図書館

 初めは宿題が理由だったが、たまに料理を手伝えるようになってから、世界が広がった気がする。自分の意思でということが少なからず楽しさを引き出している。カレーを作り褒められたり、一緒に餃子を作ったり、これを毎日やっている母の苦労を今更知れた気になった。今日の昼は私が作ることになっている。包丁を手に私はキッチンへと立った。

 百均で一五〇〇円したシリコンスチーマーへと、切った白菜、アスパラガス、きゅうり、ほうれん草、ミニトマトを入れて十分ほどレンジで温める。出来上がったらご飯を盛った皿に乗っけ、同じように鶏肉をレンジにかける。野菜と肉の味付けは胡麻ドレッシングだ。温野菜丼と勝手に名前が付いている。母のネーミングだ。十分待つのは意外と長い。

 もう一品は豚しゃぶサラダだ。肉を湯にくぐらせて、誰かにもらったという大きなトマトと共にまるで花のように重ねる。スライスしたトマトで肉を挟む形に仕上がるはずだ。ぽん酢をかけて食べようと思っていたが、残り物のそうめんに和えると美味しそうでは、と思い立つ。一人分しかないそうめんに乗っけ、麺つゆで味付けをした。

「今日は何してるの?」

 唐突に紗英が聞いた。

「今は料理してるよ。見ての通り」

「違う。今日の予定。私図書館に行きたいんだけど。読書感想文は終わっちゃったでしょ」

「一緒に来て欲しいって言えばいいのに」 

「あんたが一人でいるのに家を空けられないの」

 私の声は軽やかだった。紗英の誘いが素直に嬉しい。紗英が本屋に迎えに来てくれた日から、何となく紗英が近いものになってしまった気がする。

 箸を出していた紗英はテレビをつけると、頬杖をついて画面を見つめた。

「でも何で図書館? 前に十年行ってないって言ってたよね」

「少し確かめたいことがあるの。新聞。この家にはないから。記事になってるかな、なってるといいなって淡い期待? 性格悪いから、私」

 紗英が自分を卑下するのは自己防衛なのじゃないか、と私は思う。紗英は時々わからないことを言う。何か確かめたい記事があるなら行くことには賛成だ。ネットニュースじゃだめなのか、と聞くのはやめておいた。

 長方形をして、やけに大きいと思っていたお盆も、大きな皿を使えば大助かりだった。そうめんの上に具材を乗せた透明のガラス器を紗英の前へと置く。少し分けてもらえたらと味噌汁茶碗も食卓へと出した。

 私が食べようと言い出すまで、紗英はしばらく皿を見つめていた。その理由もほどなくして明かされる。瞬きをするたびに上へ上へ上げられたまつ毛が揺れた。

「人の作るご飯が食べたかったの」

「まだ美味しいかわかんないよ。温める時間が足りなくて生かもしれないし、肉が硬いかも。そのサラダとそうめんに関してはお肉茹でただけだし」

 いただきますと手を合わせてから、カレーは料理に含まれていないのかとぼんやり思う。

「いや、間違えた。初めてじゃないけどどうだっていい。そんなこと。人に何かを施してもらえる人生を歩んでる自覚がなかったの。あなたが与えるものならどんな味でも気にしない」

「……また作るよ。料理も手伝う。洗い物も」

「そう、期待しないけど待ってる」

 紗英は髪を片側に寄せると、押さえながらそうめんへと口を伸ばした。肉とトマト、麺のそれぞれを一息に飲み込む。味わうようなゆっくりした噛みだった。私は心音が聞こえそうなほど、どきどきとしていた。咀嚼音だけが耳に届く。

 一口目をきちんと飲み込んでから、紗英はねえと私を呼んだ。その先の言葉は想像通りだったけれど、音で聞くとなると緊張している。「ありがと、美味しい」と囁かれて、安心から腰が引けるのがわかった。

 この辺のトマトは地元で買う売り物よりも、鮮度が違うような体感がある。しゃきしゃきしていて、汁が飛んでしまいそうなほど身が詰まっている。紗英が大きく口いっぱいトマトを頬張っている。少し大きく切りすぎたかもしれない。

 紗英を見つめていると、トマトの汁が唇から溢れそうになり、紗英の舌が拭った。

 私は紗英がそうめんに手をつけているのを見ながら、温野菜丼へと向き直った。白米の上にこれでもかと緑色が詰め込まれていて、自分で作っておきながらビジュアルに気圧される。にんじん、にんじんがいる。色とりどりにするべきなのだ。私は急に察しながら、おそるおそるアスパラガスへと手を出した。予想通り少し硬かった。

「ねえ、あんたさ私に気を遣ってるならいらないから。美味しくないと怒り出すみたいなことはしない。料理をしろとも思ってない」

「それはしたいからやってる。嫌じゃない。自分ができるようになることが嬉しいんだよ」

「若さってやつ? 一体どこに置いてきたのかしら」

 紗英は遠くを見つめていたが、やがてすぐにこっちを向いた。伸ばされる手に絡み取られるようにしてそうめんをわけてもらう。まだ水が足りなかったのか、なかなかよそうのに手間取っている。

「そうめん好きでしょ、あんた。初めて会った時に好きな食べ物にあげなかったのが不思議なくらい」

 確かに紗英の言う通りここに来てからそうめんを食べるのが楽しい。それは美味しいからなのはそうだが、どことなく楽しさを見出しているのも事実だ。自分の頭の中でぐるぐると言葉を探しながら私はそうめんをすすった。

「紗英さんとは少し違うけど、誰かと食べるご飯が楽しいのかも。家でもいつも食べてるけど、大皿で出てくることってないから新鮮だし、お母さんには悪いけど誰かと食べてるってすごく感じる」

「……じゃあ、あんたは誰かと暮らすのが向いてるのかもね」

 母の作るご飯は一人につき一皿分おかずが回される。それが私の当たり前だったから、それを打破されるのが嬉しかったりもするのだ。楽しい。この家にいるのは心地がいい。

 紗英の言う一緒に暮らす誰かという文面に、紗英自身は入っていないことに半ば傷つけられた気になって、私たちはそういう関係ではないのだと我に帰る。私が好意を自覚しても、叔母と姪という関係は変わらない。

 ふいに箸を置いた紗英が、机に視線をやって口を開けた。

「これは聞かなかったことにして欲しいんだけど、あんたがずっと一緒にいてくれればいいのに。でも無理ね。あなたは小学生だから」

「……歳の差を気にするふりをしてる。そこじゃないでしょ。紗英さん。私、中学はこっちで通おうかな」

「それはあんたのためにならない」

「ううん、高校でも大学でもいいよ」

「田舎を舐めないで。やりたいこととかあるんじゃないの? あんたにも。……ここは孤独よ」

 紗英がコーヒーを傾け言った。明確に湿度が変わった。「そんなのない」と出したのは低い声だった。

「紗英さんの方こそ言ってよ。寂しいって。必要だって。……この生活は終わらないって。ねえ、言って」

「……終わる。離れて行くのはそっちじゃない。私はここで一人いるの。どこへも行けない」

「……私の家に来たらいいじゃん。紗英さんも一緒に」

「あの人の世話になるのはごめん。私はここでの暮らしがあってるし、自分の意思で閉じ込められてる。残念ながらね」

 それほどまでに父とは折り合いが悪いらしい。ころりと言っていることが変わっているのに、紗英自身は気づいているだろうか。

「だったら寂しいなんて言わないでよ」

 ああ、いつもこうだ。私だけが声を荒げて、紗英は澄んだ顔をしている。言ってないと訂正されるかと思ったけど、そんなことはなく紗英は一度うつむいてからそっと視線を合わせた。

 一筋目頭から水滴が落ちていく。一瞬自分の周りの音が聞こえなくなった。……泣かせた。紗英が泣いていたことにやっと気づいたように親指でそっと頬を拭った。

「そうね。私が悪かった。ごめん。でも、寂しいか寂しくないかは私だけのものにさせて。……部屋の窓、閉めてくる」

 マゼンタのブラウスにブラウンのスカートを合わせた紗英の姿が消えた。私はすっかり謝るタイミングをなくした。

 確かにどことなく曇ってきている。今日はこの後雨が降るのだろうか。紗英が背中を向けていた窓からすすきが風に揺れているのが見えた。

 紗英は時折秘密主義だと考えてから、私が彼女を知らないだけなのかと思い当たる。寂しい答えだと思った。

 立ち上がった拍子に紗英の箸が落ちそうになって、慌てて手を伸ばした。

 階段を降りてきた背から涙はすっと失せていた。二階まで行っていたことから、泣き止んだのはそこでなのだろうと思った。俯きがちだった顔が、リビングへとそっと足を跨がせた。

 戻ってきた紗英は「温野菜丼って家庭の味?」といつもの調子で言った。

「そう。でも、温野菜をご飯に乗せるのは私のアイデア。給食を考えるって宿題が四年生の時に出て、それで」

「いいと思う。私には家庭の味とか数えるほどしかないし」

 鶏肉に口を付けながら紗英の深いところに入ろうと私は口を開いた。

「紗英さんのお母さんは今どこにいるの?」

「聞かない方がいい。引くわよ。私はそういうのは諦めたの。妥協ってやつよ」

「紗英さんの話ってよくわからない時あるよね」

 また逃げられたような気になった。けれどその目はいつもと少し異なる印象を受ける。冷たさがあったからだ。噛んでいた鶏肉の感想を忘れる。

「これでも私は迷ってるんだけど。人と関わってこなかったからこれでいいのかどうかって。ううん、今もわからない。わからないから隠したいところは隠しとかなきゃ。素顔の私はつまんないよ」

 紗英は髪をさらさらと浮かして、顔を隠した。キッチンからコップを手にした私は席に戻る。

「図書館何時に出るの?」

「これ片してから。十三時くらいになるんじゃない? 知らないけど」

「それ大阪人以外でも使うんだ」

 紗英は元の席に戻ると、焼かれた肉が湯気を立てるバラエティ番組に目をやりながら「何それ」と口元を緩ませた。仙台牛のミスジらしく、確かに食べてみたいと思った。テレビ内に映っている誰かは食べられないのだろう。少し笑えた。

 紗英は言葉を覚えた子どものようにその時々に「美味しい」と声を聞かせた。嬉しさを通り越して恥ずかしくなってしまい、両手で顔を覆って見せる。それがお世辞でもあるとうっすら気づいていたけど、特段傷つきはしなかった。

「今度は違う味付けでもいいかもね。ぽん酢とか、焼肉のタレとか、ウスターソースとか。その時は肉は奮発しようか。これも一種の学びだろうし」

 いつだったか、紗英は何かを教えられるわけではないと話していた。その変化もどうにも嬉しくて、顔が緩みっぱなしになる。

「……紗英さんに教えられてるんだ、私。色んなこと見せてもらってるもんね。そっか、学んでるのか」

「何、何か変な感じじゃない? そのせりふ」

「日々過ごすだけじゃ、学んでる感覚ってないでしょ。私はそんなに地頭良くないからテストの点もそこそこだし、本をよく読むタイプじゃないから自分がいつも何してるのかわかんない。でも一歩でも進んでいるのならいいかぁ。私、変わってるんだ」

「こいつ出会った時より胸の内を打ち明けてきたな、とか思われてるんだと思ってた。そう言われると安っぽく見ないでって言うところだったけど、それは脱したのかしら」

「私の変化、紗英さんにはわかるの?」

「わかる」と紗英は私の額に指をぶつけた。

 紗英はそうめんを具材多くよそうと私の方へとおかわりを差し出してきた。よく見られているという意識はいつもあった。胸が何となく温かくなってくる。

 紗英の食べるスピードのゆっくりさを味わいながら、できるだけ噛む回数を増やして食べ進める。紗英が手を合わせる五分前ほどに私は食べ終わった。

 味のしないほうれん草、硬い鶏肉、ふやけたミニトマト、切るのが下手で大きく、崩れてしまったトマト。散々だと私は思ったけれど、紗英の顔色は明るい。誰かの作るご飯に飢えていたのは一定本音なのだと知らせた。

 洗い物は洗う担当と拭く担当に分かれて、私は拭く方を担った。

 図書館は地元ではバスで行くものだった。けれどここでは違うのだと助手席に乗せられて気づく。白い軽自動車に乗るのは久しぶりなのか、手探りで自分の乗りやすいポジションを探しながら何とかアクセルを踏む。ミラー越しに覗く紗英のきりりとした目元に、ぐっと目を奪われた。視線に気づいた紗英が「見過ぎ」と囁く。

 車を走らせて十五分ほど経って、図書館に着いた。何度も切り返しながらやっとのことで駐車する。車は特別多くは停まっておらず、駐輪場に集まる自転車の方が目に入った。夏休みとは言え今は平日だ。学生が多いのだろう。

 やけにゆっくりと開くドアをくぐると、本棚が見えてきて思わず大きく息を吸い込んだ。地元の図書館ほど広くはないが、けして狭くはない。本棚の奥に並んだ机に、いくつもの背が見えた。勉強ができる図書館は意外と限られている。この図書館はどうだろうか。

「自由に見てていいよ。ちょっと行ってくる」

 うん、と返事をしたのが聞こえたかどうかわからない。少し慌ただしい。

 私の背よりずっと高い本棚がいくつも並んでいる光景が図書館らしさに溢れていて私にはふさわしくないと思った。私は図書館に行く柄じゃないしな、とたまたま立ち止まった棚にあった天文学の図鑑を開いてみる。ベガ、デネブ、アルタイル。夏の大三角だと授業で教わった。上り台に登らずに直せてしまう下段にあるのは、それが子どもの目につきやすいためなのだろう。

 この辺りは星が綺麗だと言うのは本当だ、とこの数週間で確信した。山に囲まれたおかげで街灯のない住宅で、ライトで照らしたような星を見上げられる。紗英の吐く煙の香りを吸い込んで、二人で星空を見上げる瞬間が、私には大切だった。

 私が本棚に直そうとした手を、誰かが小さな力で握った。つねられるようになり軽い痛みが生じる。ベージュのポロシャツにネービーブルーの短パンを着ている男の子がいた。

「返して。その本。星の図鑑」

 その小さな背に手が痛いと言うのを少しひよって、私は視線を合わせるために膝立ちになった。長く伸ばされた前髪から、片方だけ二重の目が覗いている。少し重さのある本をこの子は持てるのだろうか。おずおずと渡すと、男の子はぎゅっとそれを握った。

「お姉さんは星が好きなの?」

「うん。好き。この辺りで生まれてないから余計に美しいなと思ってるよ。街灯が多いと星が見づらくて」

「この辺りは星が綺麗だからこっちに来たの?」

「それはちょっとわけがあって……」

 どこまで話していいものか。上手く言葉に変換ができない。私が黙ると男の子は上り台に座った。足が揺らされている。少なくとも今ここで人を殺そうとして、と言う必要はない。

「明日ね、お祭りがあるの。美香ちゃんも来るよ。……これは秘密だった。お姉さんも一緒に行く?」

「それはね、私がいない方がいいやつだよ。たぶん。祭りってことは花火も上がるの?」

「あがるよ。すぐ終わっちゃう花火。僕は音が大きいのが好きじゃないけど、みんな楽しみにしてる」

 一度本を置いて、体いっぱいを使って、私に見せてくれる。それが花火を表しているのは明確だった。思わず拍手してしまった。男の子は満足げな顔をしてどこか得意げに笑っている。

「間違えて直しちゃったんだ。これは僕のなのに」

 確かに裏表紙に名前が書かれている。えさかえいと。だから私はつねられてしまったのかとやっと理解した。

「本、ごめんね」と優しく務めた声を出す。

「僕もごめん。びっくりしちゃって、取られたくなくてつねっちゃった」

「気にしてないよ。うん。でも美香ちゃんには優しくしてあげて」

 こくこくと頷いた背はさっさと駆けて行ってしまった。つねられた左手を見る。特に赤くもなっていなかった。明日は祭り。紗英に聞いてみようかと思った。地元の花火大会はおびただしいほど人が多く、長らく見に行けていない。素直に見たいのが本音だ。

 男の子が持っていた図鑑と同じものがある棚をざっと見てみる。深海魚、乗り物、植物、恐竜。その隣にある職業辞典という本をぺらぺらとめくった。小説家と脚本家が別のページにあり、少しはっとした。小説と脚本。ぱっと見同じように思える。けれど、二時間ほどで描かれる映画やおおよそ十話かけて紡がれるドラマも違うだろうから、納得はできるものなのかと認識を新たにする。

 棚に直して顔を上げると、乗り上げたコーナーに読み聞かせをする親子を見つけて微笑ましくなる。読み聞かせているのは泣いた青鬼だった。茶髪をポニーテールにしているお母さんはずいぶん若そうに見えた。少なくともより紗英よりは年下だろう。

 そのコーナーの向かいに小さな部屋があって、そこに私と同じかそれより大きいくらいの子どもたちが座っている。興味をそそられて近づいてみたところ、どうやらそれは脚本教室らしかった。学校のように机を並べ、ホワイトボードに書かれたことについて議論している。金髪ショートの女が脚本家と知ってもあまりぴんとこないのは、きっと自分の中にある偏見だ。そっと耳を寄せてみた。

「自分の奥底にあるやりたいこと、見たいもの、誰かにやって欲しいことから着想すると、とっつきやすくなります。例えば私の初期作で言うと、好きだった先生に褒められたいことから書き終えたドラマがあります」

「どういう話ですか?」

 活発そうな男の子が手を挙げて聞く。

「腹黒い男教師が一人の女生徒を愛してしまい、様々なクラスの問題を解決しながら二人で段々と仲を深めていくミステリードラマでした。好きだった先生は女性だったのですが、全てを反映しなくてもいいんです。書くのが楽しかったドラマでした」

「なんで出力すると性別が変わってもいいんですか?」

「全てが現実のものだと面白いものが作りづらいことが第一にあります。誰かを元に新しいキャラクターを作る方が最初は楽しめるはずです。というより、キャラクターが動かしやすいんですよね。私を元にサイコパスのキャラクターを作るのと、うるさく喋る脚本家の先生を描くのとどちらが楽しいか、ということでしょうか」

「絶対先生らしく書く方が楽しいですよ。先生は面白いし、すごい人だし、何より変だから」

「サイコパスじゃなく、お嬢様キャラとかにしたらきっと絶対面白いです。先生が使う口調を変えるの」

「俺は、先生を元にしたままで、職業を変えたいです。例えば、小説家とか」

「それ変える意味ある? 書きものをするって点では同じじゃない?」

「だったら絵本作家でいいよ」

 投げやりにも聞こえる背中に呟く「変わってないよ」という声は思いの外柔らかくて、じんわりと優しい気持ちになる。

 まだまだ子どもたちの想像力は止まらない。議論は白熱していた。この中に入りたい気さえしてくる。

「自分が誰かにやって欲しいこと、一人ひとつ挙げていきましょうか。はい、長野さん」

 長野と言われたメガネをかけた長髪の少女が立ち上がった。一部だけチェック柄になったグレーのジャンパースカートを履いている。

「ご飯を食べたいというか、一緒にご飯を作りたいです。鍋しか作れないから、オムライスとか、クリームシチューとか、パウンドケーキとか」

 思わずわかります、と入って行くところだった。ぶんぶん首を振る。自分はさぞ不審に見えていることだろう。

「作ろうよ、曜子ちゃん。パウンドケーキ型家にあるし、クッキーならいつも焼いてるじゃん。それとも何、私じゃ不満?」

「そんなことない。そんなことないけど、私とだけ遊ぶわけには行かないでしょ、さっちゃんは。ほら、習い事も多いし」

 じっと自分を見る視線に曜子はたじたじになっている。

「……習い事が多いからって理由だけで私は振られるの? 別にひとつくらいブッチして遊ぶくらいわけないけど」

「……それはあまり良くはないかな。お金が絡むことは慎重になるべきだから。それを払っているのは親御さんだし、空いてる日を見つける、もしくは作ることが先決だと思います。そうだな、夏季休暇とか、建設記念日とか、年末年始もありかな」

 曜子は「先すぎる……」と笑った。そのまますとんと椅子に収まる。手を伸ばすその顔は少し顔色が良くなったように見えた。隣に座っていた少女が手をそっと握り込んでいる。ブッチするという単語を口にした少女だった。二つ括りにした髪を伸ばし、前髪を横に流している。半袖から覗く腕は白かった。

 脚本家の女が手を挙げ、挙手を募る。今度に手を挙げたのは、背の高い太い黒縁めがねをかけた少年だった。

「離婚したお母さんの再婚相手に会ってみたいです。俺はついて行けなかったから、写真でしか見たことなくて。お茶、というか塩野と同じようにご飯を食べたいかな」

 視線を向けられた曜子は些か肩をびくりとさせたが、やがて頷いた。

「怖くないの? かつて家族だった人が違う家庭を築いてるんだろ。子どもとかいるかもしれないじゃん」

「怖くない。出て行った時点で、もう違う人生が始まってるから。それに、お父さんといる時ため息をたくさんついてたお母さんが幸せそうに笑ってる写真だったから、そこにきっと意味はあるんだと思う」

「離婚は必ずしもアンハッピーなものじゃないから、こいつの言うことは正しいよ」

 また違う男の子が庇うように立ち上がった。親が離婚したことがあるとありありとわかった。私は離婚を経験していない。どんなものであれ寂しいのは確実だろう。

 窓枠へと置いていた指が疲れてしまい、真っ直ぐに立ち直した。質問のバトンは目まぐるしく変わる。次に手を当てられたのは髪を短く切り揃え、全身真っ白の格好をした女の子だった。立った拍子に膝丈のスカートが揺れる。

「あまり大きな声で言うことじゃないんですけど、月に何度か眠れない夜があるので、その時に誰かと一緒に眠りたいです。どんな形でも良くて、寝落ち通話でも何でも。でも本当は手を繋いでいて欲しい。ぬいぐるみだけじゃ足りないから」

 彼女が言及を避けた部分に思い当たって、声を出しそうになった。月のものが重いのだろうと暗に解釈したからだ。眠れない夜には覚えがあるし、人と一緒に寝たいと言う気持ちが少なからず私はわかる。わかってしまう。自分の思考の形がわかっていた。紗英と何かがしたい。一緒にご飯を食べたい。……一緒に眠りたい。我ながら安直な発想だと思った。

「人じゃないとだめなの? 家族とかは?」

「部屋ができてからは一人だし、お父さんもお母さんも弟につきっきりだから。……障害があるから、それでつくんだろうけど私は寂しい」

「それをそっくりそのまま言えばいいんじゃない?」

 曜子が言った。その声は高い。少し考えて、少女は力なく首を振った。

「ずっと寂しいわけじゃないし、それをぶつけても自分勝手でしかないと思うし、迷惑なことは言いたくない。こいつこんなこと考えてるのかって思ったら幻滅すると思うから」

「迷惑かどうかは聞き取り手の問題だろ。そこまで考えなくていいよ。人生はどこまでも続くんだから、面倒ごとくらい起こせばいいだろ」

「都築は問題起こしすぎだよ」

「正直その言葉待ってたわ。でも、俺を客観視したら面倒って成分しかないくらいなんだから、お前のわがままくらい許されるよ」

 わがままじゃないけど、と付け足して、都築は笑った。少女が俯いて、顔を震わせる。さっちゃんと呼ばれていた少女が、平均より高さがありそうな背中をさすった。そのまま少女は顔を覆い隠している。

 もっと近くで見たくて窓に手をやると、私が見ていることに気づいたらしく、金髪の女がざっざっと進んできた。ひょいと顔だけ出して「あの……」と女が声を出す。私は何度か後ずさった拍子に腰を落とした。

「ご興味ありますか? 脚本。あ、脚本教室と言いつつ、やっていることは初歩の初歩なので、初心者さんでも歓迎ですよ。良かったらもっと近くで見に来ませんか」

「あ、その、はい。ぜひ」

 驚きすぎてどもった私の手を引っ張って立たせた女は、そっと扉をくぐらせた。学校の教室と比べると少しせまい印象を受ける。生徒数は十二人で、喋っていなくてもここにいていいのか、とふさわしくない自覚がましになるのがわかった。

 きゅっきゅっ、とホワイトボードにペンを走らせる音がする。私を見ていた視線も瞬く間に前へ向かって、本気なのだと気がつく。夢がどれだけ叶うのかも知らないが、ここにいる間の勉強をものすごく吸収しているこの子たちが羨ましい気がした。

「何度か言及したことがあるんですが、私のモットーはどこまで覚えてますか? 好きに答えてください」

「タイプの違うキャラクター、生い立ちの違う人を作ること」

「……他には?」

「自分と変える、変えるじゃないな。何だっけ?」

 よく発言する活発そうな男が言った。

「乖離じゃない? 自分と乖離させて物語を作る」

 それだ、と楽しそうに初めて発言した三つ編みの少女を指差す。その子は前髪を流した。振り返っていた少年が椅子に座り直している。

「物語に必要な役割についてはどうでしょう」

「悪役だ」

 口々にみんなが声を出した。悪役のない物語は確かにない。そう納得する。三つの中で一番納得がいくものだった。私は脚本にも小説にもろくに触れてないから、物語を作る過程の教室には全部全部ついてはいけない。乖離させることという文面が特にわからなかったが、教室は進んで行ってしまう。時折楽しげに笑って、声を出して、ホワイトボードを裏返したり文字を消したりして時間はどこまでも進んでいく。なぜだかわからないが胸がどきどきとしていた。

 最後に礼をして、授業は終わった。喋りながら続々と子どもたちが出ていく。私だけが取り残されて、ホワイトボードをまっさらにする女の背中を眺めた。黒いインナーシャツが透けている。紗英ほどではないが細い線だった。

 かけるように言われ、一番近い椅子へともたれかかる。女は一列前の椅子に座った。顔をじっくりと見られる。あまりにもまじまじと見られるので呼吸が浅くなるのを自覚した。

「脚本、興味があるんですか」

「脚本というか、小説というか。知り合いを思い出して立ち寄っただけです。すみません」

「謝ることは何も。小説と脚本は似ていますよ。似てるし、全く違ってもいる。矛盾してるでしょ」

 しばらく二人で無駄話をしていたからか、この人のことを知った気になって、私は口を滑らせた。

「ずっと漠然と思っていることがあって、だけどそれが正しいことなのかわからないから、知らないふりをしてるんです。だから私はきっと小説が書きたいんだと思います。書ける気はしないけど」

「強く書きたいと思うなら、書けます。無責任かもしれないけど、書きたくないのに書いてる人なんていませんから。それが必ずしも小説かどうかはわからないですけどね」

「小説が書きたいのにわからないんですか?」

「ほら、言葉ってたくさんあるでしょう。小説や脚本に限らず、エッセイや作詞、ラジオのハガキなんかもそうかな。わからないでしょ。わからないんです。漫画家になれなくてアーティストとして名を馳せた人もいます。見つかるといいですね、あなたの形が」

「……架空の本が欲しかったんです。読書感想文用の。たったそれだけのことで、一度考えたら止まらなくなってぶわぁって広がっていっている。でもして欲しいことがないんです」

「人間は欲から逃げられませんよ、死ぬまで。わがままになってでも他人の手を借りるのが必要な時もあります。それがなくてもきっと書けますけど、それが合うタイプじゃないように私には思えます。好きな人とやりたいこと、本当にありませんか?」

 あるにはあるのだろうが、パッと出せないくらいには頭の中はぐちゃぐちゃだ。紗英と何かをできるのなら、正直したいと挙げられることもない気がする。

「ずっと一緒にいたい」

 後ろから声が聞こえた。振り返らなくてもそこに紗英が立っているのがわかって、あえて時間をかけて振り返ってみた。今朝の会話を踏襲したせりふに言葉を忘れる。どきどき、ぐるぐる、ぼんやりと頭の奥が目まぐるしく回転し続ける。ドアに肩を預け足を組んで立っていた紗英はこっちへと近づいて来て、隣の椅子を引いた。

「ずっと一緒にいたいんでしょ。違う?」

「違わないけど、何で? 朝は変な空気になったのに。それを言うのずるいと思う。全部わかってますみたいな顔して」

 私は力なく肩のあたりを何度か叩いた。女がため息に似た吐息を出して、小さく笑った。

「びっくりした。紗英のとこの子だったんだ。確かにどことなくわかってますって顔してる。あんた離婚したんでしょ。誰との子?」

「私の、そうね、かわいい姪。私と過ごす夏休みを満喫してる小学生なんだからたぶらかさないで。この子のこと」

「お前はそう言うやつだよな。人を見てないようでいてどこかで過度に知った顔をする。罪作りな女なんだからあんまり気許しすぎない方がいいと思うよ」

 いつの間にか女から敬語が抜けている。どこか知らない繋がりがあるらしく、紗英とも親しげだった。少し劣等感の始めみたいなものを感じる。私の顔色が如実に悪くなっていくのに気づいたのか、紗英は私の両頬を掴んで揺らした。お前の言葉は聞かない、という意思表示だろうか。

「この人と私は関係ないし、私は誰のものにもならない。もちろんあんたのものにもならない」

「突き放したいのか安心させたいのかわかんないな。何、お前はこの子とどうなりたいわけ?」

「決まってるでしょ。叔母と姪。それ以上でも以下でもない。多少情を向けられることを許せるようになりたいぐらいね。……で、莉穂との飲み会のセッティングどうするの」

 流れが変わったように見える。莉穂という名前に女はわかりやすく反応した。紗英に恋情が向いていない、と言う判断でいいのだろうか。

「一週間後の火曜日十九時半からがいい」

 手帳をぺらぺらと捲って女は言った。

「あ、名前わかんないや。君はなんていう名前なの?」

「蒔実。蒔くに真実の実でまみ」

「蒔実ちゃんか。よくこいつと暮らせるな」

「うるさい。ちゃんと優しくやってるわよ。人並みに。波風は立ってないし、この子も私のいるのが死ぬほど嫌だ、ってわけじゃないだろうし」

「楽しいよ。紗英さんと暮らすの。死ぬほど嫌なんかじゃない」

 女は降参だと言いたげに手を上げてみせた。そのまま一人笑い始める。紗英のため息がすぐそこで聞こえた。話の主導権のレバーを引くのが目に見えるみたいだった。

「……で、莉穂が好きな侑子さんは今はどこまで行ったんですか?」

「そんなアウティングがありますか? お姉さん」

 莉穂の名前が出たので、私は聞き耳を立てた。

「どうもしないよ。ご飯に行く、薬局に行く、お前の話をずっと聞いてる」

「あんまりお前って言わない方がいいと思う」

 思わず言ってしまった。あえてその言葉を使っている、と言う選択肢は消していた。

「でも約束のために頑張ってる。健気ではあるわね」

「どんな約束か聞いてもいい?」

「そんな大それたことじゃないけど、その人、莉穂さんを主人公に落とし込んだドラマを作ること。まだだめなの。まだ叶わない。初めて会ったのに不思議でしょ。私あなたとはずっと前から出会っていたような気がする」

「……私も」

 少し盛った。初めて会ったけれど既視感があることを、四文字に詰め込んでしまった。どこまでも胸中を見透かしているような女にはきっと見抜かれているんだと思った。

「あなたから奪ったりしないよ、こいつ。私は莉穂さん一筋。これからもずっとそうだと思う」

「何でそんなこと言うの?」と思うとそっくりそのまま口から出てしまって、慌てて塞いだ。もう遅いのは明白だ。

「好きなんでしょ、紗英のこと。それが親愛か恋情かはわからないけど、私はそこに関与しない。奪わない」

 近づいてきた拍子に、涙袋の下にあるほくろが見えた。短髪からオレンジのようないい匂いがする。紗英は不思議なほど黙っていた。私から感情をぶつけられるのがおっくうなのだと勘違いしてしまうほどに。

「最後にひとつだけ。自分に起こったことだけを書けば、エッセイになる。それがきっとあなたの書きたいものに近いと思う」

 そう言うと、ノートや筆記類を持って、女はそそくさと部屋を出て行ってしまった。その背を二人並んで見つめる。ふいに紗英が腕を伸ばしたのを見て、どっと体の力が抜けた。倒れ込みそうになった私の手を掴んで、紗英が私を立たせてくれる。繋がれた手を見つめる私の目が嬉しそうに見えないといいなと思った。

「新聞は? 何か見たかったんでしょ。見つかった?」

「見つかった。見出し付きでね。無免許の飲酒運転で、時速百六〇キロメートルの走行。文句なしの逮捕劇でしょ」

 ああ、おかしい、と紗英は珍しく顔を隠して笑った。それに何か意味がある気がして、私は何も言わずに誰も入ってくる気配のない扉を見つめる。エッセイが自分に書けるものかまだわからないけど、絶対に紗英をモチーフにしようと心の底から思った。

「それは、紗英さんの嫌いな人? その捕まった人」

「ノーコメント。まあ肯定してるみたいなものだけど」

「逮捕されても困らない友人、とか?」

 紗英が当たり前のように手を繋いで歩き出した。ドアを押す手が力強い。先を歩いているせいで顔色が覗けなかった。どんな顔をしているのか知りたい。でも紗英はどうやら違うらしい。この話題はダメなのだと知らせた。

「……明日何してるの? 紗英さん。ほら、祭り。あるんでしょ、ここでも」

「あんた少し馬鹿にしてるとこあるでしょ。残念だけど私は仕事。車は出してあげられないわ。歩いても行けないことはないけど遠いし、夜遅くに出歩かせないから、そのつもりでいて」

「じゃあ明日は幽閉されてるんだ、私は」

 思わず振り返ってしまったような顔をして、紗英が味わうように呼吸をする。「変な語彙」と紗英は立ち止まって言った。いつの間にか手が離れていて、膝に手を置いてうずくまる紗英の姿を見つける。笑いすぎている。かすかに震えているから、悪い感情ではないのだろう。時折紗英のという人のことがわからなくなる。今がまさにその時だった。どうしてそんなにくったくなく笑えるのだろうか。

「事故を起こしたのが誰なのか聞かないでくれるなら、花火やろうか。型落ちのやつ。人からもらったの眠らせてるの。たばこ吸いがてら燃やそうよ」

「あんまり花火を燃やすって言わないけど、する。したい、花火。紗英さんとしたい」

「そ、決まりね」

「ねえ、もしいつか時が経ったら、その人について教えてくれる?」

 一種の賭けだった。自分が紗英の中に生きられているかどうかを試す心持ちで私は聞いた。車の扉をばっと開けた紗英は、少し静止したままその端正な顔を見せつける。

「いつか。いつかその時が来たら教えてあげる。今は言いたくないけど、あんたのことだから少ししたら嗅ぎつけちゃうだろうな。……でも、その人に対してあなたが敵意を向けるのだけは私は阻止したいの。大人の変な意地ね。行くよ」

 紗英が勢いをつけてシートに収まった。私もそれに倣ってシートベルトをする。このまま帰る道が永遠に続けばいいのに。この人をずっと独占したい。二つの気持ちが私の中を駆け巡って行く。

 紗英の言うことは変わらずわからない。けれど何かを恐れていると口にされたようなものだ。紗英の嫌がることは極力したくない。というかできないと思う。この人が好きと言う気持ちが私の総評だった。

 だんだんと暑くむしむししていた車内の温度が下がっていく。窓に小さなカマキリが止まって、すぐに風に飛ばされていった。

 本を借りる時のためにと持っていったリュックを部屋へと置いて、リビングにある座椅子に腰かける。

 テレビをつけると甲子園が始まっていた。野球のルールが全くわからないが、ここに人生や青春が賭けられていることはわかる。バットに球が当たるキン、という音が気持ちいいなと思った。地元の高校が勝ち進んでいれば思い入れが生まれるのだろうか。

 紗英が洗濯かごを持ってひょいと顔を出す。乾燥機にかけたものだろう。少ししたら畳むのを手伝おうと決める。惰性で触り続けてしまうスマホの電源を落とした。

「ねえ花火、今日でいいの?」

「逆に選択肢は何があるの?」

「今日は図書館にも行ったでしょ。絵日記的に分散させた方が良くない?」

「二日に分けて書けばいいんだよ。どこまでが真実かなんてわかんないし」

 紗英はかごから洗濯物を落としながら「そう、悪い子ね」と呟いた。

「ねえ、紗英さん。今日のご飯は何?」

「刺身。お高いやつ。……園崎蒔実ちゃんはお刺身も分散させるのかしら」

「何かその言い方悪意ある。これからの日常次第だよ。それは。ずっと紗英さんがいてくれるわけじゃないし」

「それはそうね。……まあでも、何も書くことがなくなったら最悪食べに来ればいい。私の仕事先に。サラダバーもなくなって、白米もセルフのファミレスだけど、少なくとも一人で過ごすよりはましでしょ」

 一瞬何を言われたのかわからなくなった。それはお前を寂しくさせないために行動してあげるという意味だろうか。働く紗英が見たくないかと言われれば見たいに決まっている。

 ねえ、大好きと囁くのはやめる。今言うことじゃないのは気がついていた。

 朝は曇っていたし今日は無理かと思っていたが、夜になると空は光っていた。星を見つけてこれなら平気だと、顔を見合わせた紗英と一緒に玄関から小走りに外に出る。サンダルを履いているからか、一瞬こけそうになった。

「煙草、吸っていいよ。ご飯後の一服まだでしょ。私はずっと見てるけど」

「兄貴が知ったら何言われるか。いいわよね、見てる側は」

「吸わないの?」

「……吸う」

 紗英がバケツを私に手渡して、花火を片側で押さえながら、ポケットから煙草を取り出した。紗英は出会った時と同じキャミワンピースを着ている。今日はシトロングレーのパーカーを羽織っていた。

 水を汲みに洗面所に向かおうとした私の肩を紗英は引き寄せて「あそこ」と囁いた。耳元が幸福だ。水道があった。確かに父が車掃除をする時はわざわざ水を汲みに行っていない。花火を一旦草むらに置いて、ホースが繋がれた水道を紗英が捻る。

「……この水道使うの久しぶり。出るには出るのね。じゃあいいや」

「この辺の植物に毎日水あげてるんじゃないの?」

「してない。そんなまめに見える?」

 だったら水をやらずにここまで育ったのか、と一番大きな背をした木を見上げる。

「……見える。家のことは全部やれます、みたいな顔してる。洗い物でお皿割ったりするのにね」

 紗英は「うるさい」と私にホースを向けた。指で潰して勢いを逃した水を私の足元へと落とす。いかんせん蒸し暑いので、少し濡れるくらい気持ちいいものだった。

「あんたの目には私がどう映ってるんだろうね。知りたいけど絶対に間違ってるから見たくない」

 怖がり、と言うか迷って何も言えない。バケツを手渡して注がれる水をじっと見つめた。紗英は言いたいことがあるなら言えばいいのにと笑うだろうか。それともそれを私に言うなと遠ざけるだろうか。

 紗英が花火の封を開けた。小袋からテープが外れて、いくつか袋の中に残る。ビンテージパープルをした厨二らしいパッケージの袋に、紗英の長い爪が当たる。そろそろ爪を切らないとと言っていたのは今朝だった。確かに長い。

 はいと手渡された小さな袋たちをひたすら開封して、潰した袋の上に置く。イエローからピンクにかけたグラデーション、暗い暗いグレー、淡水色、鉄色もあった。見ていて飽きない彩りに期待が募る。

 少し離れたところにあったバケツを近づけて、段になった玄関から完全に降りたところに立つ。段の上には並んだ花火がある。紗英が一本選ぶと立ち上がって、それを私に向けた。片手で花火を持ちながら、左手にはライターを持っている。介錯と頭の中で漢字が浮かんで消えた。

「花火についた火、貰うわね」

「……普通に火つけた方が早くない?」

 思わず言ってしまったことに口を滑らせたと言う後悔は待ってくれない。つかれるため息。紗英はまるで動じずに「あんたのためよ」と言った。

「私が紗英さんのことが好きだからちょっとサービスしとこうみたいに思われてるなら、嫌だ」

「何も言ってない。記憶にこびりつきたいだけ。あなたの人生に居座ってやろうと思って」

「……どういう意味?」

「私が性格悪いのは周知の事実でしょ。あんたが帰った後も私の人生は続く。だから、あんたの思い出に残ろうとしてるの。非日常めいた一夏の思い出」

「そんなことしなくても紗英さんは私の特別だよ。ねえ紗英さん、やっぱり私……」

「何も言わないで」

 花火を私に渡して空いた右手が私の口を覆った。ずるいと心底思った。出会った時に美しいと思った時くらい大きな衝動。紗英さんはずるい。私を隣に置いてくれないくせに優しくして、私が好意を向けようとすると引いていく。こういう時に私は言葉が出なくなる。その代わりに涙がつーっと落ちていくのがわかった。

 私が返事をせずに蹲ったのを肯定と受け取ったのか、紗英は手持ち花火にそっと火をつけて、咥えた煙草を寄せた。珊瑚色の火が灯った。

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