最終日

 紗英の部屋で眠る生活はあの一日で終わり、また私は紗英の子ども部屋だった寝室で眠っていた。旅行に行った日からずっと考えていることがある。自慰という言葉の意味が、何としても知りたい。スマホで調べるのはやはり怖く、仕方ないので放置している。

 昨日遅くまで起きていたからか、私が起きたのは昼過ぎだった。また英和澄の朝ドラがやっている。

「起きたの。昨日夜遅くまで書いてたでしょ。エッセイ大変そうね」

「でも後は推敲だけだよ。紗英さんの話だけ書いてるから、書き終わるのは早かったし」

「私たちが考えた嘘、というか向井と寛子ちゃんの話、そっくりそのまま書くわけにもいかないものね」

 紗英が花柄の施されたマグカップでコーヒーを飲む。紗英ばかり見ているからか、テレビの音はあんまり入ってこなかった。目を向けると、英和澄が泣いているシーンが映っているところだった。声も上げずに止まることなく涙が落ちていく絵面の美しさに私は目を奪われた。

「今何を考えてるの?」と紗英が聞く。

「……こんなに綺麗に泣けないなって。私はもっと、やぼったいダメな顔してる。かわいく泣けたらいいのに」

「人と比べてどうするの。相手が違うでしょ。演技をして生きている人と自分を比べたって何にもならない。私だって酷い顔よ。見たくもない」

「紗英さんは泣き顔も綺麗でしょ。私には美しく見えた。あの時の頭の中はそれどころじゃなかったけど」

「お世辞はいらない」 

 紗英が立ち上がって小皿を取り出した。キッチンにある長机に置かれたクッキー缶と共に、すぐに席へと戻ってくる。お世辞じゃないのに、という返しは言う隙がなかった。

「私は女優じゃないただの人間なんだから、美しくなくて当たり前なの。私があなたの前で泣いたことは、そうね黒歴史。記憶から消して」

「……嫌だ。忘れない」

「蒔実」

「誰かを泣かせた記憶は、忘れちゃいけない気がする。だって泣かせるって大きなことでしょ。でも必死だった。あの時の私は。焦ってた」

「……いいのに。私を泣かせたことぐらい抱えなくたって。私はあなたに対等に向き合ってないんだから」

「抱えたいよ、紗英さんだから。私の特別なの、紗英さんは」

 ハート型のメープルクッキーを紗英が齧り、一口だけ食べて皿へと戻す。

「やめて。明日いなくなるのが寂しくなる」

 そろそろ終わりそうな朝ドラを見て紗英は言った。嬉しいことを目を見て話してくれないことが悔しくて、開けられたクッキー缶からホイップクリームの形をしたメレンゲを口に入れた。

「いなくなるって表現、嫌かも。これから死ぬわけじゃないのに死ぬみたい。距離が出るだけだし、この家を出ても紗英さんと連絡取りたいな、私」

「メールしかないの、私。それも放置してるだけのやつ。頻繁に連絡もらうのもストレスだし、それは断る」

「もとは紗英さんが寂しいって言うから」

 私は思わず抗議の声を出した。首がこちらを見据えて、ゆっくりとテレビ画面へと戻る。

「めんどくさいって思うでしょ、私のこと。これ以上醜態晒したくないなんて今更思うのよ。もう遅いのに」

「それでも私は紗英さんを直視してたい。……ねえ、ずっと気になってたこと聞いてもいい?」

 私は緊張しながら聞いた。額を汗が伝った。その端正な顔に見つめられていて、今から言う言葉に些かひよるのがわかった。

「恋はできても、セックスはできないってどういう意味?」

 自慰の意味を聞くのを寸前に回避できて良かったと声に出してから思った。セックスという言葉の強さは私をどきどきとさせる。

「そのままの意味。……旅行の日に聞いてたのにここまで隠してられたの。やるじゃない」

「そういう言葉が聞きたいんじゃない。説明して」

「恋はできてもセックスはできない。言葉が足りてないわけじゃないでしょ。あんたが本当に聞きたいのは何?」

「紗英さん言ってた。キスは苦手だって。セクシャルも私とは違うんでしょ。そういうことなの?」

 セクシャルという言葉の意味は正直わかっていない。ただ別れた種類名なのだろうと検索してわかった気になっている。

「だから私に恋をしてくれないのか、って意味なら否定しておく。あなたの好意に応えられないのはそこが理由じゃない。あなたを喜ばせることができないから付き合おうとしないのよ、なんて私は言わない。いい?」

「わかんないよ。それならタイプじゃないって雑に否定された方がマシ」

「そう。タイプじゃないの。あんたは。これでいい?」

 奥歯を噛み締めながら、私は紗英を軽く睨んでいた。紗英が向かいを指すことで対面に座れと示してくる。癪だと思いながらも席に着いた。

「莉穂の言葉を聞いてたってことは、続きの私のせりふも覚えてるんでしょ。自慰ができてセックスができないなんてってやつ。あんたには聞かせないつもりだったけど聞いてたなら仕方ないわ。だめなの。できないって言葉が近いのか、したくないのが正解なのか。とにかくあなたの思うようなことを私はしてあげられない」

「……私、自慰が何を指すのかわかんない」

「……そこから? 調べれば良かったのに。まあいいか。自分を慰めること。それも残念だけど性的なもの。自己処理する性欲、って言い方が正しいかもしれない」

 紗英は自分を慰めるのが得意だと誰かが言っていた気がする。そう言ったのは誰だったか。

「性欲は好きな人とキスとかその先のことがしたい、ってことでしょ」

「平たく言えばそうね。したいんでしょ、あんたは。私に確実に性欲が向いてる。……それが私は」

「気分が悪い?」

 恐る恐る聞いてみたものの、紗英はそれほど表情を崩さなかった。そのまま紗英がせめてもと首を振る。

「どこから言っていいのかわからなくてぐらぐらする。私はあなたの恋心は高確率で偽物だと思ってる。破天荒な生き方をしてる年上の同性に対するちょっとした憧憬みたいなもの。学校にいる好きな先生と遜色ないんじゃない?」

「違う。それは絶対違うよ。舐めないで。私は本当に紗英さんが好きで……」

「好きの種類って色々あるでしょ。別にあんたは同性が好きなわけでも、私のことが好きなわけでもないのよ」

 わかりやすいくらいに遠ざけられていた。それはこっちに来るなと言われているような気になる。嫌だ、私はそこに行きたい。私は机に身を乗り出して言った。

「紗英さんの体を想像しちゃうし、ハグされるのが好きで、紗英さんとキスがしたいと思ってる。その先もきっと。学校の先生にはそんなこと思わないでしょ。ねえ、紗英さん」

「でも初恋は実らないものでしょ。大抵は」

 見抜かれていると思った。「紗英さんも?」と聞いた私に苦笑を返しながらそっと紗英は言う。

「家庭教師の先生が好きだった。同性じゃないし、実るどころか始まる前に終わったような恋。恋人がいるのを知って数日で冷めたの。綺麗な人だった」

「……紗英さんでも振られることあるんだ」

「私を何だと思ってるの?」

「男女問わず色んな人に愛される愛され人間」

「不服だわ、その名称。私には可愛らしすぎる」

「紗英さんって自分が可愛いって自覚ないでしょ。馬鹿になんかしてないし心の底から思ってる。可愛いって」

「好きを隠さないで生きてるのね、近頃のあんたは。莉穂みたいになってきちゃって」

「今莉穂さんの名前聞きたくない」

 莉穂に勝てないことはこの一ヶ月で嫌というほど味わっている。本人が悪い人間じゃないだけに、鈍い劣等感を抱えていると紗英は気づいているらしい。

「旅行の時に言ったじゃない。莉穂もあんたも特別だって。それだけじゃ駄目なの?」

「特別だけじゃ足りない。紗英さんの一番になりたい。一緒の布団で寝て、一緒の家に暮らして、誕生日にはケーキを食べて、一緒に銭湯に行きたい。独占したいのかもしれない。紗英さんのこと」

「私束縛は嫌い」

 顎を支えていた手を組み替えて紗英が目線を上げる。このままじゃ付き合えない理由だけが集まってしまいそうで、体があまり動かなくなっていた。何を言っていいかすらぱっと出てこない。

「紗英さんは恋をしないの? それともしたくないの?」

「最近はずっと恋をするのが怖いの。誰かに愛されるのも。結婚と離婚と刺される事故でもうストッパーがかかっちゃってる」

「私に好きでいられるのが迷惑ってこと?」

「そうじゃない。あなたがそう思ってくれてることは素直に嬉しく思う。でも、それに応えられないの。あんただからってことじゃなく、それが誰であれ同じ」

「それでも人生は続くんだよ。この先何があるかなんてわかんない。私以外の人間を好きになる紗英さんなんか解釈違い。私は紗英さんが好きなの。大好き。初恋が実らないってこういうこと?」

 ほとんど涙声だった。心なしか声も大きくなっている気がする。落ち着いた声の紗英との対比もあるのだろう。自分で出しておきながら醜いと思った。

「……ふた回り年の違う女の子に手を出す大人は正しくないし、私の未来なんかどうだっていい。蒔実にだって未来はあるんだよ。誰かを殺そうとしたあんただけに歩める人生が」

「好きな人ができても紗英さんを諦める理由にはならない」

 ぎゅっと目を閉じてから、顔を洗面台に浸けるように腕に顔を預けた。紗英が吐き出す吐息を聞く。何を言おうか迷ってる時間がずっとずっと長かった。

「そんなに必死になって掴むようなものじゃない、私は。汚いところだっていくらでもある。人に向けない性欲も、腰には傷もあるんだから。だから私を思ってくれるならそれだけで」

「傷があるからそれが何? それくらいで引くと思ってるの? 私が紗英さんを好きなのは、そんなことで揺るがないものだよ」

「傷がある人間は少なからず危ういところにいる。そう言われたことがあるの。事実そうだと思う。私は人と違う。違いすぎるから今ここにいる。子どもが欲しくたって体を重ねることはしたくないし、ドラマや映画の濡れ場を見てもいい気分にはならない。同性に性愛が向いてるのかもしれないと思ってた時期もあったけど結局違った。私は蒔実とは違うの」

「何が違うのか言ってよ。私がおかしいのなら頑張って更生するから」

「セクシャルマイノリティ、って言葉知ってる? 私はそれに含まれる。私はあんたは女が好きな女の子じゃないと思ってる。だから違うの」

「……そういうのって自分の考え方次第なんじゃないの?」

 私の負け惜しみのような声に紗英は意外そうな顔をした。肩にかかっていた髪を後ろへとばさっと払う。その間唇は結ばれていた。

「確かに自分の中にしかない面もある。あなた自身のことだから」

「だったら」と私は期待の混じる声を出した。

「……セクシャル診断してみる? いっそのこと。多少はわかりやすくなるかも。あなたは自己愛が低いから」

 へ、と言ったと思う。紗英は気づかなかったのかという表情を暗に浮かべた。全く自覚がない。莉穂の言っていた紗英ちゃんは自己肯定が薄いというせりふが浮かんで消えていく。思ってもいないお揃いだと頭の中で何かが弾ける感覚があった。紗英がスマホを操作して、そっと画面を差し出してきた。

「セクシャル診断。簡易的なものだけど。私は異性愛、同性愛が二割程度で、分類は無性愛だった。何回やっても無性愛を指すから、自覚当初は戸惑ったのを覚えてる」

 紗英は立ち上がると私のコップと合わせて烏龍茶を注ぎ、机に置いた。女性と身体的に触れ合ったことがあるか。男性ではどうか。キスをする空想をしたことは。魅力を感じるか。性的魅力を自覚したことはないか。たった二十問のテストなのに私は賭け事をしている錯覚に陥った。

「……終わった? なら終了を押して。結果が出るから」

 バン、と答えが表示される。二十パーセント同性愛者、六十一パーセント異性愛者で、異性愛者に分類されます。視界が涙で揺らいだ。舌打ちをしても、目を閉じても結果が変わらないことに絶望する。私が顔を見てもすんとした顔を紗英は崩さなかった。

「その結果をどう思うかは好きにすればいい。でも私が無性愛を自覚していることに則るならあなたは異性愛者であるとほぼほぼ確定される。私に対する性欲も勘違いに終わるのよ。どう、悲しい? それとも怒ってるのかしら」

「……やるせないよ。悲しみとか怒りとか何もわかんないけど、この机以上に溝があるんだと突きつけられてて」

「言ったでしょ。私は蒔実に掴まれるほどのものじゃない。でもそれが自分ならしょうがないと割り切っているつもり。大人になるってこういうことよ。醜いでしょ」

「自己肯定感が薄いのは紗英さんもでしょ。莉穂さんが言ってた」

「私の自己肯定が薄いって?」

「私は実際そうだと思う。紗英さんは自分の人生をはなから諦めてしまってるの。だから私の好意を受け取ってくれないんでしょ。性欲がどうとか関係ない。人を好きにならない理由が欲しかっただけなんじゃないの。だから私を遠ざけてるんじゃないの」

 じりじりとした空気感に紗英は立ち上がった。腰に手を置いているあたり何かを怒られるのではないかと予感させた。視界はずっと揺らいでいた。

「自分に向ける性欲があるなら私に向けてよ。……それで、私に恋をしてほしい」

 上擦った上に声が小さかったのは涙が止まらなかったからだった。悲しさが止まってくれない。

「できないの」

 紗英は今までで一番大きな声を出した。やってしまったと言うように頭を掻いて、紗英は「ごめん」とすぐに謝る。そんな言葉が欲しかったんじゃないと私は紗英の真ん前へと闊歩すると名前を呼んだ。ゆるりと目が合う。見上げる顔ですら綺麗だから紗英はすごい。

「紗英さんが本当に私を好きになってくれないならそう証明してよ。……ううん違う。私が誓う。そうすれば忘れないよね、紗英さん」

 恋が止まらない。名前が綺麗だと言ったあの日からずっと恋に向かって進み続けている。肩を落とさせて自分の乾いた唇で紗英の唇を塞いだ。キスをする時は目を閉じるとドラマは言っていた。紗英の唇の柔らかさから時間をかけて逃れる。目を閉じた無防備な顔をしていた紗英を見ながら、私は言い表せない気持ちになった。

「ごめん。ごめん、紗英さん。嫌いにならないで」

 紗英の返事を待つより早く私は走り出していた。自分のしたことの大きさに押しつぶされそうになりながら、サンダルのパカパカ言う音を響かせる。腕で必死に涙を拭いながら歩くと、コンビニへと着いてしまった。喫煙している人間を視界に認める。

「……一応聞くが、事件事故ではないよな?」

 孝の声だった。両頬を叩いて頷く。私が家から出てくるのは紗英と喧嘩した時だと察しているのか、孝はため息をつくと二択を示してきた。

「ポテトかチキン。どっちがいい?」

「……ポテト。チキンはパミラの方が美味しいから」

「食通っぽいこと言いやがって。……これ、持っててくれ」

 そう言うや否や煙草を預け、孝はさっそうと店内へと入ってしまった。この人は私のためにお金を使えるのかと新鮮に驚く。ただのケーキ屋の息子ではなかったらしい。いっそ煙草を吸ってみようかと思ったけど、紗英がいい顔をしないだろうなと踏み止まる。何分かかかって、孝は外へと歩いてきた。赤いクロックスを履いている。

「悪い。煙草もらうぞ」

 ポテトと引き換えに煙草を渡す。

「喫煙者だったんだ。孝さん」

「そんなに驚くことか? 田汲も吸うだろ」

「……紗英さんと同じなのが羨ましい」

「荒れてんなぁ」

「……ねえ。孝さんも紗英さんのことが好きなのに、何でそのまま何もせずにいられるの?」

 何でそれを、と言われなかったのが不思議なくらい孝は口を開けた。煙草から煙が上がっている。

「付き合ってた人が紗英さんを好きになっちゃって別れたんでしょ。何で紗英さんが好きなのか知りたい。教えてほしい」

「子どもだからって何もかも許されると思うなよ」

 孝はポテトにかかった袋を開けながら言った。優しくないせりふの割に自分の中に残る。心底不思議だった。孝が一度蹲って、すぐにまた上体を起こす。

「口が悪くて悪い。とはいえ聞かれたくないことを自分から披露したくないのはお前もわかってくれるだろ」

「……そんなに隠すこと?」

「自分のうちに秘めてるうちがいいんだよ。恋心なんて」

「私は聞かれたら答えられる。私を守ってくれるところとか、望みを叶えてくれることとか」

「それはお前がガキだからだろ」

 ポテトを甘噛みしながら孝の顔を見上げる。絶対に視線をよこさない顔が本音だと言っていた。そのまま白く上がる煙を見上げる。ここに来た日は煙かった匂いにも今や平然としてられることを父が知ると文句を言うだろうなと思った。少しの間沈黙が広がって、私はポテトをいくつか噛む。

「好きなところはもっと綿密に言うものなんだよ。……例えばそうだな、煙が苦手な紫香里の前では絶対に煙草を吸わなかったこととか」

 言葉選びに苦戦するようにじわじわと上げられた言葉だった。

「よく喋るあいつの話をきちんと相槌を打って聞いてたことを、未だに思い出すことがある。何でだろうな。あいつとは別れて以来たまに連絡が来るくらいなのに。ずっと頭の中にいるんだ、田汲の横顔が」

「まだ縁は繋がってるの? 紫香里さんと」

「連絡を取っているって意味ではまあ。でもあいつは田汲と連絡を取ることはやめたらしい。田汲自身が言ってた。あいつなりに引け目に感じてるんだろうな。俺と紫香里が別れた理由について。そんなんじゃねぇのに」

「紗英さんのことが忘れられないって言葉、本当に言われたの?」

「だとしたら何だよ。そっくりそのまま言われた。孝くんのことは好きだけど、紗英さんのことが忘れられないの、って。別に気にしてない。俺も同じだったから」

「……どういう意味?」

「紫香里と付き合いながら、田汲と接するうちに気づけば俺も好きになってた。わかりやすいだろ。俺もそう思う。だから、あいつは誰にとっても特別なんだよ。勘違いすんなよ、お前も」

 唇が煙草を咥えて、すぐに離される。鼻から煙を吐きながら、孝は少しだけ笑った。

「……いや、お前は特別だな。俺とは違う。俺のためにあいつは怪我をしてまで守らない」

「紗英さんに聞いたんだ」

 何日か前の光景ながらありありと思い出せる事件だった。今も右腕には絆創膏が貼られている。私は思わず苦笑した。

「別に。付き合い長いからな。田舎の情報網を舐めんな」

 私はむぅ、と唇を突き出した。私と紗英だけの秘密がひとつ増えたと思っていたのはどうやら勘違いだったらしい。

「で、人に話させたってことはお前も話すってことになるよな」

「……え?」

「聞いてやるって言ってんだよ。もっと自分しか味わったことない強い好きな理由くらいあるだろ。この夏休みずっと一緒にいたんだから。……ねぇのか?」

「一緒に寝てくれるとこ、みたいにこれがあるから好きって理由はないよ。紗英さんだから好き。紗英さんとするから嬉しい。初恋がこんなじゃダメでしょ、私」

 駐車場のブロックに足を落として、地面にポテトを置く。私は思わず顔を覆っていた。ここで孝に泣きついても現状は何も前進しない。

 頭の中ではずっと旅行に行った日の莉穂のせりふを反芻させていた。恋はできてもセックスはしたくない。全部そこに帰結するのかと思った。私の初恋は散々だ。めまぐるしくて、きらきらしていて、手で触れていると時々切れてしまう。私は今指を切られている。

「……初恋なんか覚えてない身からすれば羨ましいけど、お前の立場に立ったら違うんだろうな。こういうのって。ただ、田汲はお前を見つめてる。それがお前の望む形じゃなくても、あいつはお前を思ってるんだよ。どこがお前のゴールかはわかんないけど、ここにいても何も解決しねぇぞ」

 わかってる、と私は声を荒げた。勢いで倒したポテトがこぼれていないことを確認して、元に直す。

「そんなことわかってる。頭ではわかってるけど嫌なの。紗英さんの私に性欲を向けてくれないところが嫌い」

「自分の好意を同じ形で返してほしいって傲慢だよ。田汲には田汲の事情がある。あんまり言いたくないけど、マイノリティなんだろうな。田汲は。だから一般的なお前とはどうしたって合わない」

「……止めないの? 私を」

「年齢か性別、どっちを上げてるか知らねぇけど止めない。色んな人間に仕事で会うようになってたら多少は世界が広がったよ。田汲を好きになれて良かったと本気で思ってる」

「紫香里さんと別れることになったのに?」

 孝は答えずに煙草の灰を落とした。

「お前に俺が教えてやれることなんてろくにないけど、恋って概念は大きすぎるくらい巨大なんだよ。一緒に映画を見たいこと、一目惚れをすること、手を繋いだりそれ以上のことをしたいこと。全部恋にしちまえるくらい自由で脆くて痛いものなんだよ。だからお前の恋の形を埋めてくれるやつを見つけるまでトライアンドエラーだな」

「そんなの嫌。紗英さん以外に恋心なんか向けたくないのに」

「それが世界だろ。人間は同じ場所に留まってられねぇ」

 ぐっと足に力を入れて体を起こす。孝がかがんでポテトを取ると私に手渡した。温もりが肌に馴染んでいく。熱かった。

「いつ帰るんだよ。向こう」

「……明日」

「だからそんなに必死に焦ってるわけか。なるほどな。……ひとつ断言する。地元に帰ってもお前と田汲の縁は切れない」

「何でそんなこと言えるの?」

 孝は「田舎の情報網を……」と言いかけて、すでに言っていたことに気づいたのか笑いを含ませた。

「お前の恋が一方通行じゃないって証明を、田汲が提示してくれる日を待つしかない。地道にきちんと。お前は田汲の特別で、俺は別に特別じゃない。その差をゆっくり考えろ。お前が何かを持ってることに気づくから」

 孝は煙草を捨てると、私の背中をばっと叩いて、「早く帰れ」と投げやりに言った。私は残っていたポテトを一口に詰め込むと、頭を下げて家へと走った。田んぼしかない人のいない道は、節々でカエルが鳴いている。半ば投げるようにつっかけサンダルを脱いで、颯爽とリビングまで走った。

「どこまで出てたの?」

「……コンビニ。孝さんにポテト買ってもらった」

「へえ。何かよからぬことを教えられてそうで怖いんだけど」

「聞いてきた。紫香里さんの話と紗英さんの話。孝さんの方が紗英さんの理解が深くて歯痒かったよ」

 机を拭いていた紗英は「歯痒いなんて使えたんだ」と少し感嘆の雰囲気を纏わせた。

「何、紫香里ちゃんが可愛かったって話?」

「みんな紗英さんが誰にでも優しいって話。私はそれが誇らしいのに同時に苦しいよ。私だけが好きなんだなって」

 頭ではわかっていたけど、否定してくれと心底思っていた。

「私やっぱり自分が間違ってると思わない。好きなものは好きだから。だけどそれが迷惑なのなら、私のことは忘れて」

 声を荒げていたさっきとは打って変わって、淡々とした口調だった。布巾を持って立ち上がった紗英はその手を止めると何かを逡巡しているように黙ってしまった。

「年下で同性でタイプじゃない私じゃ迷惑でしょ。紗英さんがいらないって思うならなかったことにするから。ねえ、どうなの。紗英さん」

「……何て答えていいのか迷う問いね」

 紗英がもったいぶって間を取るのに私は苛立って「早く言って」と急かした。紗英は顔色を変えずにため息を落とした。

「……迷惑じゃない、と思う。でも、それを受け入れてあげられるかは別。私はあなたと付き合ってあげられない。どれだけ私のことが好きでもね。残念だけど」

「ずるい。紗英さん」 

「私はあなたを忘れてあげない。ずるい大人でしょ。だって何日過ごしたと思ってるの? 園崎蒔実っていう人間のことならこの町で私が一番理解してる」

「せめて家族よりも知ってるって言い切ってよ」

「そう。じゃあそうするわ。あなたのことを誰より理解してるのは私。私、田汲紗英。あなたの恋心は私がもらう。……これで私だけのものね」

 紗英の笑う顔はあどけなかった。慣れないことを言ったと口元が動いている。私が両手を広げると意を汲んで紗英はそっと私を抱き寄せた。きつくきつく抱きしめてくれる紗英の肩を、私は濡らした。

 泣き疲れたからかその日はよく眠れて、次の日瞼は腫れていた。紗英はそっと見送りに出てくれて、一言「じゃあね」とぽつりと言った。最後に抱きしめてしまおうかとも思ったけれど、学がいるからそうもいかない。私はスマホの電話番号を記した紙を紗英のポケットに忍ばせて車に乗った。私が見えなくなるまで振り続けられる手を、ずっと覚えていたいと思った。走馬灯に入れてほしいという考えは、頭の中で掻き消しておく。紗英は電話をくれるだろうか。窓に頭を預けながら、ずっと紗英のことを考えていた。

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