第十七章 最後の晩餐

第十七章一話 最後の晩餐


 土曜の夕方。

遥はハンバーグ専門店に、少し早めに到着していた。

 ホームセンター勤務の奏は、やはり土曜日も出勤だった。接客業はそういうものだと分かってはいたけれど、日中に会えないもどかしさはあった。

 それでも、会えた。

今日という日に、ちゃんと時間を作ってもらえた――それだけで、十分すぎる。

選んだのは、地元で評判のハンバーグ屋だった。

お洒落なレストランではなく、気取らないけれど味には定評があり、いつも混んでいる店。

 そのなかでも、少し奥まったカップル用のブース席を予約しておいた。


「レストランって聞いたから、もっと洒落たとこかと思いました」

奏は笑いながらそう言ったが、その目は優しかった。

「今日は気取らなくていいかなって。……それに、ここのハンバーグ、美味しいんだよ」

遥も微笑み返した。けれど、その笑顔の奥にある緊張は、互いに気づいているはずだった。

 運ばれてきたハンバーグの鉄板が、じゅうじゅうと音を立てている。

湯気に包まれながら、香ばしい匂いが空腹を刺激したはずなのに、二人とも、しばらくは黙ってナイフとフォークを動かしていた。

 遥は、その沈黙を壊すことを急がなかった。

奏もまた、焦ることなく、目の前の料理に箸をつけていた。


 「……来てくれて、ありがとう」

最初に言葉を発したのは、遥だった。

 「昨日のことも、今日のことも。ずっと甘えてばかりで、ごめんね」

「甘えてるなんて思ってませんよ。むしろ、俺のほうが……」

言いかけて、奏は言葉を濁した。

「……今日の夜に、遥さんとこうしてご飯食べてるの、ちょっと不思議です」

 「不思議って?」

「んー……なんていうか、“これが最後かもしれない”って、ふと思っちゃうような感じです。

別に、何かあるわけじゃないんですけど。……ただの勘、かな」

遥の指先が、軽く震えた。

フォークを持つ手を、少しだけ強く握る。

 「……なんで、そんなこと思うの?」

「たまにあるんです。

何も起きてないのに、変に胸騒ぎがするときとか。

――でも、誰にでもあるでしょ? そういうの」

 奏は冗談のように笑ったが、その笑顔はどこか遠くを見ているようだった。

遥はそれに返す言葉を見つけられなかった。

 彼がその“感覚”を持っていることが、ただの偶然だとは思えなかった。

死神から聞いた“予定”が、確かに刻一刻と近づいている。

 でも本人は、そんなものは知らない。知らないはずなのに、どこかで察してしまっている――

それが、余計に苦しかった。


 「……明日、天気悪くなるかな」

何気ないふりをして、遥は言った。

 「川とか、冷えるよね。冬だし。子どもとか、風邪ひきそう」

「急にどうしたんですか」

 「ううん、なんでもない。……ただ、なんとなく。そんな気がして」

奏は少し首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。

 食後に出されたデザートのアイスが少しずつ溶けていく。

沈黙のなかで響く、店内の賑やかな笑い声や食器の音。

けれど、この席だけは、どこか時間の流れが違うように感じられた。

 「ねえ、奏くん」

「はい」

 「……ありがとう。今日、来てくれて、本当にうれしかった」

「こっちこそ、誘ってくれてありがとうございました」

二人の間に、ゆっくりとぬくもりが戻ってくる。

それが一時のものであっても、嘘じゃない。確かに、この瞬間は存在している。

遥はそのことを、ずっと覚えていようと思った。

――もし、明日を超えられなかったとしても。



第十七章二話 母と息子の最後の晩餐


 冬の夕暮れは、思っているより早く訪れる。

午後五時。改札を出た先の広場にはすでに街灯が灯り、人の波が絶え間なく流れていた。

 陸翔は人混みの中で立ち止まり、スマホの画面をちらりと見る。

「あと3分くらいで着く」という母親からのメッセージ。

それだけで、妙に緊張している自分に気づく。

 (くだらねぇな)

そう思いながらも、胸の内は静かにざわついていた。

 

 ほどなくして、階段を下りてくる人の流れの中に、見慣れた姿があった。

小柄で、肩をすくめるようにしてコートの襟を立てた女性。

 少し髪が明るくなっていて、遠目には年齢がわからない。

でも、間違いようがなかった。


 「……来たんだ」

 声に出さず、陸翔はぽつりと呟いた。

母親は彼の姿を見つけると、目を細め、口元だけで笑った。

 「……迷わなかった?」

「なに言ってんの。こっちは東京住んでたことあるのよ。ナメないでよ」

相変わらず、ちょっとだけトゲのある口調。

でもそのトゲは、たぶん照れ隠しだということを、陸翔は今ならわかる気がした。

 

 二人はホテルに向かって歩いた。

手配していたのは、駅から徒歩五分のプチホテル。

 派手さはないが、フロントには暖色系の照明が灯り、柔らかい香りが漂っている。

チェックインを済ませる間、母親はロビーのソファに腰を下ろし、落ち着かない様子で周囲を見回していた。

「こういうの、慣れてないのよね」

 「そりゃ俺もだよ。ホテルの予約なんて、生まれて初めてかも」

「……ふふ。そっか」

小さな笑い声が返ってきた。

それが、陸翔には嬉しかった。

 

 チェックインのあと、ホテルに併設されたカフェに入った。

室内はこぢんまりとしていて、窓際のテーブルに腰かけると、店内はすでに夕方の静けさに包まれていた。

「ここも予約したの?」

 「いや。ここはたまたま」

「ふーん……でも、落ち着くね」

テーブルに運ばれてきたのは、温かいコーヒー。

 母親が選んだのは、甘すぎないブレンドと、レモンのタルトだった。

「ちょっと、ちゃんと飲みなさいよ。顔、こわばってるよ」

 「こわばってねえよ。 それより、これからレストラン行くのにケーキも頼むって、大丈夫かよ」

「そう? だって美味しそうだったんだもん。 リクが初めてご馳走してくれるから今日は張り切ってお昼抜いたんでお腹空いてるんだよ」

 「まっ……かあちゃんらしいか」

「しかし、あんたと二人きりで出かけるの、何年ぶりよ」

その言葉に、陸翔は返す言葉が見つからなかった。

ふと目を逸らし、カップの縁を指でなぞる。


 「俺さ。ちょっとは変わったかな」

「さぁね。でも、こんなこと言ってくるなんて思ってなかったから、驚いてる」

 「……俺なりに、考えてることあんだよ。今までろくに連絡もしなくて、……悪かった」

「ううん。謝るために呼んだの?」

 「……ちげーよ。言いたかっただけ。今、言っとかないと、たぶん一生言わない気がしたから」

 母親は驚いたようにまばたきをして、それからゆっくりとカップを置いた。

「……そっか。うん、ありがとう」

その言葉が、やけに静かに、けれど深く響いた。

 

 カフェを出たあと、二人は予約していたレストランへ向かった。

外はすっかり夜で、ビルの明かりが街の輪郭をなぞっている。

 レストランはあえて高級すぎない、けれど落ち着いた雰囲気のある家庭的な洋食店だった。

席に案内されると、母親はメニューを見ながらぽつりと言った。

「これ、あんたが選んだの?」

 「そうだけど」

「……意外と、ちゃんとしてるじゃない」

 「何だよ、ちゃんとしてるって」

「前は、何でもいいって言ってたじゃない。あの頃のあんたは、自分が何食べたいかもわかってなかった」

その言葉に、陸翔は一瞬言葉を失った。

けれど、少ししてから自嘲気味に笑う。

 「……かもな。でも、今はハンバーグ食いたいって思ってる」

「じゃあ、ハンバーグにしよっか。……今日は、いい夜ね」


そう言って母親が笑った顔は、どこか懐かしくて、陸翔は不意に胸がつまる思いがした。

 料理が運ばれ、二人は並んでハンバーグを食べながら、昔の話をした。

子どもの頃の失敗談、母親の得意だった卵焼きの話、父親のことには触れず、けれど少しずつ、時間がほどけていくように流れていった。

 いつの間にか笑い声が交じり合い、あたたかい空気がテーブルを包んでいた。

そして、ふとした沈黙のなかで、陸翔は思った。


――来てもらって、本当によかった。

この時間が、何かを変える。

確信ではない。ただ、そう思えた。

そんな夜だった。

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