旅行
一緒に眠った日以降、私はスマホを触り続けている。おおかたの検索はしたと思う。夜の部屋に一人きりであること、指を拭うこと、ティッシュ。それがどんな答えにせよ、私は引けないのだと思った。
この一週間で、旅行に向けての準備が始まっていて、浮き輪を膨らませるまでになっていた。紗英が買ってくれた水着の入ったカバンには、黒のタンクトップに白い半袖のトップス、両方にクロスが入ったパンツを合わせたスタイルの紗英の水着もある。ラッシュガードもすでに入っている。手厚いなと私は思った。
リュックから終わった宿題をまとめて抜いて、絵日記と自由課題用のまっさらな紙だけを入れておく。筆箱は最近買い揃えたもので、学校では禁止されているシャーペンが入っていた。
「……準備できた?」
「できたと思う」
「そこは言い切るところ。完璧?」
「完璧。宿題も、おやつも着替えもある」
紗英とでかけたラ・マーで、自分のお金でチョコとグミをひとつずつ買った。ぶどう味のグミは手が汚れるのが難点だが、ずっと大好きなものだった。チョコは溶けるからと入っていた冷蔵庫からさっき取り出した。
紗英のカバンは思いのほか小さく、水着の入ったバッグが一番重そうだった。小さく肩にかけたカバンには財布とスマホしか入っていないと紗英が教えてくれた。どこまでも不思議で、大人びていると思った。
昼ごはんは莉穂の発案できびきびに行くことになった。一度来たことがあって、今日も並んでいるのだろうかと思ったけれど、今日は空いていた。すこしほっとする。
私は刺身定食と前に食べた豚丼とで迷って後者を取った。それを見かねたみたいに紗英は刺身定食を頼んで、まぐろを少し分けてくれた。そういう優しいところが紗英を好きな理由に入っている。をトンカツ定食を食べていた莉穂がそっと私に「食べる?」と聞く。私は首を振った。
「もう紗英ちゃんにぞっこんだね」
ぽつりと莉穂が言った。その言葉は思いのほか柔和で、私は小首を傾げることしかできなかった。
「いいよ、それで。間違ってない。好きは強いからね」
「……何の話?」
「人生の話。やりたいこととか将来の夢とか仕事とか。趣味でもいいけど、何でも打ち込めるやつが強いんだよ」
「じゃあ私のことが好きな誰かさんも強いんじゃない?」
紗英が刺身に目をやりながら言った。莉穂が大きい声で「もう一回言って」と返す。ふふと小さく笑っただけで紗英は何も言わなかった。
「誘った時は海って言ってたじゃない。私。これから行くのはプールなんだよね、残念だけど。それでもいい?」
「宿題に活かせそうだから何でもいいよ」
莉穂は合点がいったように「絵日記だ」と言った。自由研究もあるという部分は一旦隠してみる。海がプールに変わったところで、大事な部分は何も変わっていない気がしている。結局私は紗英の買ってくれた水着を着れればどっちでもいいのかもしれない。紗英の水着姿を見たい心があるのに気づいて、思わず両頬を叩いてしまった。
きびきびに来るまでは紗英が運転していた車は、店を出てからは莉穂の運転に変わった。それが安全運転の紗英に比べると少し荒いのも含め、居心地がいいのかもしれないと私は思った。助手席に座った紗英が、徐にカバンから出したペットボトルをぬっと私に差し出してきた。おずおずと受けとってじっくりとラベルを見る。烏龍茶だった。私が好きなメーカーだと莉穂と話している横顔を見つめる。この人は随分私に良くしてくれる。その居場所がいっとう好きで手放したくないと思っていることを、ふいに紗英に知って欲しくなった。
車で三十分も走らないところにあるホテルは、意外と高さがあった。いくつかに建物が別れていて、車から降りた莉穂は勝手知ったるというように真っ直ぐにホテルへと向かって行く。ミントグリーンのシャツに白いパンツを着た莉穂の背を追いかけた。紗英は黒いノースリーブにシアンブルーのデニムパンツを合わせていて、風になびいた髪の美しさに私はうっとりした。
チェックインした部屋は最上階で、ただただ広かった。三人で泊まるには大きそうだ。カーテンのあいた窓いっぱいに海面が広がっている。海ではなく湾だと道中に莉穂が教えてくれた。ベッドは二つに別れていて、空きっぱなしの洗面台は鏡が光っていた。和洋の混ざった部屋のようで、座敷に机が置かれている。
「ベッド二つしかないんだけど、そっちの部屋で布団を三つ並べられるの。私が布団に寝るから、二人がベッドを使ってくれていいよ。蒔実ちゃんと紗英ちゃんが一緒のベッドに寝るならそれでもいいし」
「私は嫌。布団で寝てる方が楽だし。いいんじゃない? 三人並んで眠るのも」
ねえ、と紗英に話しかけられたので小さく頷く。同じベッドで眠るより布団の方がいいという紗英の主張は、悪意なく私を遠ざけていて、私は少し心臓がずくりとした。けれど私が紗英の隣で寝ることで莉穂が寂しい思いをしないように対等でいたいと言われているように思えて、紗英らしさに嬉しくなる自分もいた。
「私さ、もっと嫌われてるのかと思った。蒔実ちゃんに」
「……なんで?」
「私たちは同じだから。紗英ちゃんに好意を向けている私を見てて、気持ちよくはないでしょ」
「そもそも好きか嫌いか判断する段階にいないんじゃない? この子は」
「でも一緒にお茶したり、ケーキ食べたこと私は思い出深いよ。蒔実ちゃんのことももちろん嫌いじゃない」
こちらに向けられる莉穂の顔は、どうしてか優しい。その理由がわからない自分と、紗英由来だからだと理解している自分がいる。この人も一人の大人なのだ。莉穂が床に鞄を下ろす。
「知ってる? 人に弱みを晒すことの意味。あなたが嫌いじゃないってこと。私は私の弱みを蒔実ちゃんに晒してる。わかるでしょ」
「わかるけど、上手くわかんない。何て返したらいいのかも、私がどうするべきなのかも」
「知るだけでいいのよ。知って欲しいんだから。この人基本何も考えてないし、深く考えなくていいの」
「たくさん考えてるよ。こう見えて頭使う仕事やってるんだから」
「……薬剤師やってるのは本当に尊敬してるけど、それはそれとして抜けてる面はあるよねって話。心配しなくても褒めてるから」
「……褒めてるって付けとけば何でも許されると思ってる節あるよね?」
「さあ、どうかな」
紗英がベッドへと勢いよく腰を下ろした。ベッド全体が揺れる。沈んだままで紗英は自分の両側を叩いた。隣に来いという意を汲んで、三人並んでベッドに座る。
「……莉穂さんは、私についてどれだけ知ってるの?」
「果物が好きとか、紗英ちゃんの姪だってこと以外だと、前に紗英ちゃんのベッドで寝たことがあるとか。あと、紗英ちゃんが好きなこと」
私が人を殺そうとしてここに来たことを知らないということに、そっと胸を撫で下ろした。
「莉穂の言う好きがこの子と一緒かどうかはわかんないでしょ」
私たちの間で、莉穂が同性が好きだという秘密は共有されている。私の好きが同じかどうかわからないのは事実だった。だけど、好きであると自信を持って言えるのもまた事実だ。
「温泉とプールとサウナ。できる限り味わいたいな。私温泉が好きなの。湯船に浸かるのが好き。紗英ちゃんは浸からないから、蒔実ちゃん付き合ってくれる?」
「なんで?」
「暑いのが嫌なの。濡れるのも嫌」
「でもサウナはいつも入るよね?」
「何でも例外はあるでしょ」
今のなんではどうして私が? という意味だったのだが、二人は会話を始めてしまった。間に入り込めない。
「すぐ体は冷やすけど、お供しますよ。紗英ちゃんに。ね」
こんこんと叩くように頬を触られる。背中の方がぞくりとした。それを嫌悪感と解釈したのか莉穂は寂しげに笑った。違う、そうじゃないと思っても訂正の仕方もわからずに何ができるのか。せめてもの抵抗に、誰の目にも明らかなくらいに首を張った。
「私水着奮発したの。紗英ちゃんに見て欲しくて」
「莉穂、いつもそれ言ってるって気づいてる? 高いブランドのスカートだとか、スリットの入った黒ブラウスだとか、私にだけ見せるおしゃれ。いいよ、別に私に無理に見せなくて」
「私は紗英ちゃんに見せたいの。おかしいって笑う?」
「……私も、紗英さんに見てほしい、と思ってるよ。洋服」
「紗英ちゃんに買ってもらってるんだもんね、服。私もシャツの一枚くらいなら奢るよ。これじゃ恩着せがましい言い方か。でも、あなたが羨ましいな。特別で」
「特別なのは莉穂さんも同じでしょ。私はたまに嫉妬で苦しくなる。紗英さんに近くて、心を許されていること。姪の私とは違う特別な友人関係」
莉穂は私の手を撫でながら「ないものねだりね。私たち」とぽつりと言った。そのままベッドへと倒れ込んでいく。
「ねえ、車に浮き輪あったよね? あれ、どこで使うの?」
「予備ってやつよ。何があるかわかんないし。この子が海に行きたいって言い出すならあった方がいいかなって安易な考えのもの」
「海焼けるのだけが難点だけど、こっちの海綺麗だもんね。行きたい? 蒔実ちゃん」
「……わかんない。プールに行けばまあいいかって思うかもしれないし、行きたくないわけでもないと思う」
がばりと体を起こした莉穂がそっかと笑い出してしまった。
「私に子どもがいたらこうなのかな。こんな可愛くてたまらなくなるもの、私は持ってない。手にもできないけど、私は君が特別だよ」
「子どもができないのは結婚してないから?」
「もちろんそれもある。同性婚は認められてないからね。でも、女同士じゃ生むことができないの。子どもって」
「生むんじゃない選択肢、養子とか、そういうのも莉穂には向いてないと思う」
莉穂はいくらか険しい顔をして「あいつが羨ましい」と厳しい声を出した。
「私と結婚したいの? 莉穂は」
莉穂は沈黙した。私は何度か瞬きをする。
「……できない。したいとは、少し違うと思う。ずっと一緒にいたいって形の愛。紗英ちゃんの嫌がることはしないよ」
「私が憎くないの?」
私は思わず聞いていた。自分を客観視したら面倒だと思ったからだ。
「……どうして?」
「ぽっと湧いて出てきたくせに同じ家で過ごしてる。姪って立場を利用してるのに」
「同じ人間が好きなやつを私は憎く感じないかな。もちろん嫉妬することくらいはあるだろうけど、同じ気持ちでいるっていいものだから」
私は涙目になりかけながら紗英の顔を見た。紗英は、む、と唇を結んで口を開こうか迷っているらしかった。
「この人は好きなものは好きを貫いてる人だから、あんたが思うようなことはないわよ。あなただって憎まれたいわけじゃないでしょ。……この話はこれで終わり」
紗英は立ち上がると、ポケットから取り出した煙草を咥えた。その様が飾られた絵画のように見えたところに「紗英ちゃん、ここ禁煙」という莉穂の声が聞こえてくる。
莉穂が立ち上がって、下ろしていた鞄をいじり始めるので、私も何となく立ち上がる。ここは日が落ちても綺麗な景観なのだろうなと思った。莉穂がのそのそ冷蔵庫に近づいていく。
「誰か水取る?」
紗英が返事をした。私は首を振った。莉穂がビールを冷やすのが見えて、私はなるほどと思った。私はチョコを莉穂に手渡しして、受け取った水を紗英に渡した。最近のチョコレートは高い。
ベッドへと戻って、グレープ味のグミを噛む。水を飲んでいた紗英は荷解きを始めたのか、ヘアオイルや化粧水の入った紙袋を洗面台へと運んだ。莉穂は気分良さげに椅子に座りながら鼻歌を歌った。テレビがつけられて音が出始める。
「リップ、どっちがいいと思う?」
「プール入るのにそれ聞くの?」
「私泳げないから水面に顔つけられないの。ビート板あったはずだし、だからいいんだよ。どっち?」
バーミリオンと、カーネーションピンク。莉穂のパーソナルカラーはわからないが、バーミリオンの方が強くかっこいい女のようで似合う気がした。かっこいい女。紗英はどちらが好みだろうか。左手を指さす。
「で、蒔実ちゃんは何を聞きたいの? 紗英ちゃんの秘密? それとも私の弟のことかな」
「どっちも。私の知らないこと全部全部知りたいよ。莉穂さんだってそうでしょ。私の目から見る紗英さんは私にしかわからないもん」
「……いいよ。私は。紗英ちゃんさえいいならいくらでも話してあげる。あの頃の私たち、というかあの頃の私は痛くて青かったから少し心苦しいけど」
「人間はみんな痛いと思うよ。黒歴史だって消えないし」
莉穂は深く聞かずに「おそろいだね」と私の目をじっと見つめた。後ろでクマが人を襲ったニュースが放送されているのがわかる。
「私に秘密なんてない」
後ろから声が聞こえた。些か表情に力が入っている。それは私たちに明確に向けられている。視線を一度合わせた私たちのちょうど真ん中くらいまで進んだ紗英は、壁に背中を預けた。
「言いたくないこと、暗いことが纏わりついているだけで、それは秘密にはならない。言わないことを選んでいるだけ」
「それを世間では秘密って言うんじゃない?」
「言わないことと言えないことは違うでしょ。私はいつか話せたらな、話すべきだなと思ってる。ずっと」
「じゃあ今考えてること教えてよ。秘密じゃないんでしょ」
私は強気になって言った。莉穂の驚いたような顔と、紗英の変わらない表情の差にすぐに冷静を取り戻す。耳を塞ごうとした私の手を、紗英がそっと開いた。
「あんたにプレゼントを買ってあげなきゃと思ってる。誕生日。ケーキだけだったから。何が欲しいのかなんてわかんないし逃げてきたけど、物として残せるものがひとつくらいあってもいいでしょ」
「……重いね。紗英ちゃんがこんなに誰かに入れ込んでるの、初めて見る」
「そう。重いの」
「自覚ないのが紗英ちゃんだよね」
驚きすぎて声も出なかった。紗英の眉毛が下がっていて、その慈しみが自分に向いていることに理解が追いつかない。何か莉穂と話していたはずの言葉も、何ひとつとして聞こえなかった。
「何が欲しいの、あんたは」
「何でもいい。ていうか、紗英さんにもらう物なら何だっていいよ。嬉しくて死にそう」
「ふふ、うるさい。言葉が大きすぎる」
「じゃあじゃあ私のおすすめ、聞く?」
「莉穂の中に小学生がいるの?」と紗英は口元を緩めた。莉穂が顔をにっとさせて近づいてきた。
「ヘアアイロン、リップ、ネイル、イヤリング。どう? どれかは惹かれない?」
「この子髪短いけど」
「わかってないな。前髪とかあるんだよ。女の子には」
「私も一応は女の子だけど」
莉穂がどんと音を立てて私の隣に飛び込んだ。そのまま涅槃像のように私たちを覗いている。
「でもコスメ系は外さないよ。私たちの勇気の塊だから。紗英ちゃんくらい可愛かったらまた違うんだろうけど、私たちはメイクで武装するんだ」
「……リップはまだ早い気がする。アイシャドウとかも持ってないのに。メンソレータムで十分かも」
「そう。じゃあ蒔実ちゃんはどれが一番嬉しい? それ以外のものでももちろんいいよ」
「さっき言った通り紗英さんからもらうものなら何だって嬉しいよ」
「一番困る答えだ」
そう言われてもぱっとは思いつかない。全部私には不似合いだと思った。シャーペンの一本でさえ私には早い。洋服はすでにもらいすぎるくらいもらっている。じっと自分の足元を見つめた。穴が空きかけている。
「……靴。靴が欲しいのかも」
「かもってある?」
「わかんない。これが人に頼む誕生日プレゼントでいいのかもわかんないけど、靴をもらえるなら嬉しいなと思う」
「だったら明日見に行こう。私も付き添うし」
「別に二人きりでもいいけど」
「私を仲間はずれにしないで。ね、お願い」
莉穂はぎゅっと目を瞑りながら手を合わせた。その必死さがおかしくて、思わず笑ってしまう。体を起こして立ち上がった莉穂は私と紗英の手を自分に引き寄せて「行こ」と言った。
屋内プールと聞いて頭で思い描いていたものと、いい意味で少し違った。二十五メートルプールの他に、ジャグジー風呂やつぼ湯が設置してある。奥にある扉の奥がサウナなのだろう。走り出したくなった。
紗英の買ってくれた小花柄の水着に念のためとラッシュガードを着せられた。紗英は腕を出しているが、莉穂はファスナーを下ろして灰桜色の上着を羽織っていた。莉穂の着るブラウンの水着は、キャミソール部分がリボン括りになっており、水玉のパンツ部分も長く取られていた。引き締まったお腹は紗英ほどではないが細く見える。
「人多いね、今日」
「……それ本当に言ってる?」
家族連れが一組、夫婦だろう老人二人しか見つけられない。右端のレーンで仲良く歩いている二人は往復してからプールを出た。すぐに去っていく二人を目で追いつつ、莉穂のプールに入ろうという掛け声に応じる。つぼ湯に浸かる家族連れの立てる笑い声がこちらにも届いていた。
「で、何の話してたっけ」
「蒔実ちゃんの誕生日プレゼントの話?」
「違う。その前」
「紗英さんに秘密がないって話。私は紗英さんのことが知りたいよ」
「そう。別に面白くないわよ。私」
「劇的だよ、紗英ちゃんの人生」
「だからつまんないの。面白かった瞬間がない。小さな幸せみたいな生活が私は欲しかった」
「……私は本当に聞いていいの?」
「聞きたいんでしょ。それとも私に怖気付いた?」
「それ、二回目」
レーンをくぐり一番奥のレーンに入った紗英は「そう。知ってる」と歩き始めてしまった。同じレーンに行くか迷い、その隣のレーンでその背を追う。
「全部全部知らせなくてもさ、楽しかった記憶だけでもいいよね。紗英ちゃんが話したいならいいけど。これでも私は加害者の姉だから、きちんと話すなら三人だけの空間がいい」
潜めた声で莉穂が言う。ぱしゃぱしゃと三人闊歩する水音がしていた。家族連れはまだ朗らかに話している。それもそうか、と私は納得した。
「……二人はどうやって出会ったの?」
「紗英ちゃんが初めて家に遊びに来た日に。家族に紹介するってほどお堅いものじゃないけど、一緒にコーヒー飲んだよね。ピーナッツチョコと一緒に」
「悪いけど覚えてない。ただ、よく話す人だなと思ったことは覚えてる。かわいい表情がころころ変化してずっと声を聞かせるの。話は何ひとつ覚えてないけど、そうね、悪くはなかった」
「私は一目惚れだった。好きだって声が頭の中でしてたよ。唇を寄せて笑うでしょ、紗英ちゃん。それが私にはかわいかったの」
「その波動はずっと感じてた。向けられる感情が悪いものじゃないと気づいたというか」
「紗英ちゃんと色んなことしたよね。色んなところに行ってさ」
Uターンする。紗英は私より先に歩き出していた。些かスピードを上げる。水中はただ歩くより力がいる分多少痩せないだろうか。
「だから、今の私がいる。好きを隠さない生き方を選ばせてもらってる。紗英ちゃんに。ありがとうって言いたいけど、正直ごめんが勝ってる。ごめん、ごめんね紗英ちゃん」
「莉穂のせいじゃない、って言葉を期待してるみたいね」
「そんなつもりはないけど」
莉穂の声が尻すぼみしていく。紗英が足を止めて振り返った。その目はじっと莉穂を見つめている。
「私は、今生きてる。それだけでいいとも思ってるの。だから、いいよ。莉穂。ごめんじゃなくていい」
莉穂はばっと水面へと潜った。顔を見られたくないのは明白だった。水面に顔をつけれないと言っていたのを覚えていた私は少し焦る。明確なことは何もわからないけれど、紗英が強いという感想は揺るがないだろう。莉穂の弟が何をしたのか知りたいけど、知るのが怖くて耳を塞ぎたくなる。きっと教えてくれるなら今日しかないのだとわかってもいた。
そのまま私たちはプールを三往復した。深呼吸をしてから莉穂が呟く。その声はたどたどしかったが、私はずっと待っていた場面のはずなのに知るのが怖くてたまらなくなった。
「私の傷と弟のこと、本当に知る気はある? ……私たちは蒔実ちゃんに強制しない。聞きたくないのなら聞かなくていい。だけど、もし本当に聞きたいのならそれを話す義務はあると思うの」
「それを知ったら、私から去ってく?」
「どういう意味?」
「私がそれを知ったら紗英さんの秘密は解消されるでしょ。そのままの状態で過ごしていけるのかな、私たち」
「私たちは親戚っていう切れない縁があるんだけど?」
「それはそうだけど、そうじゃなくて。そうじゃなくて、私は」
ばっと紗英の顔を見上げた。今の私はさぞダメな顔をしていると思う。必死だった。私はこの人の前ではずっと必死になっている気がする。ただ必死に消えないで、と頭の中で唱えている。
紗英が背中を押した。サウナへと直行させられる。暑いサウナに入った瞬間、体が熱に包まれる感覚がした。
「ここにいる間だけ、何でも答えてあげる。気の済むまで聞けばいい。それは莉穂に答えてもらうこともあるだろうけど、それで良ければ」
「何で今日は話してくれるの?」
「ずっと潜めていた感情を吐露する関係値にあなたがいるかもしれないと思ったから」
「それは紗英さんに許されたってことでいい?」
「好きにすればいい。何から話せばいいのかわからないから、私に質問して」
「何で図書館に行ってまで新聞を見てたの?」
初っ端がそれか? という表情を紗英は浮かべた。すぐにそれが含み笑いに変わって、紗英がベンチに深く腰掛ける。
「苦手な人間が事故を起こしたから」
「嫌いなんじゃなくて?」と莉穂が声を上げる。紗英と莉穂に挟まれる真ん中は些か居心地が悪い。
「苦手なだけ。死んでほしいとも思ってないし、地獄に行けとも思ってない。ただそっかって思えればそれで良かった」
「私は思ってるよ。然るべき罰を与えてほしいって」
「莉穂さんも知ってる人なんだ」
「そう。でもそんないいものじゃないよ。私は一生許さないって決めた相手だから」
感情が重くて些か面食らう。莉穂がため息をつくのに釣られたように紗英は立ち上がって、地味な半袖の裾を捲って腰を露出させた。白くなった大きな刺し傷がある。思わず息を呑んだ。
「これをやったのが逮捕された
「ずっと救急車に乗るのが夢だったけど、この時救急搬送されたのが最初で最後。乗ってた記憶もないし、もう二度と行きたくないと今は思う。……死にたくないみたい。私」
すっと湿度が増した気がする。莉穂は立ち上がって、紗英の前に立つとぱちんと紗英の頬を叩いた。あまり痛々しい音はしなかったから手加減されたのだろう。その目はきつくきつく歪められている。
「死なせないよ。紗英ちゃんのバカ。死なせない。あいつが全部悪いの。紗英ちゃんは何も、何にもしてないじゃない。ねえ紗英ちゃん」
ほとんど泣き声だった。サウナの暑さなのか紗英たちとの会話なのかわからないままに頭がぼーっとする。
「私は生きていられるの。たぶん殺されないと死なないと思う。だからこの三人で旅行になんて行っていられるし、浮気を原因に離婚したって事実もこうやって話してしまえる」
結婚していた男に浮気され、浮気相手の女に刺されたという紗英の人生は、劇的という四文字に込められないほど辛いものだと思った。自分の進路を理由に父親を母親に殺されるという事件すら起こったのに、紗英は変わらず生きていられるという。その強さが私は怖かった。
「浮気した男の人はどんな人なの?」
「……悪い人じゃなかったと思う。私よりひ弱に見えたから。でも少し抜けてるところがあって、オンラインカジノに手を出そうとしたのを止めたこともあった。思い出せるのはそれくらい」
「別れて四年も経ってるもんね。……その四年で、紗英ちゃんは恋をしないことを自分に課した」
「そんな大層なものじゃないけど、もういいかって思うのは簡単でしょ。私はそこに逃げたの」
「でも、だから私たちは付き合っていけるの。絶対に報われない片想い。私たちは同じところに逃げているのね。だから、私は蒔実ちゃんが羨ましいんだよ」
「それでも付き合ってきたんでしょ。慰謝料を払うって言って受け止めてもらえずに。その特別性は私にはないのに。何で?」
「特別ってね、幅があるの。紗英ちゃんと別れたあのバカと知良って女も悪い意味で特別でしょ? 蒔実ちゃんに対する特別は善性のものだから、それが私は欲しい」
でもずっとそばにいたくせにと私は思って、返事を返すのに手こずった。どもりまくった声は聞くに耐えない。
「私は紗英さんに恋情を向けてるんだよ。同じでしょ。それ以上のものを持ってるくせに、何で私に羨ましいなんて言うの」
「終わりがあるから。知ってるの私。私たちのレールにゴールなんてないって。私はきっと触れ合えないの。紗英ちゃんが自分の人生を受け入れられるようになったら、私となんか関わってられなくなる」
「たらればの話で拒絶されるの? 私は」
「だってそうでしょ。浮気しない人と結婚してたら、刺されない人生だったら、私となんか関わりないじゃない。怖いの」
「消えちゃいそうで?」
私は思わず聞いていたし、莉穂がぎゅっと眉根の下がった顔で頷いた。莉穂は顔を覆って私たちに背中を向けた。紗英は暫く返答に迷ってから口を開いた。
「私は莉穂に責任を取ってほしいと思っていないし、出会わなきゃ良かったと思ったこともない。ただ、刺される事故が起こってしまっただけで、そこに莉穂は介在しない。いいの、何も悪くないのよ。あなたは」
莉穂は肩を震わせていた。その莉穂の体を紗英が後ろから抱き止める。私は何もできずにそっと見ていた。
「何で浮気されたんだろうね。紗英ちゃんは」
「喧嘩したから?」
「そんなかわいいものじゃないけど、おそらくこれだろうなってものはわかる」
「何だったの?」
「子どもが欲しかったの、あの人は。だけど私は要らなかった。その決定的な違いから女に逃げたんだと思うけど、結果はこうなんだから人生って変なの」
「昔からだだっ子だったから幼いところがあるというか、きっと自分がされてきたことを誰かに向けたかったんだろうな」
莉穂は自分の家族環境が良くないといつか言っていた。莉穂のセリフは意味深だと直感的に思う。
「愛されたことは愛に変換して、ダメなところもダメなままぶつけちゃう不完全な父親になってたと思うよ」
「でも家庭環境の悪さを反面教師にして穏やかな家庭を築く人だっているんじゃないの?」
「……子どもができないから女に逃げる男だけが幸せになるのは許せないよ」
莉穂が私の隣に再度腰掛けてきて、そっと上着をあげた。うっすらとした小さな線が入っている。紗英のものと同じく傷は白かった。
「一度だけの私の傷。弟の浮気が原因で離婚するって知った時に思わずぴって」
「痛くなかったの?」
「……痛かった。でも紗英ちゃんの方がもっと痛いのがわかってたから必死に耐えた。浅かったから血もティッシュ一枚で足りたし。でもこの傷を見るたびに思い出すの。弟が紗英ちゃんを傷つけたこと」
紗英は「ねえ、ずっと思ってたことがあるんだけど」と顔を上げずに莉穂に言った。
「消していいよ、傷。あんただけの傷じゃないし、その傷が無くなっても莉穂を傷つけた事実は変わらない。……どこへでも行けばいいの」
莉穂はしきりに顔を振った。嫌だ嫌だと微かに声も上がっている。
「どこにも行きたくないって言ったら隣にいるのを許してくれるの?」
紗英は答えない。けれどその目は何かを言うのを躊躇うように揺れているように見えた。
「莉穂さんがそばにいない紗英さんは、きっと偽物だと思う」
莉穂は涙に濡れた顔のままでぎゅっと私を抱きしめてしまった。紗英とはまた違う金木犀のようないい匂いがする。
「紗英ちゃん。ぶつけないから好きでいさせて」
「……うん」
肌がずいぶん熱くなっている。気づけば素早くサウナを出ていた。冷気が肌に気持ちいい。私を追いかけるようにして飛び出てきた莉穂は、朝宣言していた通りビート板へと手を伸ばした。
「ねぇ、ずっと気になってたんだけど聞いていい?」
「何でもどうぞ」
「サウナに入るなら汗でメイク崩れちゃわない?」
「そう。そこなんですよ、お嬢さん。でも好きな人の前でかわいくいたい気持ちを優先させちゃうのが私なの。弟に似て愚かでしょ」
「少し。でもいい愚かだよ。莉穂さんの愚か」
莉穂が返事をする代わりにビート板を持ち、ばたばたと足を交互に振り始めた。びしゃびしゃと飛沫が上がる。プール脇にいた私にもかかる豪快なバタ足だった。
「莉穂さんから見た紗英さんってどんな人なの?」
水を蹴る音に遮られながらも何回も繰り返すことで会話を続ける。
「すごく真面目で、いい子で、みたいな方じゃないよね?」
「うん」
「紗英ちゃんは、自分に起こった不幸なことを自分自身で受け入れてしまうことで耐えてるの。自己肯定が薄いのね。それを乖離させてあげたいんだけど、なかなか上手くいかなくて」
「でも、間違ってると思う。自分のせいだと思うことでお母さんがお父さんを殺した事実に耐えてるって話も」
「でもこれは正解か不正解かなんて出ない問題で、紗英ちゃんが選んでそうしている。私たちにできることなんて何もないのかもね」
「それでも私は諦めたくない。紗英さんが強く生きている危うさを私は壊したいのかもしれない」
莉穂は一往復するとバタ足をやめ、今度はカエル足で泳ぎ始めてしまった。自分にできることが何もないことがこんなに悔しいのは初めてだった。
「紗英さんは私を遠ざけたいのかな」
「遠ざけてどうするの? 同じ家で暮らしているのに。蒔実ちゃんを遠ざけた先に何があるの?」
「わかんないけど」
「今同時に愛の矢印が見えたとしたら、蒔実ちゃんも私も紗英ちゃんに向いてるでしょ。きっとそれは一方通行じゃないと思うよ」
莉穂がざばりとプールから上がった。一周だけした私もそれに倣う。莉穂が腕を押さえていて、嫌でも手首に傷があることを意識してしまった。サウナに入って早々に莉穂が私の顔を覗く。
「紗英ちゃんも蒔実ちゃんも違うけど、私はきっと呪われて死ぬの」
紗英はずっと入っていたのかびしゃびしゃの髪から流れる汗を拭っていた。
「何の呪い?」
「……傷を付けたことに対する呪い」
「何回言っても変わんないのね。あんたは。私は本気だよ。莉穂が特別だから一緒にいるし、罰を求めてないから親しくする。そこに加害者の姉だからって勝手に自罰的になられても困るの」
「じゃあ私はどんな顔してればいい? どんな風に名前を呼んだらいい? ねえ、紗英ちゃん全部教えて」
立ち上がった紗英は莉穂の前へと闊歩し、ぎゅっと両頬を押さえた。ふふ、と上機嫌な音が聞こえるから、それほど悪い顔をしていないのだなと察する。私はどこまでも下を向いていた。
「こういう顔をしてればいいの。この子だってそう。私はとっくに特別なの。あなたたちが。それじゃ足りない?」
しんとなったサウナ内に、ひくひくと泣く莉穂の声が響いていた。私はずっと特別になりたいと思い続けていたからこそ、その答えに思わず座席から滑り落ちる。軽く頭をぶつけてしまった。紗英が引き起こしてくれる。ダサいなと自分でも思った。
「莉穂は本当に感情表現が大きいよね」
「これでも気にしてるところ」
「褒めてるのに」
三人で風呂に入ってから、ほくほくとした顔でホテルへと戻った。紗英は湯船に浸からなかったから私は必然と莉穂と一緒になって、砕けた話ができるようになっていた。
夜ご飯は若狭牛のステーキやお造りなど好きなものが詰まっていて私はずっとドーパミンが出ていた。肉は柔らかくて溶けるように流れて、甘い感じがした。お造りは身がとても引き締まっていて、独自のだろう塩の振られた醤油で食べるのが絶品だった。デザートに食べたマンゴープリンも桃のアイスも美味しくてたまらなかった。
部屋に戻ると一直線に紗英は冷蔵庫へと向かった。ビール缶をふたつ取って、二つあるうちの片方のテレビに近いチェアに腰を下ろす。莉穂はばたばたと洗面台に立って、ばしゃばしゃと顔を洗った。私はテレビもつけずに、カーテンを開けた窓辺から見上げる星空に目を奪われていた。
「星が綺麗なことだけはここの誇りだよね」
めがねをかけた莉穂はこっちへと戻ってくると、紗英の向かいへと座り込んだ。そのままぷしゅ、と缶を開ける。乾杯とぶつけられた缶が音を立てた。
「傷。今も痛むの?」
「たまに疼くかな。今でもたまに切りたくなる。かさぶたみたいね」
「そんなことしなくても私はあんたが好きだよ、なんて言ってあげられる人間じゃなくてごめん」
「わかってる。それが紗英ちゃんのいいところでしょ」
ぐびりと高く缶が上げられる。飲み込む首の小さな動きを私は見つめた。
「あの男のどこが良かったの?」
酒が入っているからか、莉穂が踏み込んだことを聞いた。紗英はたっぷりと間を取ってから返事をする。
「性欲を向けないような人だったから」
「ひよってただけでしょ。あのバカのことだから」
「そう思う。でもただ映画を見たり、ご飯を食べたりする時間の居心地が良かったあの瞬間だけは、きっと私の青春だった」
紗英が二本目に選んだのはロング缶だったが、まだ一本目の莉穂はもう眠そうに背もたれに頭をぶつけている。
「ねえ。手伝ってくれる? 布団引きたいんだけど」
私は頷いた。棚に隠されている布団を三つ分出す作業は、五分もかからなかったと思う。並べた布団に莉穂を誘導しながら、私は動悸がしていた。紗英と二人きりの時間が生まれてしまう。
「あなたも眠いなら好きに寝ていいから」
「紗英さんはどうするの?」
「私寝るの遅いでしょ。テレビが見たいわけでもないしちびちびやってようかと思うけど」
「星空が綺麗だもんね」
布団から出て、莉穂のいた椅子へと腰掛ける。まだ自分の心音は聞こえていた。
「引いたでしょ。私の秘密。離婚も浮気も、人殺しも刺し傷も、全部私から離れてくれないもの。綺麗じゃない私はどう?」
「……まだ全然好きだよ」
ビールを傾けようとした手を止めて、紗英は視線を交わせた。それが困った顔に見えて私はずいっと顔を近づけた。視界はなぜか揺らめいていた。
「死なないよね。朝起きたら消えてたりしないよね」
私は必死で子どもじみたことを言った。
「……何で?」
「秘密を無理やり聞き出しちゃったから。紗英さんが隠し続けたことを饒舌に語らせてる。姪でしかないのに土足で踏み込んでるの」
「いいわよ、別に。わかんない? ……あんたに心許しちゃってんのよ、蒔実」
私は驚きすぎて椅子ごと転げ落ちた。咄嗟に手で庇ったおかげで激痛が体に走ることもない。ただ私の姿を見て紗英が笑ってくれることだけが救いだった。
紗英はその後もビールを飲んでは妖艶に笑ったりしていたが、十一時になると私を布団の真ん中へと追いやった。私が小学生だという大義名分だ。確かに両親にも言われていたことなので静かに従うことにしたが、気が昂っているのか、全く眠れない。隣で眠る莉穂の寝息だけが耳に届いていた。
それからどれだけ眠っていたのかわからないが、次に目を覚ました時には紗英と莉穂の話し声が聞こえていて、一旦寝たふりを敢行してみた。昼間とは違いどちらも落ち着いた声音だ。
「まだあいつからの慰謝料は続いてる?」
「月にきっちり五十万受け取り続けてるけど、そろそろいらないって意思表示をするところ」
「そう。いいよ言わなくて」
缶を机に置く音がした。紗英の自由さは別れた夫が作っていたのか、と私は少しショックを受ける。
「……紗英ちゃんが言いたくないんだなってところ、紗英ちゃんが明かしちゃわないかヒヤヒヤしちゃった」
「どの話?」
「子どもができないの本当の意味」
「……ああ。別に。小学生に言うのは不適切かと思って」
「紗英ちゃんが恋はできても、セックスしたくないって話?」
セックスという単語に思わず目を見開いたものの、寝たふりを続けなければと強引に目を閉じた。
「言ってもわからないじゃない? 自慰ができてセックスができないの。偏見があって当然だと思うし」
自慰という言葉の意味は何だろうか。小学生の貧困な語彙ではさっぱりわからない。ただその単語を検索してしまったら、もう戻れないのだろうなとわかってもいる。堂々巡りでひたすら寝返りを打つことしかできない。
「紗英ちゃんは、あの子に性欲向けられるの?」
「向けない。それが誰であれ、私は性欲を向けられない。向けられたくもない。それが私」
「じゃあ、私と恋に落ちたとしても私は喜ばせてあげられないんだ」
莉穂のぽつんとした声に「むしろ逆」と言う紗英の声が聞こえたあとに、言葉が全く聞こえてこなくなった。ぱたりと眠ってしまったのか意識を保っていられなかったらしい。目覚めるともう二人が帰る支度をしているところだった。旅の終わりはあっけない。
「私が運転するから、これから見に行こう。靴」
「別に今日じゃなくてもいいのに」
思ったことをそのまま口に出しながら、一度足元を見遣る。穴のあきかけたスニーカーは汚れていた。
「あなたが歩く手助けをするある種呪いみたいなもの。行くか行かないかは好きにすればいい。ただ、歩くたびに私と莉穂を思い出す呪いも悪くないんじゃない?」
「私も入ってるんだ」と莉穂は驚いたような声を上げる。けれど次に来たのは頷きで、私はねだっていいのだと思った。白い靴が欲しい。ロゴが入ったようなごついスニーカーが。使わなかった浮き輪が待つ車へと荷物を運びながら、このまま世界が終わってもいいのにというどうしようもない思考を打ち消したくて、ずっと二人の声を聞いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます