第七章 見えるもの

第七章一話 見えるもの


 篠原奏は、いわゆる“普通の家”に生まれた。

両親は教師と銀行員。妹がひとり。

習い事をして、友達と遊び、小さなことで泣いたり笑ったり――

誰がどう見ても、平凡な子どもだった。

 ただ、一つだけ違っていた。

――霊が見える、ということ以外は。

 物心つく頃から、見えていた。

最初は、空想の友達だと親に思われていた。

「赤い服の女の子が遊んでたの」「昨日、階段のとこでお兄ちゃん見た」

 微笑ましく笑われたが、そのうち周囲の大人たちは“気味悪さ”に気づいていった。

奏自身は、当時それが特別なことだとは思っていなかった。

 大人には見えなくても、自分には見える“誰か”が、そこにいる。

夜中の廊下や、空き地の片隅や、バスの後部座席。

 声は発さず、ただじっとこちらを見つめてくる“誰かたち”。

奏は最初、彼らに挨拶をしたり、一緒に遊ぼうと話しかけたりしていた。

とくに悪意を感じることもなく、彼らはただ“そこにいるだけ”だったから。


 それでも成長するにつれ、気づいていく。

――他の人には、見えていないこと。

――見えることを言えば、変な目で見られること。

――下手に関われば、自分が浮いてしまうこと。

 それから奏は、見えても見えないふりをするようになった。

霊に挨拶することも、目を合わせることもやめた。

まるで、自分の目が“曇っているかのように”。

 結果、日常はうまく回るようになった。

普通に笑って、普通に会話して、普通に進学して――

 “普通の人間”として生きることができた。

ただし、何を見ても、何がいても、「それは存在しない」と決めてかかる癖がついた。


 だから、あの日。

アパートの前で“死神”が現れたときも――

 最初は「また何かが見えた」としか思わなかった。

けれど、その“黒い影”は、こちらに歩み寄ってきて、

 はっきりと目を見て、声を発した。

> 「こんばんは。あなたに、お伝えしなければならないことがあります」

 (――話しかけられた)

それが決定的に、これまでの“霊”と違っていた。


 死神の言葉は、静かで理路整然としていた。

 “あなたの命は、残りわずかです”

 “私は死神です”

そのとき、なぜか奏は、すとんと受け入れてしまった。

 霊ではない“別のもの”。

言葉を持ち、自分に使命を告げに来た何者か。

それが“死神”と名乗るのは、妙に納得がいった。


 奏は人生に絶望していたわけではない。

悲劇のヒーローになりたいわけでもない。

ただ――“仕方ないこと”は、あると思っている。

 霊が見えるという体質も、避けようのない運命も。

見えるものは見えてしまうし、訪れるものは訪れてしまう。

 「どうせいつか、誰にでも死は来るんだし。

 それが少し早かっただけなら、それも自分の流れなのかなって」

心の中で誰にともなく、そう呟いた。


 その夜もまた、ベランダの向こうに誰かが立っていた。

動かず、ただじっと、こちらを見ていた。

 奏は見ていないふりをして、カーテンを閉めた。



第七章二話 気になる子


 不思議だな、と奏は思った。

自分の命が残り少ないと宣告されたその日に――

 なぜこんなにも、ひとりの女性のことが頭を占めているのか。


最初に彼女を見かけたのは、文房具売り場だった。

髪を結って、小さな声で「…ボールペン……」とつぶやいていた。

 ボールペンの陳列棚を前に、迷子のような目をしていた。

思わず「これですか?」と声をかけそうになったけれど、

 そのとき彼女は振り返り、こっちを見たかと思うと、「ありがとう」とだけ言って、立ち去った。


 二度目は、仕事帰りの道で。

 「すみません」

と、急に声をかけられて振り返ると、彼女がいた。

 「…間違いでした」

それだけ言って、彼女は小さく頭を下げて立ち去った。

 でも、どこか少し、わざとらしかったようにも思う。

勘違い――だったのかもしれないし、話しかける口実だったのかもしれない。


 そして、三度目。

ホームセンターの文具売店で、みたび彼女が現れた。

 「……こんにちは。……また来ちゃいました」

小さな声でそう言われて、こちらも自然に返していた。

 そのあと大した会話はなかったけれど、彼女のほうがこちらを意識していたのは間違いなかった。

 (気があるのか?僕に?)

いやいや、それはさすがに自惚れが過ぎる。

 自分なんて、見た目も地味で、取り立てて目立つタイプでもない。

 (でも、なんだろう……)

話すたびに、目が合うたびに、

彼女のほうが“何かを探している”ような目をしている気がした。

 もしかして、何かを伝えようとしている?

いや、それとも――まさか、あの“死神”と関係が?


 冗談のように思いながらも、ふと考える。

死神が現れ、残りの日数を告げられた日に、

これまで三度も“偶然”顔を合わせてきたあの子。

 まさかとは思う。

でも、彼女のことが気になるのは――確かだった。

(……こんな気持ち、何年ぶりだろ)

言葉にしがたいざわめきが、胸の奥に残った。

こんな感情は、どれくらいぶりだろう。

 大学時代に付き合っていた美咲。 彼女が事故で亡くなってからというもの、誰かを想うことに恐れを感じていた。

あまりに唐突に、愛する人が目の前からいなくなる。 その喪失の記憶が、ずっと心を縛っていた。

 それでも――

ふとした仕草や声色、視線の揺れ。 彼女のすべてが、心を静かに満たしていく。

死神に余命を告げられた今、このタイミングでなぜ。

 そんな疑問さえも、彼女の存在の前では意味を失うほどだった。


 その夜、奏は夢を見た。

大学時代、美咲と那須高原へ出かけたときの夢だった。

 レンタカーで向かう道中、助手席で美咲ははしゃぎ、くだらないことで笑い合い、途中のサービスエリアではソフトクリームを買って食べた。

風の匂いも、空の色も、車内に流れていた音楽も、すべてが当時のままに再現されていた。

 夢の中の美咲は、あの頃と何ひとつ変わらなかった。

――同じ大学、同じサークル。 恋は、美咲からの告白で始まった。 「奏って、なんか、いいなって思ってたんだ」

戸惑いながらも、その真っ直ぐさに心を掴まれた。

 仲を深める中で、美咲は家族のことも打ち明けてくれた。 幼い頃に両親が離婚し、母親と祖父母と共に育ったこと。 特に祖父のことが大好きで、いつも楽しそうに話していた。

 奏もまた、自分の“霊が見える”という特異な体質を初めて他人に話した。

「へぇ、すごいじゃん。奏、特殊能力者なんだ」

冗談まじりの軽い言葉だったが、否定も疑いもしないその態度が、嬉しかった。

だが、楽しかったはずの夢は、突然歪む。

 那須高原へ向かう道の途中、対向車線から突っ込んできたトラック。 ブレーキが利かない。 車内が悲鳴と混乱に包まれる。

 次の瞬間、ガラスが割れる音とともに、美咲の顔が視界から消えていく。

――現実とは違う。

 あの日、美咲が亡くなったのは、自転車で駅へ向かう途中だった。 歩道に突っ込んできたトラックに巻き込まれての、即死。

 けれど夢の中では、なぜか自分が運転する車で美咲を死なせた。

どこか罪悪感を感じているのか、その改変された記憶に、奏は胸を突かれながら目を覚ました。


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