おわりのあと ②
とにかく怖かった。
家には帰れないし、出来るだけ東京から離れたかった。
気休めにしかならないけれど友人に「本当にごめん」と「九州に逃げるので秘密にしてくれ」というメッセージを送った。既読にはなったけど返信は無かった。効果があればいいけどと思いながら、僕は飛行機でもなく新幹線でもなく在来線に揺られて北上した。
何度か乗り継ぎ、東京の隣の隣のそのまた隣の地方都市にたどり着く。
日にあたって随分かすれた「貴杭中央駅」の看板。
看板だけではない。
街並みも人々も全体的に色褪せていた。
駅前のただっぴろいロータリーのアスファルトは随分劣化が進み、いくつか出来た穴ぼこを応急処置的に土を埋め込んであった。週末の帰宅時間だというのに、通り沿いの商店街は七割近くがシャッターが閉まっており、残りの三割だって店の棚は空きが目立つ。もちろん人通りだってまばらで老人ばかり、僕より若い人間なんて珍しい程だ。
だからといって、田舎と言えるほど緑に溢れているわけではない。
まさに滅びゆく真っ最中の地方都市、というやつなのだろう。
お先真っ暗の僕によくお似合いの町かもしれない――そう自嘲しているところで、白いスーツを着た人影が駅舎から出てくるところを視界の隅に捉えた。
心臓が破裂するかと思った。
反射的に路地裏へと転がり込む。
薄暗い袋小路だった。焦りに拍車を掛ける。
せめて見つからないようにと身体を縮こまらせて、ばくばくうるさい胸を抑え、息を殺して口を抑える。友人へのブラフは効果が無かったのか。あいつらは損得勘定で動かず、舐められることを異様に嫌う。だから本当に追ってくるかもとは思っていた。
でもまさか、こうも早いなんて。
本職よりも早いんじゃないかと思う。
殺されたくなかった。勘弁して欲しかった。
逃げ場もなければ隠れる場所もない。コンクリート製の行き止まり。
こつこつと高そうな革靴が商店街のタイルを蹴る音が近づいてくる。
呼吸の粗さが抑えきれなくなる。顎を伝って地面に落ちる汗の雫が床を濡らす。次に濡らすのが自分の血でありませんようにと必死に祈る。想像してしまう。汚れて埃にまみれたこの暗がりにて、この前の友人の時よりも酷い目に遭わされる未来予想図。
――通り過ぎて。どうか。お願い
なのに、白いスーツと革靴が、立ち止まる。
濃厚な死の気配。すぐに訪れるだろう苦しみに心臓は一層激しく早鐘を打ち続け――。
「おい」
頭が真っ白になった。
僕はもう、殺される。
「兄ちゃん――」
その声に僕は、ゆっくりと顔を上げた。
「どしたんや、具合でも悪いんけ」
そこには蛇の目つきはなく、眠たげで皺だらけの老齢男性が覗き込んでいる。よく見ればただ淡い色のジャケットを羽織っているだけで、僕は脱力のあまり失禁しかけた。
「すみません……、なんでもなくて、大丈夫です……」
奇異の目で見てくる老人に、僕は力なく頭を下げる。
どうにか立ち上り立ち去ろうとして、しかし僕は一度立ち止まった。
「あ、あの……あなたは地元の方、ですか?」
「ああ? せやけど、なんや」
「十年くらい前に廃校になった学校って、……あっちの方角で合ってます?」
駅舎を背にして商店街を抜けていく方向を指差して、尋ねてみた。
「――――さあ、そんなんあったかねえ」
僕は戸惑った。
いくら廃校になったとはいえ、唯一の学校施設だったはずだ。
そんなところを忘れるだなんてことが、あり得るのだろうか。
ここらもずいぶん子ども減ってしまったし、なんて独り言のように呟きながら老人はいそいそとまだ営業を続けているらしい理容室の扉の中へと消えていった。
まるで、追求を避けるかのように。
逃亡先にこの町を選んだのに、大した理由はない。
僕は物心ついた頃には東京の下町の狭い家で暮らしていたし、父が蒸発した時だって母が死んだ時だって、他所から親戚縁者が尋ねてくることなど一度もなかった。
ただ、いつだったか母が酔っ払った時にこう漏らしたことがある。
『あんたが生まれたのは貴杭ってとこ。嫌な村だった』
話をまとめると、こういうことだった。
蒸発した父のそのまた父、僕からすると祖父にあたる人物がその出身で、彼は自身が住む所とは別に土地と空き家を持て余していた。小中一貫の名門校と、広い児童公園が隣接する家で、子育てする分には環境が良いところだったそうだ。家賃も払わなくていいし車があれば不便はなかったので、しばらくそこに住んだのだという。
僕が五才くらいの話なので、もう十七年前の話だ。
そんなの見つけられるわけないよな、と思いつつも調べてみた。
まずネット上では、この貴杭近辺には学校施設は存在しないと出てきた。
母の記憶違いだったのだろうか――何もなければそこで調べるのを止めただろう。
しかし僕は適当に飛び乗った電車に延々と揺られて暇を持て余し、トラブルから逃げ出すための目的地が欲しかった。だから根気よく調べ続けた。
すると今から十数年以上前、
地元の名門学園がついに廃校になる。
そういう旨の、古いブログの投稿を見つけたのだ。
僕は商店街を抜けた後、地図アプリと風景を照らし合わせた。
空が広くて遠くの山々がよく見える。だからわりとすぐに目星がついた。
お金はないので歩くしかないが、歩いても小一時間ほどで着くようだ。
元々肉体労働で日銭を稼いで食いつないでいるので、それくらいは苦にならない。
東京と比べると、建物と建物の間がとにかく遠かった。
点在する古ぼけた住宅。コンビニがないから辛うじて成り立っていそうな個人商店。広さだけがとりえのほとんど車がいない駐車場。葬儀場。用途不明の詰め所。パチンコだった廃墟。空き地も目立つ。フェンスに閉じられた倉庫というより廃材置き場。
国道らしき大通りまで出れば車通りもあって少しは寂しさも和らぐが、その沿いの飲食店だってやっているんだかやっていないんだか一目で判別つかない。
五分歩く毎に、加速度的に自然の色が強まった。
山の影が近づいていくほど顕著になる。
民家の数がまばらになり、街灯の間隔も広くなってやがて無くなり、目につくのは空き地と田畑と由緒も書かれていない小さな石祠ばかりになる。人の気配がぐんぐん薄くなって、その代わりに鼻の奥がつんとする濃蜜な青々しい香りが幅を効かせていく。
驚いた。少し歩くだけでここまで風景が変わるなんて。
ぼろぼろながら辛うじてアスファルトが続いていて、骨組みだけになった構造物があるから、どうにかここが未踏の地でないという確証を持てる。東京よりか湿気がないから幾分ましなだけで、汗をかくぐらいには暑い。額の汗を拭った。
目的地へと到着する頃には、日も暮れかけていた。
人も車もいなければ静かになるなのかと思えばそうでもない。
コオロギだかカエルだかの大合唱で、むしろうるさいくらいだった。
夕陽を道標に、廃止された農道のような道を進む。
その学校施設は、貴杭山と呼ばれる山の麓にあったそうだ。右手に広がる鬱蒼とした森がその入口なのだろう。すぐ近くに川のせせらぎが聞こえる。すこし奥に行くと大きく開けた空き地があって――雑草も蔦が伸び放題になっている中に、錆だらけの遊具がみつかった。放置されっぱなしだけど、間違いなくここは公園だったはずだ。
つまり、たぶん、ここがそうなのだ。
廃止されたと思しきバス停。
見渡す限り、耕作放棄地が広がる。
住居らしい住居など、数えるほどしかない。
山と平地を分けるような道路に並んでいる、四軒。
どれも明かりがついていない。一つ一つ、見て回った。
死期が近い動物は、自らの故郷へと向かおうとすると聞いたことがある。
今、僕がしていることは、それと同じようなことなのだろうか。
導かれるように、その家にたどり着いた。
二階建ての瓦屋根の家。縁側と庭がある。
頭の中の普段使っていない部分に、鈍く刺激される。
家の外観そのものよりも、庭に見覚えがあった。なんとなく小さく感じるのは、きっと僕が大人になったからだ。ほとんど朽ちている手作りの囲い。ブランコだったものの残骸。何本かの幹が寄り添って伸びるあれは、確かザクロの木だったはずだ。
「ここじゃん……」
思わず声を漏らしてしまう。
まだ笑うことの多かった母親。あまり家にいなかった父親。
脳裏に蘇っていく記憶の中に、女の子の姿が混じる。母親とは違う。紺色の制服のようなものを着て、まだ幼い僕の面倒を見てくれていた。思わず僕は口元を抑える。
蔦が絡む玄関扉は、鍵が掛かっていた。
足早に庭へと回り込み、重い雨戸をどかしてみる。
現れた窓を割って中に入ろうか迷った。
その必要はなかった。経年劣化でか、鍵が壊れていた。
硬い唾を呑んだ僕は、そっと十七年前の暗闇の中へと足を踏み入れる。
携帯端末の弱々しい明かりで、どうにかそこが居間であることを確認した。
疲労困憊の僕は、それから気を失うように眠りについた。
※
ぎぃやああああああああああああ
真夜中、だった。そんな獣のような絶叫が外のどこかから響く。
真っ暗闇の中で僕の意識は一瞬だけふわりと浮上するけれど、色々あり過ぎた疲れから完全に覚醒することは出来ないまま、埃だらけの畳に再び突っ伏した。
カラスか何かの鳴き声だったのか。
もしくは夢でも見ていたのかもしれない。
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