第十章 境界を越える者

第十章一話 境界を越える者


 港区の裏路地。雑居ビルの入り口で、陸翔は立ち止まった。

時間は12時52分。集合時間まで、あと8分。

頭の中では何度もシミュレーションした。

 どう言えばいいか、どこまで本音を出すか。

言葉の順序。声のトーン。逃げ道。

 ……でも、全部意味がないのはわかってた。

 (結局は、“逆らう”ってことだ)

この世界で「辞めたい」は、死ぬ覚悟があるって意味だ。

それでも、昨日決めたことは変わらなかった。

 「ちゃんと死ぬ」って、自分に誓ったんだ。

 階段を上がるたび、足が少しずつ重くなっていく。

ビルの三階。廃テナントのフロア。その奥。

 少し開いた扉の隙間から、煙草の煙と笑い声が漏れていた。

 (クソ……普通に笑ってやがる)

ノックなんかしなかった。

陸翔はそのままドアを開けて、足を踏み入れる。

 「よぉ、仁科。おせーじゃねぇか。昼飯、買ってこいって言ったの覚えてんのか?」

 ソファにふんぞり返っていた男――幹部の田沼が笑って言った。

だが陸翔は、笑わなかった。

 「……今日、話があって来ました」

「ん?」

空気が一瞬で静かになった。

 男たちの目が陸翔を捉える。空気の色が変わる。


 「……辞めたいです。俺、この仕事、もうやりたくありません」

 静寂。

沈黙のあと、田沼が鼻で笑った。

 「は? 何言ってんの、お前」

「ちゃんと話を聞いてください。俺、誰かを騙して金取るの、もう……無理なんです」

 「“無理”とかじゃねぇんだよ」

ソファがギシリと軋み、田沼が立ち上がった。

背後の男たちも無言で立ち上がる。

一歩、また一歩。陸翔との距離が縮まっていく。

 「誰かが逃げたら、どうなるか知ってんだろ? “他”が疑われんだよ。下手すりゃ飛ぶぜ? 口封じってな」

「……口は、絶対に開きません。誰にも言わない。今までのことも、全部黙ってます」

 「“信用してくれ”ってか? 笑わせんな。なあ?」

 背後で、誰かが金属バットを持ち上げる音がした。

陸翔は一歩も退かなかった。

 (殺すなら、それでもいい)

死神の言葉が本当なら、俺はあと4日で死ぬ。

 だったら、この場で終わったって同じことだ。

 「……やめるって決めたんです。だから、これ以上は――何されても変わりません」

 その言葉に、一瞬、田沼の目が止まった。

 「……“何されても”ねぇ」

田沼はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。

 ゆっくりと煙を吐き出しながら、吐き捨てるように言った。

 「……その覚悟、どこまで続くか見せてもらおうか」

その言葉が許可だったのか、脅しだったのか、陸翔には分からなかった。

 でも、背中に走った汗と寒気が、“何かが終わった”ことを教えていた。



第十章二話 交差点の予兆


 午後の冷たい風が、商店街の端を吹き抜ける。

空は雲に覆われて、太陽の輪郭すら曖昧だった。

 遥は歩道の端に立ち尽くし、遠くを歩く青年の姿を目で追っていた。

 ――篠原奏。

スーパーの袋を手に提げ、何気ない足取りでこちらに向かってくる。たぶん、仕事の帰りだ。


 彼の死まで、あと4日。

ただ見ているだけでいいのか。

観測者として、制度の外側に立つ“例外”として、もう一度、自分に問い直す。

 (どうするの、遥。声をかける? それとも、また黙って通り過ぎるの?)

喉が渇いていた。心臓がいやな音を立てる。

 でもその奥底にあったのは、恐怖ではなかった。

 ――恥ずかしさ、だった。

(気味悪がられてもおかしくない。突然話しかけたら、きっと引かれる。けど――)

 遥は唇を噛み、マフラーの端を強く握った。

(それでもいい。変な人だと思われてもいい。忘れられるより、記憶に残った方がいい)

 勇気を出さなければ、何も変わらない。

心の奥で何かが切れたように、遥は歩み出した。


 「……あのっ」

思い切って発した声が、冷たい空気の中に響いた。

 奏が、立ち止まる。

袋を持ち替えて、ゆっくりと振り返った。

 目が合った。瞬間、遥の心臓が跳ねる。

「この前、文房具コーナーでペンを教えてくれて……あの、突然ですみません。名前を、聞いてもいいですか?」

 数秒の沈黙。


「……篠原、奏です。あなたは?」

 「……遥。安曇遥って言います」

 言った瞬間、顔が熱くなった。頭の中が真っ白になる。

 なぜこんなことを言ってしまったのかと、自分で自分を責める間もなく――

 「安曇さん」

 奏が、ふわりと微笑んだ。

 「今日も寒いですね。そこのファミレスで、お茶でもしますか?」

 遥は固まったまま、何も言えなかった。

 鼓動が一拍遅れて跳ね、思わず息を呑む。

 「……え?」

 「……いや、急に声をかけてくれたのが少し嬉しかったので」

 奏は肩をすくめ、控えめな笑みを浮かべている。

 遥の中で、何かが緩んだ。

 (……この人、やさしい)

 怖がられると思っていた。でも違った。

 (変なやつだって思われても、それでも――よかった)

 「……じゃあ、ちょっとだけ」

 遥は、そっと微笑み返した。

 二人は並んで歩き出す。

 ほんの数分前には想像もしなかった距離で。


 そのとき――

 視界の端で、黒い何かが揺らめいた。

 街路樹の陰に、一瞬だけ現れて、すぐに消えた。

 (烏牙じゃない……那刃の方?)

 獣のような、粗く、尖った気配。

 遥は振り返ったが、そこには何もいなかった。

 (同じ日に、彼らが死ぬ。その意味を、私はまだ知らない)

 けれど今は、それを知るための第一歩を踏み出したばかりだった。


窓際の席に座ると、店内の暖かさがようやく指先まで届いてきた。

 奏は先にメニューを開き、コーヒーを頼んだ。遥もそれに倣って紅茶を注文する。

 「寒い日が続きますね。風邪とか、大丈夫ですか?」

 奏が最初に口を開いた。


 「……はい。なんとか。あの……今日は、ありがとうございました。変な声かけ方してしまって……」

 「いえ、ぜんぜん。あんなふうにペンの棚を指したのも、正直ちょっと軽率だったかなと思ってたので」

 「いえ、助かりました。ジェルインクのボールペン、ちゃんと使ってます」

 遥の言葉に、奏は目を細めて微笑んだ。

 その笑顔が、とても静かで、あたたかくて――遥は胸の奥が少し苦しくなった。

 (死ぬなんて、嘘みたい)

 いま、目の前にいる彼が、あと四日で死ぬなんて。

 こんなふうに、人のことを気づかって、優しく笑える人が。


「……篠原さんって、ホームセンターで働いてるんですよね?」

「はい、社員として。最初は大学時代にバイトで働いてたんですが、卒業後もそのまま。 ずっとあそこで働いてます。社員になってもう……五年目になりますかね」

遥は小さく頷いた。

(私と同い歳くらいかな?……)

それだけで、どこか安心したような、不思議な感覚があった。

 「お店、落ち着いた雰囲気で好きです。あまり混んでないし」

 「それ、店長が聞いたら泣きますよ。もっと客呼べって言われてるので」

 くすっと笑う奏につられて、遥も小さく笑った。


 ぎこちない。でも、確かな“やりとり”。

 名前も、住んでいる駅も、日常の話も、少しずつ交わされた。

 ときどき、遥の胸に引っかかるものがあった。

 (この人は、自分が死ぬなんて、当然知らない)

 (でも……死を受け入れやすい、空気をしてる)

 無意識に、「今の生活に執着していない」ような、そんな話し方をするときがある。

 それは他人から見れば、落ち着いているとも見えるし、諦めているようにも感じられた。

 「……安曇さんって、何か、変わってますね」

 奏の言葉に、遥は息を呑んだ。

 (やっぱり、変だって思われた?)

 顔がこわばりそうになるのを必死で抑えていると、奏は続けた。

 「いや、悪い意味じゃなくて。“ちゃんと理由があって話しかけた”っていう空気、出てました」

 遥は一瞬、言葉に詰まった。


(それは……正しい。でも、言えるわけない)

 「……変な空気、出してましたか?」

 「少し。でも、僕もそんなに“普通”じゃ  ないので。お互いさまです」

冗談めかして笑うその顔には、どこか遠くを見るような影があった。

 (やっぱり……この人には、何かある)

 遥は紅茶を口に含んだまま、静かに視線を落とした。

 この出会いは、偶然じゃない。

奏が死ぬ運命だと知っている自分が、いま彼と同じテーブルで紅茶を飲んでいる。

 (私が関わってしまった以上……)

 (私が、見届けなくちゃいけない)

それが制度の帳尻だったとしても、誰かの延命の代償だったとしても――

 (私は、この人を、失いたくない)

遥の中に、確かな覚悟が芽生えていた。

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