績も出席日数もずっと低空飛行で、志望校の紙なんて未だに提出していないし、どこに行くかも言わずにほっつき歩いていた。

「なあに、親を弟に取られてグレてるんだろ。ほっといてやれ」

 父親とされるあの男がそう言ったとき。

 本当に、で殺そうか迷った。

 かろうじて踏みとどまったのは、人が凄まじい力で圧縮されていくあの音が嫌だったから。自分が人では無くなっていく現状も恐ろしいけれど、簡単に人から命が抜け落ちてどろりとした液体になるのはもっと恐ろしい。

 もう二年以上前のことだけど、鮮明に覚えている、

 未だにあの瞬間を思い出して吐きそうになる。

 そして耐え難い嫌悪感を催すのだ。



 あたしは弟の面倒を見ていられる時以外は、唯一の安息所である夏希の部屋に入り浸っていた。夏希とあたしはずっとずっと前から運命共同体になっている。

 あたしは深く寝入った夏希の横顔を見つめていた。

 やっぱり、彼女は凄い人だと思う。

 こんなあたしなんかに付き合う義理なんてないのに。

 あったとしてもそんなものかなぐり捨てたるのが普通だろうに。

 もこうして一日ごとに『鬼』を交換し合っている。

 でも、『鬼』の症状は、留まることを知らなかった。

 『鬼』を宿す時、あたしは多分全身が散り散りになっている。他に表現しようがない。細胞一つ一つが破れる感覚でそうとしか思えない。激痛はもう何ヶ月か前に通り越して、今は明確に自己を喪失していっているという恐怖の方が強かった。

 もちろん傍からみれば、あたしの肉体は確かにそこにある。

 それでも『鬼』である時――

 あたしの肉体は全身余す事無く裂けて千切れていて、そこから何か大事なものがぼうぼうと霧散していて、あたしがあたしである感覚は希薄になるのだ。

 この先に、どこへとたどり着くのかは分からない。

 ただ、あたしよりも何回りも大きな輪郭を感じる。

 あたしは決してそれを動かしてしまわないよう、きつくきつく抑え込んでいる。そうすればするほどに息が出来ないくらいに苦しい。でも、ありとあらゆる細やかな感情が爆発のトリガーとなってしまうから、あたしは出来る限り心を殺す。

 

 あたしの我慢を嘲笑う誰かの声が聞こえる。幻聴だ。あたしの努力が無駄だと言うかのように、腕が筋張り汚泥に塗れたものになる。幻覚だ。

 あたしが見つめるものは、美しい夏希だけ。


 窓の外には、青白い月が浮かびはじめている。


 辛うじてあたしがその精神を破綻しないでいられるのは、同じ状況で泣き言もなく耐え続けている夏希がいるから。こんな壊れかけの精神なんてさっさと破綻させて堕ちるだけ堕ちてしまった方が楽なのに、そうしないのも夏希がいるからだ。

 それで、最近はどうするべきなのかをずっと考え続けている。

 もう来月には卒業になってしまう。

 先延ばしにし続けることも、もう出来ない。


            ※


 貴杭中央駅、六時二十二分発の通学バス。

 出来るだけ早いバスを選んでいるのは、他の生徒たちに迷惑を掛けないため。恨まれるようなことは避けるようにしている。

 ふらつく夏希の、その手を強く握って乗り込んだ。

 運転手は決して目を合わせず、あたしたちしか乗っていないのにすぐにドアを締めて出発する。あたしたちがいる以上、誰も乗ってこないと分かっているから。

 貸し切りとなった後部座席で、二人で身を寄せ合った。

 俯いた夏希のマフラーを巻き直してあげる。

 言葉はいらなかった。


 出来る限りは、学園に通うようにはしている。

 どんなに『鬼』の症状が酷かったとしても、だ。


「夏希、大丈夫?」

「うん……頑張る……」

 まだ昇りきらない朝日は弱々しく、学園へと続く道もまだ薄暗い。

 藍色が支配する、人影のない田舎道と鬱蒼と茂る山の際。

 まるで世界が終わってしまったかのような風景だ。

 農道を歩いて言った先、分岐路にある道標。

 橋の下の小川のせいか、ひどく

『◁美成瑚学園 コノ先二〇〇米』

 そこからの坂道を昇っていく度に、信じられないことなのだけれど、『鬼』の症状は少しだけ緩和するのだ。それがどういう理由なのかは分からない。もしかするとだけど、祠に祀られた鬼が、あたしたちを近くで観察したがっているのだろうか。

 授業ではあたしたちは置物だった。

 教室内では生徒どころが、先生たちだって話しかけてこない。いるはいるのだけれど、いないに等しい。まるで幽霊のような存在。皆が折り目正しく先生の話に集中して、あたしたちという異物から目を逸らし続けている。

 でも彼らには、の時のような緊張感はない。

 恐れて忌み嫌ってこそいるものの、もう分かっているからだ。

 あたしたちが、他人に伝染うつそうとしないことを。

 いつだったか、お前だけが苦しめばいいと言われている気がしてならなかった。それは間違いだった。気のせいでもなんでもなかった。直接伝える以外のありとあらゆる手段を用いて、彼らは全身全霊で意思を示し続けてきた。

 お前だけが苦しめばいい。

 あたしたちだけが苦しんでいる限りは、彼らの平穏は続く。

 見方によっては、そこらへんの荒れた学校より過ごしやすいんじゃないか。

 だって、そうだろう。

 あたしたちという、絶対的ながいるのだ。

 全ての悪意を向けてもいい、むしろ向けることを推奨される存在。

 自分たちが怯えて過ごさなければいけないのは、あいつらのせい。勉強くらいしかすることができないのだって、あいつらのせい。きらきらした青春時代を封じられ、だけど非行に走ることも出来ない、制限だらけの学園生活を強いられるのはあいつらのせい――。

 全ての不幸を、誰かのせいに出来る。

 あいつのせいだと指差して憎んでいい。

 全部全部、あたしたちという『鬼』のせい。

 ある意味、これほど心が安らぐことはないはずだ。

 いじめやトラブルなんて起こりようもない。皆が皆、仲良しこよし。傍目からみれば極めて平和で、穏やかで、真面目に過ごすだけ。だって皆が憎しみを向けて排斥すべき、忌まわしい最下層――が実在するから。

 美成瑚学園の生徒たちは、本当に良い子だ。

 気品があって、聡明で、大人びている。

 別に、先生たちは勉強を教えること以外は、何にも生徒に干渉しない。

 むしろあたしたちが何をどれだけ訴えようと、放ったらかしにする。

 だって『鬼』がいる限り、生徒たちは品行方正でいてくれるから。


 あたしは『鬼』になってから、ずっとずっと考え続けてきた。

 問題のは、誰に伝染うつすのかというところだ。

 二年になって、新入生が入ってきたとき。

 三年になって、また新入生が入ってきたときも。

 チャンスは二度あった。だけどどの時も、夏希は言ってこなかった。

 それはつまるところ、彼女にとってそなのだ。

 夏希は、真っ直ぐで、格好良くて、素敵な人だから。

 だから、あたしも、何も言わなかった。

 タイミングを逸し続けてきた。


 あたし独りが悪いことをするのは構わない。

 所詮は普通ではない汚れた人間だ。

 だけど、夏希だけは違う。


 だからずっと、考えている。

 お昼休みになると、あたしたちはそっと人目を避けるように三階北の奥のトイレへと向かう。そうすると皆があからさまにほっとする。あたしたちが去った瞬間、教室に満ち満ちたよそよそしい空気も緩和するのだろうか。

 排斥されたあたしたちは、トイレで『鬼』のバトンタッチをする。

 お昼は極力食べない。最近は伝染うつす時の衝撃で吐いてしまうこともあるから。

「さ、夏希。いいよ」

 あたしは口にハンカチを押し込んで、準備した。

「…………どのこを、ことろ、このこを、ことろ」

 夏希の一言であたしの中の血管全てが詰まっていき、ありとあらゆる傷が開いていくような痛みを味わった。頭蓋にコンクリートを流し込まれたように頭が重くなって、食道をせり上がってくる胃液を必死に飲み下して奥歯を食いしばった。

 我慢しようと思ったのに、呻いてしまった。

 でも、ここからが踏ん張りどころだ。

 何故か毎回罪悪感に塗れた顔をする夏希を前に、あたしはハンカチを取り除いた後、


「……なんかさ、もう飽きちゃった」

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