アズサとアヤミ2「スカート」

幌井 洲野

(1)やらかした

 ある初冬の朝、カワズルアズサはいつも通り、出勤の支度をして家を出た。もうコートがないと寒い。アズサは、お気に入りのロングコートを羽織って、自宅の玄関を出る。足元は黒いパンプスと黒いタイツなので、コートの裾と相まって温かい。


 今日はいつもと違って、荷物が多い。普段は、黒いトートバッグ一つで済ませているが、昨日、取材先で預かった山城の城郭の模型がある。今後、中世の城郭の図解するムック誌を製作するための資料用だ。それほど大きくはないが、昨日は預かったまま直帰したので、今朝は家にある。今日はこのまま紙バッグに入れて会社に持って行くことにした。なので、アズサは、普段使っているトートバッグの中身は、時々使うリュックに入れて、背中にはリュック、手には模型の入った紙バッグを持つ形にした。


 駅まで歩くと、都心方向の電車とは反対方向の電車に乗って、15分ほど揺られる。さすがにラッシュとは反対方向でも通勤時間なので、座れずに立っていた。下車駅から徒歩数分で勤務先に着く。アズサの会社は、事務系の女性は、いわゆる制服を着ている人が多いが、アズサは編集担当なので、仕事は私服のままで行う。それでも、自分のコートや他の持ち物などを置いたりするために、一旦、女子更衣室に入る。


 自分のロッカーの前でロングコートを脱ぐ。何か違和感がある。下半身にわずかに空気の流れを感じる、というか、なにか「軽快」な感じだ。アズサは、ちょっと恐る恐る自分の下半身に目をやると、目に入ってきたのは、黒いタイツの脚だった。


 アズサのベージュのセーターの下は、本来はいているはずのグレーのミディアムスカートの姿がない。何ということか、アズサは、スカートをはき忘れてきたのだ。一瞬、アズサの思考が止まる。何が起きたのかすぐには理解できない、いや、一秒もあれば理解できた。


「え、あ、ウチ、なに? スカートはいてない? なんで? いや、ウチ、どないしょ。なんでこんなんなっとんの?」


 困惑の自問自答で、アズサの頭は数秒間、嵐のように思考が渦巻いたが、数秒後には、次の思考が現れた。


「あー、なんとかせんと。今日一日会社の中でコート着とるわけにもいかんし。うーん…。あ、そや!」


 アズサにはちょっと名案が浮かんだらしい。またロングコートの前を閉じると、リュックや城郭模型は更衣室に置いたまま、総務部に行った。一番仲の良い女子社員に声をかける。総務担当の女子社員は、会社に来ると、紺色のベストとスカートの制服に着替えることが多く、この女子社員もいつものそのスタイルだった。


「おはようございます。あの…」


「あ、カワズルさん、おはよう。どうしたの?」


「え、あの、ウチ、ちょっと、行きしなに、スカート汚してしもうて、替えとかもってへんで、すみません、今日一日借りられるスカートとかありませんか?」


 仲のいい事務方でも、さすがに「スカートをはき忘れて来た」とは言い出せなかった。そう言われた女子社員は、


「え、あ、それは大変。ええと、あるよ。あ、サイズは?」


「ええと、9号があったら。ホンマすみません」


 女子社員は、倉庫に制服のスカートを取りに行く。少し時間がかかるように感じたが、ほどなく戻ってきて、


「あー、ごめん、11号しかなかった。大丈夫?」


と言って、アズサに紺色のスカートを差し出した。


「あ、11号でも大丈夫です。ウエスト大きかったら、安全ピンかなんかで止めますから」


「うん、じゃ、これでやってね」


「はい、ありがとうございます。今日はいたら、明日洗って持ってきますから」


「あ、明日じゃなくてもいいよ。適当に洗ったら持ってきてね」


 そう言われたアズサは、コートを着たままそのスカートをもらい、また更衣室に戻った。更衣室でようやくコートを脱ぐと、今借りたスカートをはく。11号でもそんなに緩くはないが、自席に行ったら、安全ピンで止めておきたい。アズサは、自分のコートをロッカーに入れ、背中にリュック、右手に紙バッグ、左手はスカートのウエストのファスナーの部分をつまんでずり落ちないようにして、階段を上がり、自席に着いた。


 見た目は普通の出勤姿だから、特に誰も気に留めない。目が合った同僚に「おはようございます」という程度だ。しかし、左手はまだファスナーの部分をつまんでいる。スカートのウエストはセーターの裾に隠れているが、ちょっとずらしてつまんでいるところを見ると、倉庫にしまってあった古いスカートなのか、ウエストのアジャスターが付いていない。やはり安全ピンは必要だろう。アズサはもう一度下の総務部に降りて、安全ピンをもらってきた。


 一日の仕事が終わり、退社時には、借りたスカートをそのままはいて帰る。さすがにロングコートとタイツでは無理だ。帰りは城郭模型の入った紙バッグは持っていないので、リュックだけの身軽な格好ではあった。


 家に着いて、リュックを降ろし、コートを脱いで部屋着に着替える。束の間落ち着くが、すぐに、強烈な自己嫌悪感が襲ってきた。


「あー、ウチ、スカートはき忘れるなんて、いったいどないしたん? 頭、おかしなってしもうたんかな。あ、でも、今日一日、ちゃんと仕事はしたしな。長いコートやったから、行きの電車も立っとったし、スカートはいてへんて、誰にもバレとらんやろうけど、参ったな。もし前みたいに道路で転んでケガでもしとったら、あー、この人、スカートはいとらん、とか、あー、どうしょう、ウチ…」


 アズサは数年前に、出勤途中の道路で転んでしまい、アキレス腱を切って、救急車で病院に運ばれたことがあった。


 アズサには今日の出来事はよほど堪えたらしい。女性が外出するのに下半身の、スカートやズボンをはき忘れるなどという「ありえない」ことが自分に起こった、いや、自分でやってしまったことについて、どうしても自分の心に納得を行かせることができなかった。

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