はじまりのおわり ⑤
でも、それはできなかった。
博彦は唐突に食卓を蹴り飛ばして、
うぎゃああああああああああああ
まるで山猿がするような耳障りな雄叫び。
私は頭の上から足のつま先まで、隙間なく総毛立った。
滑り落ちた皿は音を立てて割れ、夕食の品々が床へとへばりついていく。博彦はこんなことをしない。だって、憧れの紺ブレで、美成瑚の中等部を首席合格して、輝かしい未来が約束された。私が人生を賭けるに値する、誇らしい私の息子なのに。
そうだと言うのに、それを、気色悪いとさえ感じた。
「博彦、やめっ、やめぇやっ!」
博彦はなお叫び、暴れ続ける。まるで何かに取り憑かれたかのように。支離滅裂な言葉を発しては地団駄を踏んでその脂ぎった頭を掻きむしって全身を震わせる。私が直接暴力を受けなかったのはただの偶然だろう。
これは、本当に、博彦なのか?
私はただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
それからある種のショック状態に陥った博彦は、喋らなくなった。
二階の自室に鍵をかけて閉じこもり、そこから出ようとしない。
だから結局、学校を休ませ続けるしかなくなってしまった。
父が言うには、こういうことだった。
私が博彦に学校を休むことを許可したあの日。
部屋から出てきた博彦は奇妙な相談をしてきたのだという。
『じいちゃん、鬼ってさ、本当にいるのかな――?』
博彦が学園の七不思議を調べているということを、父は知っていた。
そういうものに惹かれる年頃なのは分かるが、好ましく思っていなかった。だから、ここらで一度本気で怯えさせてそういうものへ忌避感を持たせようとしたそうだ。
父は、鬼喰山の伝説のことを話した。
古くから伝わる民話だ。私の子供の頃くらいにはぎりぎり聞く機会があった。本気で怯えてしまう子が増えたせいで取り沙汰されることすらなくなった、忘れられかけた昔話。
鬼喰山――今は貴杭山と呼ばれているところ。
その奥には、かつて鬼が棲んでいた。
鬼は気まぐれに里にまで降りてきては、神通力で盗みや悪さをすることから、村の者たちもほとほと困り果てていた。そこである時、村の長は一計を案じた。遠く離れた西方の村で出来たという美酒を取り寄せ、鬼を誘って酒宴の席を開いたそうだ。鬼がいくら凄まじい神通力を持とうとも、酔って眠らせてしまえばその力も発揮できまい。
そして、全ては村の長の目論見通りにいった。
村人たちはこぞって鬼の身体を細切れにした。
もう二度と悪さが出来ないように、念入りに。
そして、その死骸を山の麓に打ち捨てたのだ。
鬼を退治した村は、しばらくは平穏な日々が続いた。しかしそれから、田畑の実りが悪くなり、飢饉や病が増えた。村民は行脚のお坊様に相談をした。
事情を聞いたお坊様は「それは鬼の祟りに違いない」と言った。
そして鬼が打ち捨てられた場所に赴いて丁重に埋葬し直した。
慰霊のためのお堂を立てて、村の守り神として祀ることにした。すると鬼の怨霊は鬼神と成り、村の飢饉も病も治まって、この村は大いに繁栄をしていった。
そういう歴史があったのが――。
ちょうど美成瑚学園がある貴杭山なのだ、と。
それはいわゆる、一昔前の情操教育みたいなものなのだ。
ここには悪い鬼がいて、それをどうにか退治した。そしてその鬼は村人たちを祟ったが、今は鬼神として村を守ってくれている。だけど悪いことをしていると、鬼神は鬼だった頃にされた仕打ちの恨みを思い出して、その者の前に現れる――。
私も幼い頃は両親に「悪い子には鬼が来る」とよく脅かされたものだ。
いわば悪ガキに言うことを聞かせるために地域全体で行われていた方便だった。
昔に比べれば教育論も発達していって、もう幼い子どもにするには過激すぎるから時代にそぐわないからと使われなくなった、ただの昔話。
とはいえ、博彦はもう中学生なのだ。
その話を全て聞き終えても反応は薄かったらしい。
しかしその時の父は、博彦を本気で怯えさせないと焦りながら、
『ああ、そうや。じいちゃんの母ちゃんの兄貴はな、鬼に襲われたことがあるって言っとったぞ。友達がやられてな、死体も残らんかったらしいわ』
父の母の兄、とは私が子どもの頃に亡くなった正蔵大叔父のことだ。
昔は賢い人だったらしいけど、幼い私が覚えている限りでは飲んだくれで常に酒臭くて、そういう気味の悪いホラ話ばかりする変な老人だった。どうして退治された鬼がまた出るのか、と突っ込みを入れたらニヤニヤと笑っていたのをよく覚えている。
とにかく父が全てを話し終えた後、
博彦は、その場で嘔吐したそうだ。
泣きながら彼が話すことはどうにも要領を得なかったものの――学園の七不思議を友人たちと調べていくうちに、身の回りに奇妙なことが起きるようになったらしい。
それで、鬼が本当にいるんじゃないかと不安に駆られたそうだ。
博彦は懇願したらしい。
もう学校には行きたくない。
行けば、鬼の祟りに合うから、と。
それがあまりに真剣な様子だったから、父は博彦を休ませるべきだと思った。ただ、私にそんな事情を話したところでろくに信じないだろうし、無理矢理にでも通わせるだろう。なので父が学校に連絡を入れて、私に秘密で博彦を休ませていた。
私はついに我慢できなくなって、私は父の話を遮る。
「……口からでまかせ言ってる訳じゃないでしょうね」
「はん、そんな阿呆みたいなことせんわ」
「大体何よ、奇妙なことって――?」
「それが、ようわからんげんて。なんや鬼みたいなもんに追いかけられとる、みたいなことは言っとったけど……詳しく聞こうと、そこは博彦もよう話を濁すさかい」
歯切れ悪くそう言う父は、晩酌用の日本酒を煽る。
博彦の不在で私は色彩の掛けた食卓で頭を抱えて、
「なにしてくれてんのよ、本当にもう……」
思わず私が漏らした言葉に、父は目を吊り上げて、
「なんやお前、全部俺が悪いって言いたいんか!」
「あの子は繊細なところあるのに……気味悪いこと言って脅かして、それで私に秘密にして勝手に学校を休ませて――、全部父さんのせいでしょ!!」
「それ言う前から、博彦はおかしなもんに片足突っ込んどったろうが。俺ぁ何度も言うたぞ、七不思議なんぞ阿呆なこと調べとらんと、勉強させんといけんぞって」
「それとこれとは関係ないでしょっ!?」
「……関係あるかもしれんから、言うたんや」
「じゃあ何!? 学園の七不思議はぜんぶ本当で、美成瑚にも鬼の祟りが実在するって?? 頭おかしいんじゃないの!? あんな古臭い迷信なんか信じ切っちゃって馬っ鹿みたい、そんなのあり得るわけないでしょ――」
「お前なあ……親に向かってなんて口利いとるんやあほんだらぁっ!!」
お互いにヒートアップして、声を大きく荒げたからだろうか。
うぎゃああああああああああああ
くぐもった叫びと、何度も地団駄を踏んでいるような音が、すぐ上から響いてきた。
博彦だった。
私たちは上階からの振動を同時に見上げて、それから息を潜める。
「……ほんならお前は、博彦がああなったんは、なんでやと思っとるん」
「……何が言いたいのよ」
「あれを、鬼に魅入られたとか、取り憑かれた以外に、なんて説明すんがや」
父の目は、本気だった。
これだから古い人間は嫌なのだ。
少しばかり長く生きているだけで、自分の意見に固執する。
この世に蔓延る嘘や迷信が、科学検証によって駆逐していくこの時代に、いまだに良くないものに憑かれたなんてことを本気で言っているのだ。
やめて欲しかった。
そんなの違うに決まっている。
そんなことが、あり得るわけがない。
適切な対応をすれば、きっと博彦も元に戻る。
「――その、急に環境が変わったから……こう、ちょっとストレスが溜まっちゃって、パニック状態になってるだけ、なんじゃないの? 担任の先生だって、この時期はそんなようなことがよくあることだって、そんなようなこと言ってたし」
絶対にそう。私がそう信じないでどうする、と思う。
父は短く鼻を鳴らして、再び酒を傾けるだけだった。
「まあいいわ。しばらくお休みとって、私が面倒みるから。もう絶対に余計なことしないでよね。父さん、博彦のことなんて、解ってないんだから」
父は何かを言い返そうとしていたが、しかしすぐに押し黙った。
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