第一章 幽霊と僕
幽霊と僕 1
梅雨入りを控えた空は、少しばかり淀んだ顔で僕の住む町を見下ろしていた。
左の手のひらには湿った空気だけがすり抜ける。
右手で黒く大きなハードケースの持ち手をしっかりと握りしめた。
海沿いにある田舎町の傷んだ歩道に人の姿は無い。
隣にはガードレールが続いているが、わずかな綻びから潮風が侵食し、
エビフライにタルタルソースをかけたような色合いだ。
自宅へ向かう足取りや心持ちは、普段感じない気持ちで満たされている。
門扉を越え玄関を開けると、カモミールの香りと静寂だけが出迎えた。
三和土で靴を脱ぎ整える。
抜き足で室内に入ると左奥にある階段を下りる足音がした。
――まずいな。
「あっ、お兄ちゃん、おかえりー!」
中学三年生である妹の
濡れた翡翠色のグラスを手にしているから、
飲料の補充のためにキッチンへ向かうところだったのだろう。
嫌なところを見られてしまった。
「どこ行ってたの? なに、それ」
葉月の視線が捕らえた先には黒いハードケースがある。
言葉にすることが憚られ曖昧な返事でごまかす。
本来であれば彼女がいる階段を素早く上がり、自室へ隠れたかったが、
廊下の中央を笑顔で歩いてくる妹を壁際に押しやるわけにもいかない。
「わあー、もしかして楽器? なにか始めたの?」
と、ポニーテールにした艶のある黒髪を揺らし近付いてくる。
「別に……なんでもない」
「えー、気になる! あっ! かわいー!」
隣で屈んだ葉月はハードケースに点々と描かれた白い花模様を指先で触れた。
「これってバイトしたお金で買ったの?」
「そう」
「ずるいー! 私にもプレゼント! なにかプレゼントしてよ……!」
「ずるいの意味がわからない」
「プレゼント欲しいー!」
「プレゼントは強要するものじゃない」
高校生になって始めたドラッグストアのアルバイトを毎日のように繰り返し、
ある程度の金額を貯めていた。
動画などを観て強く興味を惹かれた楽器を手にするために。
中身を気にする葉月を軽くあしらい、階段の踏板には普段より重量がかかる。
背後からハードケースの中身や購入場所など執拗に聞いてくるが不明瞭な言葉を返す。
階段を上りきった後は別々の方向だ。
僕は左、葉月は右。
自室へ向かいドアノブに左手をかけると、右方向から強い視線を感じる。
軽く首を捻り目を向けると葉月は廊下で佇み、こちらを真っ直ぐに睨んでいた。
一重瞼であれば鋭い視線もできあがるのだろうが、
パッチリとした二重瞼の中にある茶色い瞳に威圧されることはないし、
おもちゃを取り上げられた子どものような顔をしている。
「教えてくれないなら……もう知らないもん。
お母さんとハンバーグ作るけど、お兄ちゃんのは豆腐ハンバーグにしちゃうから……!」
豆腐ハンバーグが好きな僕にとって何ら痛くもないが、
これ以上争いを続けても彼女の不満が増すだけなので一つ頷いてから部屋へと入る。
「お兄ちゃんのは野菜スープじゃなくて、中華スープにしちゃうからね!」
と、最後の恨み言が聞こえた。
勉強机、ガラステーブル、ベッド、本棚という簡素な空間の中央にハードケースを置く。
黒い革に白く点在する花は、葉月が言うように目を引き、
存在感のある金色の留め具は高級感に溢れている。
人間でいう首元、左肩、右脇腹、両足の踝の留め具をカチャリ、カチャリ、と外していく。
爪先をケースの分かれ目に潜り込ませ持ち上げる。
アコースティックギター。
ボディは淡い紫色に塗られ、真っ黒な指板には散りゆく花が描かれている。
ヘッドにあるペグは金色でありボディの色を際立たせていた。
左右非対称になっているボディは、カッタウェイというらしい。
このギターに触れるのは初めてだ。
夕焼けの宴という楽器店の店長が試奏を勧めてくれたが、
素人の僕は気恥ずかしさから適当に断った。
初めて触れる感触は、どのようなものだろう。
左手でネックを掴み、右手でボディの後方を支えると思ったより軽い。
右の太腿に乗せ構えてみる。
心臓が大きく脈打つ……不思議な感覚がした。
『――あの……聞こえますか?』
多少丸まっていた背骨は曲がりの少ない樹木になる。
誰もいない室内。
いや、厳密には僕以外がいない室内だ。
パソコンは立ち上げていないし、スマートフォンを確認しても画面は黒いままで、
他に音を出すものは置いていない。
隣接する妹の部屋から聞こえたにしては、とても生々しく明瞭だ。
そして……女性の綺麗な声だった。
『あのー、すみません。聞こえてますか?』
自室に存在する奇っ怪な現象。
辺りを見渡しても声の主はいない。
『あの……聞こえていますか……!』
下方向に目を向ける。どうやら腹付近……臍の辺りから声がしていた。
正確にはギターのボディの中心に位置するサウンドホールからだ。
『あの……!』
だんだんと語気が強くなっている。
拳ほどの大きさにぽっかりと開いた穴の前には六本の弦が張られていた。
声などするはずがない。
穴の中に音が出るものでも仕込まれているのだろうか。
状態、状況を複合的に合わせ安心できる答えを探すが、どれも簡単に撃墜されていく。
『聞こえているなら、返事ぐらいしてください……!』
黒い穴から細く白い指先が急に飛び出した。
「うわっ……!」
ギターを投げてしまう衝動にかられたが、踏みとどまって情けないくらいに手が震えた。
穴から出た白い右手はバタバタとボディを叩いている。
「ひっ……」
『あれ、反応してる……。やっぱり聞こえてる?』
六月初旬の自室は、いくらか蒸し暑いけれどエアコンを使用するほどでもない。
冷ややかな粒が背中を滑っていく。
急に顔に集中してくる水分は、身体の熱を放出させるためのものではない。
恐れと対峙するために身体が臨戦態勢になった。
「き、聞こえています……」
返事をしてしまった。
『よかったー。自分ではここまでが限界。
ここから出られないみたいだから、引っ張ってくれますか?』
ドラマや映画によくある、このような封印を解くと良くないことが起こる。
このまま殺されてしまうかもしれない。
厄災が降りかかるかもしれない。
「あの……なんなんですか……あなたは」
『説明するにも出してもらわないと答えられません!』
「今、話しているじゃないですか」
『いいから、早く出してください……!』
「でも、どうやって……」
『多分、引っ張ったらいけると思います!』
――引っ張る……。掴めるのか?
やむを得ず白い手を握った。
人と変わらない感触が手のひらから伝わる。
柔らかさ、温もり。
恐怖心からか無意識に目をつぶり、ぐいっと力いっぱいに外側へ力を向けた。
湯船の栓を引っ張るような感覚。
その後は、じゃがいもを引き抜いた時の根が土から離れていく感触に近い。
小学校の頃の農業体験を思い出す。
『出してくれて、ありがとう!』
恐る恐る目を開けると、そこには一人の女性が立っていた。
『こんにちは』
――ゆ、幽霊……? 物の怪?
『あれ、どうしました? おーい、返事くらいしてよ』
声を出せずに臀部と両手、床との摩擦を使って距離を取る。
彼女は僕にゆっくりと近付いて来た。
「う……! ちょ、ちょっと!」
と、大きな声を出すと彼女は首を傾げ立ち止まる。
『あの……大丈夫?』
返事などできない。
瞬きをが早くなると同時に、廊下からスリッパが床を叩く音が聞こえて、
自室の扉がノックされることなく開かれた。
「どうしたの? なんか大声出してなかった?」
葉月だ。
「あっ! さっきのギターだったんだー。いいなー、見せて、見せて」
先程、距離を取るために床へ置いたギターを葉月は手にした。
目の前の状況、女性について一切触れることなく、
淡い紫色のボディを眺め「きれいー」「かわいー」と、評している。
「お兄ちゃん、はい。弾いてみて」
「い、いや、弾けないし……。
………………。なあ、葉月……」
「んー、なに?」
と、再びギターを構え見様見真似で弦を弾いている。
泥舟から人が落下していくような音だ。
「変なこと聞くけど……なにも見えてないのか?」
「見えてない? なにが?」
「いや……やっぱりいい」
女性は微笑み首を左右に小さく振って、僕たちの姿を見下ろしている。
幽霊……とりわけ怨霊という存在にありそうな邪悪な眼差しなどではなくて、
その目は慈愛に満ちているといっても過言ではない。
「言いかけてやめないでよー、気になる……!」
「いや……なんでもない」
「気になるー! 気になるー! 気に、なるー!」
「もういいって」
頬を膨らませた葉月が少しばかり身を震わせた。
「なんか寒くない? エアコン効かせすぎだよ」
エアコンは使っていない。
サウンドホールから飛び出した手を見た時は、
冷や汗が身体を伝ったけれど今は汗一つもない。
昔の人は怪談話で夏に涼をとっていたらしいが、幽霊自体も作用するのだろうか。
目の前の幽霊の手は温かったけれど。
「いいから……。もう出てってくれよ」
「えー、なんでー。たまには話そうよっ……!
最近、あんまり話してないんだから……!」
「い、いいから……。早く出てってくれ、邪魔なんだよ」
嫌な言い方だと思った。
ギターを手にしていた葉月の笑顔を奪ってしまったから。
彼女は静かにギターを置いた。
床とギターが生んだ少しの振動がサウンドホールから鈍い音として流れる。
「うん……ごめん……ね」
俯いた葉月はポツリと言葉を出す。
「でも……どうして?
なんで……話してくれないの? 昔は、なんでも話してくれたのに」
「なんでって……」
「お母さんとお父さんに言われたこと……気にしてるの?」
視線を床に移して黙り込むことしかできない。
現実から離れていくように、思考がぼんやりと鈍くなる。
『あー、泣かせた。女の子を泣かせるなんてサイテー』
女性が現実に引き戻す。
どちらが現実に存在する生身の人間か、わかったものではなかった。
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