第三章「虚構魔法」



 複数人で何か事を為す場合、事前の打ち合わせは必須となる。


 犯罪に等しい非合法な行いでもそれは変わらない。むしろ世間の目を欺かねばならない都合上、合法的な行いよりも遥かに緻密な段取りが求められるため、各人の役割分担の決定や意見の調整を済ませておかなければ事は上手く運ばない。


 とはいえそれも、あまりに回を重ねれば本来の意義を失い、単なる慣習のようになってしまう場合もある。特段の理由がなくとも定期的に顔を合わせ、無為な雑談に興じるだけの集いと化すのだ。


 彼ら四人の集いは、その最たる例だった。


「ふと気になったのだが、これで何回目くらいかな? この面子で祭儀についてあれこれと語り合うのは」


 白いスーツを着た壮年の男が言う。金色の頭髪に青い瞳に白い肌と、紛うことなき白色人種の男だが、その口から出た言葉は流暢な日本語だった。


 海辺に建つホテルの客室。細長いデスクの上に置かれたノートパソコン。その液晶画面は現在縦に三分割されており、それぞれの枠に収まる形で三人の人物が映し出されている。


 白人の男が映るのは画面右側の枠。彼の問いに対する返答の声は、その隣――画面中央の枠に映る人物の口から放たれた。


「四人揃って、という意味でなら三十七回目だな。十三年前協会長の代替わりの折に顔合わせをしたのが初で、以降はずっとこの顔触れだ」


 白人の男が三十代ほどの外見であるのに対し、こちらは八十歳を過ぎていると思しき白髪の老爺だった。人種も違い、肌の色や顔立ちから黄色人種と見て取れる。


 しかしながら日本人でないことは、その身を包む漢民族の伝統衣装から明らかだった。


「へぇ……そんな正確に憶えてるんだ? 年のわりに記憶力いいね。おじいちゃん」


 老爺の左隣――画面左側の枠に映る人物が、感心した様子で言う。


 先の二人が男性であるのに対し、こちらは女性。十代半ばほどの美しい少女だ。


 彼女は白人でも漢人でもなく、褐色の肌をした南アジア人だった。


 その発言に、漢人の老爺は笑って応じる。


「脳の若さを保つ努力はしているからね。身体は衰えても頭はまだまだ現役だよ。……というより、君だって見た目通りの年齢ではないだろう? 人を年寄り扱い出来る立場かね?」


「おじいちゃん知ってる? 女に気安くそういうこと訊かないのが現代社会のマナーだってこと」


「生憎、古い人間なものでね。若者達が勝手に決めたルールやマナーなど知ったことではないよ」


「うわ、絵に描いたような老害。今すぐ地球上から根絶させなきゃいけないやつだこれ」


「ははははは」


 老爺と少女が話していると、白人の男が突然笑い出した。


「そうかそうか……三十七回目……今年で十三年目か……くくっ……くくくく……」


「君の笑いのツボはよく分からんのだが、何か可笑しいところでもあったかね?」


「いや何、思ったより長い付き合いになったなぁと思ってさ。正直言って初顔合わせの時は、君らとは数回会うだけで終わると思ってたよ。人生ってのは分からないものだね」


「ふむ……何やら感慨深げに言っているが、それは要するに君が指導者として力不足だったということだな」


 老爺は冷めた目で言う。


「騎士団を束ねる君には十分な財力も権力もあった。しかし、祭儀で勝ち残れるだけの強者を選び抜ける眼力がなかった。故に当初の目的を未だ果たせず、我らとの関係を不本意ながら続けている。それだけの話だろう?」


「同感。毎回毎回しょうもないのばっか出してくるからね。総長さんのとこは」


 辛辣な指摘に少女も同調し、小さく溜息をつく。


「他の奴のかませみたいな役回りであっさり死んだりとか、つまんないことで仲間割れした挙句に潰し合ったりとか、何か知らないけど勝手に発狂して自爆したりとか、そんなのばっか。祭儀のお笑い枠っていうか、ただの枠潰し集団だし」


「間抜けな死に様で笑わせてくれるのは結構だが、我々が楽しみたいのは真剣勝負であって茶番劇ではないのだよ。そこのところを弁えてくれんと困る」


「おいおい、酷いな君ら。僕だって真剣に頑張ってきたのに」


 二人に好き放題言われても、男は気を悪くした様子を見せない。むしろ酷評されることを望んでいたかのように、笑顔のまま大仰に両手を広げる。


「ま……僕が今まで送り込んだ連中がイマイチだったのは認めるよ。面白い奴らだと思ってたし実際面白かったけど、ちょっとばかり実力と脳味噌が足りなかったね。毎度のように祭儀を賑やかすだけのコメディ役で終わってしまっていた。……でも、今回は違う」


 その表情は、確固たる自信と燃え上がるような高揚感に満ちていた。


「強く、悪賢く、核兵器のように危険で、最高にイカレた奴らを用意した。この僕でさえ扱いに難儀する、人の皮を被った災厄の化身共だ。疑う余地なく騎士団史上最高の代表メンバーだよ」


 挑戦的な眼差しを他の三人に向け、騎士団と呼ばれる組織の長は告げる。


「故に断言しよう。君らとの腐れ縁は今回で終わりだ。祭儀の賞品である聖域の〈奇蹟〉は、僕の騎士団が貰うよ。必ずね」


「毎回言ってるよねそれ。史上最高の何たらってのも含めて」


「前回は神話の怪物に等しい最強の魔人集団、その前は人類の叡智を結集して作り上げた究極の人間兵器集団、さらに前は全団員の中から選りすぐった無敵の狂戦士集団と謳っていたな。総長殿の御高説を賜っていると、ボジョレーヌーボーの宣伝を思い出すよ」


 少女と老爺の冷めた反応が示す通り、白人の男の大言壮語は今に始まったことではなかった。


 いつもお約束のように自軍の戦力、凶暴性、異常性などを熱く語り、開戦前に意気揚々と勝利宣言をするが、開戦後はさしたる戦果も得られず早々に敗退――そんな無様を晒し続けている男なのだ。身も蓋もなく言えば、結果を出せていないため信用されていない。


 ワインの新酒に例えられるのも無理からぬことと言える。


「まあ冗談はさておき、真面目な話をするとだ……総長殿は一つ思い違いをしている。我らの祭儀を勝ち抜く上で最も重要な資質は、個人の強さではない。集団としての強さに貢献する力だ」


 漢人の老爺は緩く指を組み、持論を述べる。


「いかに強くとも単騎の力で全ての敵を屠るのは難しい。味方がいたところでそれが良い方に作用するとは限らん。先程教主殿が言及したように、互いに足を引き合って自滅に陥る場合もある。それは君自身、度々目にしてきただろう?」


「否定しきれないのが辛いとこだね。……つまり賢明な幇主様は、チームワークが何より大事って言いたいわけかい?」


「然り。人にはそれぞれ役割がある。王には王の、兵士には兵士の、官吏には官吏の役割がな。各々が役割を弁え歯車の如く連動することで、個を超えた集の強さが生まれる。そうした強さを何よりの武器とするのが人の戦いであり、そうしなければ勝利を得られんのが人の世というものだ」


 老爺は白人の男とは別の組織の長だった。権謀術数が渦巻く黒社会に生き、己の頭脳と人脈を武器に敵対者を排除し続け、地位と財を築き上げてきた傑物だ。


 老獪な策謀家であり、人間同士の闘争で勝ち抜く術を熟知している。


「狂った獣を野に放つことしか出来ぬ君は、真の勝者にはなれんよ。永遠にね」


「なるほど、正論だ」


 相手の意見に理があることを認めつつも、白人の男は笑みを崩さない。


「でも僕は、へそ曲がりのエンターテイナーだからね。正論だとか効率だとか合理性だとかいうクソかったるいものが、この世で一番嫌いなのさ。扱いやすい優等生より自由気ままな問題児が好きなんだよ」


 稚気と毒を含んだ深海のような眼が、遥か年上の競争相手を不敵に見据える。


「勝負事は楽しむ。十分に引っ掻き回して楽しみ尽くした上で、最後には勝つ。それが僕の流儀だ」


「愚かなり。……まあ、君はそれで構わんよ。道化の役も一人は必要だ」


 闘争に対して真逆の思想を持ち、笑顔を向け合いながら火花を散らす権力者二人。


 そんな対立の構図は、褐色の少女にとっては脱力を誘う茶番でしかなかった。


「まったくよくやるよね、二人とも。いい年こいたおじさんとおじいちゃんのライバルごっこなんて、傍から見たら誰得って感じだけど」


「そう言うなよアーシャちゃん。男同士の意地の張り合い、見得の切り合いこそ勝負の華ってものじゃないか。僕らが仲良しこよしでお行儀良くしてたら盛り上がりに欠けるだろう?」


「あたしら以外に観客いるわけじゃないんだから、盛り上げてどうすんのって話。あとそういうのって、もっと若くてかっこいい人がやんないと盛り上がらないよ。絶対」


「私と総長殿では見目麗しさに欠ける、か……そう言われてしまうと返す言葉もないな。はははは」


 老爺は愉快げに笑った後、興味深げな表情で問う。


「しかし、だ。君のところはどうなのかね? 見目麗しい教主殿。……此度の祭儀にはどんな手駒を送り込んだ? 勝算はいかほどかな?」


「どんなって言われても、いつも通りだよ。テキトーに選んだ強い奴ら。一人はあたしの身内だけど」


 艶やかな黒髪を手の甲でかき上げ、褐色の少女はそっけなく答える。


「みんなまあまあやる方だし、わりといいセンいくんじゃない? 期待してるかって言われればちょっとはしてるけどね。駄目なら駄目でまた次の祭儀を待つってだけ」


 長年の好敵手同士のようなやりとりを演じていた男二人と違い、彼女の発言には熱がない。


 結果や勝敗といったものに頓着せず、自軍の生死さえ他人事も同然に語っていた。


 誰が生き残り誰が死に、祭儀と呼ばれる催しがどんな結末を迎えるかなど、彼女にとっては娯楽映画の筋書きと大差ないことなのだ。


「どっちでもいいよ、あたしは。どうせ全部、ただの暇潰しだから」


 少女の姿をした不老の魔女。人の域を踏み越えた者達を束ねる、忌まわしき邪教の教主。


 異常者の集いの中にあっても一際異質な超越者の佇まいは、この世の全てを神の視座から俯瞰しているかのようだった。


「暇潰し、か……ふふ……そう言い切られると、血眼になって勝利を求める我々が酷く滑稽に思えてしまうな」


「でもそんなこと言いながら、毎回どぎついのを出してくるんだよなぁ、アーシャちゃんの僧院は。……怖い怖い」


「だってゴミ溜めだもん、あたしのとこ。外に出しちゃいけないゴミだけは山ほどあんの。祭儀だとそれがいい感じに処分出来るから、わりと助かってるよ」


 自虐的ながらも妙に的確な物言いに、男二人は声を揃えて笑った。


「ふふ……」


 二人の笑い声に続く、微かな失笑。


 それは、ノートパソコンの前に座る人物が零したものだった。


「いつもながらアーシャさんは、辛口のジョークがお上手ですね」


 奇妙な集いの四人目――画面内で繰り広げられる他三人のやりとりを静観していた最後の一人は、皮肉とも讃辞ともつかない言葉を口にする。


 その表情は柔らかく、声音は鈴の音のように澄んでいた。


 一応はこの集いのまとめ役であるその人物に、不老の魔女は琥珀色の瞳を向ける。


「事実をそのまま言っただけなんだけどね。……ああそうだ、そろそろ教えてよ。協会長さん」


「何をです?」


「今回の招待枠のこと。確かまだ二枠残ってたよね? そこに収まることになったのは、どこのどんな奴らなの?」


「ああなるほど、そうでしたね。まだお知らせしていませんでした」


 協会長と呼ばれた人物の左手がノートパソコンのマウスを操る。


 ほどなくして、画面上に一枚の画像が表示された。


「最後の招待客……第十二回窮神祭儀において〈愚者〉と〈死神〉の役を担う参加者は、この二人ですよ」


 港の埠頭を背景に撮られた写真。


 そこには、並んで立つ二人の少女の姿が映っていた。







 胸元に刻まれた一筋の傷。そこから噴き出た血は、幸いなことに少量だった。


 斬りかかられた瞬間後ろに跳び、弧を描く刃の軌跡から逃れたからだ。


 それによって致命傷は免れたが、すぐに心臓が早鐘を打ち、全力疾走した後のように呼吸が乱れた。


 精神にのしかかった負荷――死を意識させられたことからくる恐怖は、決して軽くなかったのだ。


「素人丸出しの動きだが……いい反応するじゃねえかよ、お姉ちゃん」


 サーベルを振り抜いた姿勢のまま、久我山は獰悪に笑った。


「普通の奴はなかなか動けねえもんだぜ。こういう場面で、そういう風にはよ」


 からかうような口調とは裏腹に、僕を見据える眼差しは鋭かった。


 僕という存在を頭頂から爪先まで細かく観察し、何かを見定めようとしている素振りさえあった。


 その意図は読めなかったが、いきなり斬りかかられた身としては、とても黙っていられない。


「な……何を……何をするんですか!? いきなり!」


 この男は何者なのか。カードから黒い剣に変わった「典符」とは何なのか。先程口にしていた「催し」だの「参加者」だのといった言葉は何を意味するのか。


 気になることはいくつもあったが、今一番切迫した疑問は凶行の理由だった。


 何故僕は、この得体の知れない男に命を奪われるような攻撃を仕掛けられねばならないのか。


「何を……か……くくっ……くくくく……」


 久我山は喉を震わせた。


 こちらの肌を粟立たせる、おぞましい嗤笑だった。


「当然っちゃ当然の疑問だろうが……そう訊かれると困っちまうなぁ……さて、何になるんだろうなぁ? 俺が今お前さん達にやってるこれは」


「ふっ……ふざけないで下さい!」


 要領を得ない返答に憤り、僕は久我山を睨みつけた。


 今しがた、本物の剣で斬りかかられた。胸元を掠めた刃は衣服と皮膚を裂き、この身に傷を負わせた。


 この傷口は、この痛みは、流れ出る赤い血は、紛うことなき凶行の証だ。


 人の身体を刃物で傷つけておいて「何をやっているか分からない」などと、そんな馬鹿な話があってたまるものか。


「そう怒るなよ。俺はただ上の命令通りにやってるだけだぜ。まだ右も左も分からねえガキ二人と適当にじゃれてこいっつう、アホ臭え命令通りにな」


 久我山はサーベルを肩に担ぎ、視線を横に流す。


 その先にいたのは、鞘香だ。


「だからよ、じゃれる相手の中にはお前も入ってんだわ。妹ちゃんよ」


「あっ……」


 視線を向けられた鞘香は細い声を零し、跳ねるように震えた。


 突然の異常事態に困惑していた顔から血の気が引き、蒼白に染まる。


 当然の反応だった。こんな場所でこんな危険人物と相対して、平静でいられるわけがない。


「何ブルってんだよ。いい機会じゃねえか。どっからどう見たって悪者のおっさんが目の前にいるんだぜ? 日頃の稽古の成果ってやつを見せてくれよ。拳法家」


 嘲弄の言葉を吐き、鞘香との距離を一歩詰める久我山。


 鞘香は恐怖のあまり身体の自由を失い、その場から動けない様子だった。


「ジジイにさんざん鍛えられてきたんだろ? か弱いお姉ちゃんを守る強いボディーガードなんだろ? ならここで活躍しなきゃ駄目だよなぁ? ええ?」


「あ、あぁ……」


「おいおい、あんまり白けさせんなよ。そろそろ覚悟決めて、自慢の拳でおじさんを殴り倒してみせろよ――なぁっ!」


 威圧の叫びと共に、斬撃。


 肩に担がれていたサーベルが再び振り抜かれ、鞘香の首に命中する。


「鞘――」


 絶叫を上げかけた直後、はっとした。


 鞘香は斬られていない。首を狙った斬撃は、首の皮に触れるか触れないかの位置で止まっていた。寸止めだ。


 悪意が滲むその行為は、肉体を傷つけずとも精神に重い衝撃を与えていた。


 鞘香の履くショートパンツに染みが広がる。漏れ出た尿が内股を伝って流れ落ち、足元の床に水溜まりを作った。


「い、嫌……嫌ぁ……」


 失禁してしまった鞘香はそのまま腰を抜かし、水溜まりの上に尻餅をつく。


 久我山の首が回り、僕の方を向いた。


「な? こっちが普通だ。普段ちっとばかし鍛えてようが、いざとなったら何も出来なくなっちまうもんなのさ」


「……っ! この……!」


 僕は激しい怒りを覚え、奥歯を噛んだ。


 しかし迂闊には動けないし、下手なことも言えない。相手は刃物を持った大人の男で、その気になればいつでも僕達を斬殺出来る存在だからだ。


 この男の正体や目的は依然として不明だが、対応を誤れば命取りになるのは確実。どうにかして上手くこの場を切り抜けないといけない。


「にしてもこいつはヘタレすぎだがな。見ろよこの小便。臭えったらありゃしねえ」


 久我山が鞘香に向き直ると、鞘香は引きつった顔で悲鳴を上げた。


「や……やだぁ! 来ないで! 殺さないで! あ、あたし、あたし何も――」


「ははっ、お漏らしの次は泣いて命乞いか? 笑かしてくれんなぁ、お前」


 愉快そうに笑った後、久我山の顔から笑みが消える。


 次いで放たれたのは、冷酷な声。


「ぴーぴー泣いてんじゃねえよ。クソガキ」


 右脚を上げ、靴裏を胸に叩き込む。


 大人が十二歳の少女にすることとは思えない、踏み潰すような蹴りだった。


「かはっ――」


 仰向けに倒れる鞘香。呼吸困難に陥って身をよじるその姿を、久我山は無情に見下ろす。


「てめえには俺が、命乞いすりゃ情けをかけてくれるような優しいおじさんに見えるか? この刀が玩具に見えるか? 今やってるこれが冗談か何かだと思ったか? んなわけねえだろ。ちったあ頭使って現実見ろよ」


 その声音は暴行以上に、久我山という男の野蛮な性根を物語っていた。


「殺されたくねえなら自力でどうにかしてみせろ。小便垂れ流すだけで何も出来ねえなら……」


 サーベルを握る右腕を伸ばし、濡れた股間の数センチ先まで鋭い刃先を近付ける。


 苦しみ悶えていた鞘香はその意味を悟り、見開いた目から涙を流した。


「下のお口に、ぶっといのを突っ込んじまうぞ?」


「い、嫌……嫌……嫌ああああああああああああぁぁぁ――――っ!」


 地下空間に木霊する悲鳴。それが、僕を衝き動かす引き金となった。


 相手は刃物を持っているから下手に刺激してはいけないだとか、何とか上手く対話してこの場を切り抜けようだとか、勝ち目だとか成功率だとか後先だとかいう小賢しい考えの全てが、頭の中からごっそりと抜け落ちた。


 代わりに、どす黒い怒りが全身を隅々まで満たし、あらゆる意味で抑えが利かなくなった。


 有り体に言えば、キレてしまったのだ。


「鞘香に……」


「あ?」


「鞘香に触るな! クソ野郎ッ!」


 怒号を放ち、踏み込む。激情に駆られるまま拳を握り、無防備な横顔に全力でぶち当てる。


「がっ――」


 零れる苦鳴。激烈な手応え。僕の拳打を左頬に受けた久我山が、まるで自動車に撥ねられたかのように飛ぶ。空中で錐揉み回転してから床に落ち、うつ伏せの状態で止まる。


 そこで僕は正気に戻り、我が目を疑った。


「なっ……え……?」


 何だこれは。いったい何がどうなっている。


 僕はただの女子中学生だ。大柄でも筋肉質でもないし、武道や格闘技の心得もない。人を殴ったこと自体これが初めてで、荒事に関しては全くの無知。いかなる観点から見ても、大人の男を軽々と殴り飛ばせる力なんて持っていない。


 それが何故、怒りでタガが外れていたとはいえ、こんな結果を生むのか。


 火事場の馬鹿力だとしても異常だ。マグレにしても出来すぎている。僕の倍近く体重がありそうな男が僕に殴られたくらいであんな風になるなんて、物理的にありえない。


 不可解な事象にしばし呆然となった後、自分の間抜けさに気付き、心の中で罵声を放った。


 何を呆けているのか、この馬鹿は。今はそんな場合じゃないだろう。


 何故こんなことが出来たかなんて、自分と鞘香の安全が確保された後でゆっくりと考えればいい。


 今すべきことは逃走。久我山が倒れている内にこの地下空間から脱出し、安全な場所まで移動することだ。


「鞘香! 行こう!」


「え……あ……」


「今のうちに逃げるんだ! 早く!」


「あ……あの……えっと……」


 恐怖で腰が抜けたせいか、それとも僕と同じ疑問を抱いたせいか、鞘香はすぐには動けない様子だった。


 仕方がないと思い、立ち上がらせるのを諦めて背中と膝裏に両腕を差し込む。


 我ながら無茶な行動だったが、何故だか出来るという確信があった。


 そして事実、重さをほとんど感じないくらい簡単に、僕の両腕は鞘香の身体を抱え上げていた。


「えっ……!? ちょっ……きゃっ……!?」


「走るよ! 僕につかまってて!」


「ええっ!?」


 困惑の声を聞きながら、鞘香を抱えて走り出す。


 部屋の出入口を抜け、来た道を引き返す形で長い地下道を真っ直ぐに進んだ。







 どうして、こんなことになったのだろう。


 僕は失踪した母の行方が知りたかった。家族四人で過ごす楽しい日々を取り戻したいだけだった。


 それが何故、こんな異世界めいた場所であんな凶暴な男に襲われる羽目になったのか。僕や鞘香が何か悪いことをしたというのか。


 運命の理不尽さを嘆きたい気分だったが、弱音を吐いていられる状況ではない。久我山が起き上がり僕達を追いかけてくる前に、少しでも遠くへ逃げなくてはならない。


 数々の疑問を頭の隅に追いやり、心臓を圧迫する不安と恐怖と焦燥に耐え、鞘香を抱えたまま地下道を懸命に走る。


 そんな僕の顔を見上げ、鞘香は問いを投げかけてきた。


「れ、怜……? あの……怜だよね……? 何で、こんな……」


「分からない」


「わ、分からないって……」


「分からないものは分からないよ! 僕にも何が何だか分からないけど……何でか今は、こんな無茶が出来るんだ。だからとにかく……この力を使って逃げるしかない」


 雑な返答をしながら地下道を駆け抜けた僕は、その勢いのまま地上へと続く階段を駆け上がる。そんな真似をしても足腰に苦痛は生じず、呼吸もさほど乱れなかった。


 鞘香は細身で軽量だが、それでも四十キログラム近くはある。普段の僕なら抱え上げるだけでも一苦労で、抱えたまま走るなんて馬鹿げたことは、どんなに気力を振り絞っても出来はしない。


 にもかかわらず今の僕には、それが出来てしまっている。鞘香の身体を軽々と抱え上げ、身軽な時の全力疾走と大差ない速さで走り、長い階段も楽々と上っている。


 どう考えても異常だった。先程拳の一撃だけで久我山を宙に浮かせたことといい、僕の身体はどうしてしまったのか。


「だから、考えるなよ……余計なことを……!」


 消えない雑念に苛立ちを覚え、今直面している問題に意識を向ける。


 気になることは山程あるが、全部後回しだ。今は地上に出てから進む方向と逃げ込む先を決めなければならない。


「西浦……は遠い……でも石宮も……ああくそっ!」


 あれこれと考えながら毒吐いている内に、階段を上り終えて別荘の一階に戻った。大急ぎで玄関に向かい、扉を蹴破って外に出る。


 当たり前だが、外の風景は来た時と何も変わらない。洋館風の別荘の周りを雑木林が取り囲み、紺碧の夏空から眩しい日射しが降り注ぐ、長閑な山中の風景だ。しかし僕達の状況は、長閑とは程遠いものへと一変していた。


 身を隠すため雑木林に突入しようかと一瞬考え、それは無謀だと却下する。謎の身体能力を得ている今の僕でも、足の踏み場にも困るような場所で鞘香を抱えたまま満足に進める気はしなかった。


 仕方なく、ここでも来た道を引き返すことを選択。玄関先から伸びる未舗装路を進む。


 出来ることなら西浦地区の天崎家に戻りたいが、ここからでは少し遠い。道中にある民家のどれかに駆け込み、保護してもらった後で警察を呼ぼう。いやその前に、車道を走る車のどれかを無理矢理にでも止めて乗せてもらうべきか。今は非常事態だ。人の迷惑やら体裁やら後のことやらを気にしてはいられない。


 走りながら思考を巡らせ、どうにか方針が定まりかけた瞬間。


 大きく長く黒い何かが、空から降ってきた。


 爆発に近い衝撃。轟音が響き、地面が揺れ、土砂が飛び散り、生じた突風が僕達の髪を逆立てる。


「うわっ!?」


「きゃあ!?」


 僕と鞘香の声が重なる。反射的に足を止めてしまった僕は、土煙が晴れた後数メートル先の地面に目を向け、その惨状を知って戦慄した。


 緩い曲線を描く形で地面が陥没し、堀のようになっていたのだ。


 曲線の長さは三メートル前後。幅と深さも数十センチはある。何をどうすればこんな有様になるのか見当もつかない、常軌を逸した破壊の痕跡だった。


「な……なな……何……? これ……?」


 鞘香の問いに、僕は答えられない。破壊が起きる直前、長大な黒い物体を見た気がしたが、気付いた時には忽然と消えていた。


 確かなことはただ一つ。僕があとほんの数メートルだけ先に行っていれば、今頃僕達二人は原型を留めない姿に成り果てていたということだ。


 その事実を認識すると、かつてないほどの震えが全身を襲った。


「正直、油断してたぜ。典符を起動する前から補正が入ってんのか……やはり普通じゃねえな、お前は」


 二度と聞きたくなかった声が、背後から届く。半ば凍りついていた身体を無理矢理動かして振り返ると、別荘を背にして立つ久我山の姿があった。


 右手に握られた漆黒の湾刀――その刀身が陽炎のように揺らめいて見えたのは、果たして気のせいだっただろうか。


「訳が分かってねえって面だな? じゃあ要点だけ教えてやるよ。今それをやったのは俺だ」


 久我山は不機嫌そうに顎をしゃくり、陥没した地面を示す。


「お前らを逃がさねえためにそこの地面にぶち当てたが、その気になりゃお前ら自身に当てることも出来た」


 こちらを見据える双眸が、濃密な殺気を帯びる。


「今度俺に背を向けたら、当てるぜ」


 その雰囲気から悟った。はったりではない。この男が言っていることは全て本当で、僕達が逃走を試みたら宣言通り殺す気でいるのだと。


 どんな手段によるものかは知らないが、この男には凄絶な破壊を行う力がある。そしてそれを、僕達のような子供相手にも躊躇なく使う非情さを持っている。


 もう逃げられない。迂闊に背中を見せれば、さっき抱いた最悪の想像が現実になる。


 やむをえず、僕は鞘香をそっと地面に下ろし、その身を守る盾となるため鞘香と久我山の間に立った。


 盾の役目を果たせる気はまるでしなかったが、そうしないわけにはいかなかった。


 今この状況で、鞘香を守れるのは僕だけ。他の誰でもない僕自身が身体を張り、この窮地を打開せねばならない。


「随分と物分かりがいいじゃねえかよ、お姉ちゃん。肝が据わってやがんなぁ……ガキのくせによ」


 久我山は湾刀の刃先を僕に向ける。真夏の強い日射しを浴び、黒い刀身が妖艶に煌めいていた。


「だがどうする? 妹のために身体張るのはいいとして、勝算はあるのか? また俺を殴り飛ばしてみせんのか? 俺が振り回すこいつをかいくぐってよ」


 僕は何も言い返せず、苦い顔で久我山を睨む他なかった。


 さっきはあれこれと考える前に身体が動いたし、久我山の意識が鞘香に向いていたから一撃入れることが出来たが、今度はもう無理だ。刃物を構えてこちらと正対している男に拳を叩き込むなんて真似、僕には出来ない。そんなことを可能にする度胸も技術も経験もない。


 何故か身体が強くなっている今の僕なら、刃を受けても平気だろうか。


 いや無理だ。そこまで無敵の身体にはなっていない。斬られれば普通に出血するし、致死量の出血をすれば心臓が止まる。


 そう確信出来る。今の自分に出来ることと出来ないこと、耐えられることと耐えられないことの違いが、不思議と感覚的に分かるのだ。それ故に、このまま殴りかかっていっても斬り殺されるだけだと分かってしまう。


 せめて素手でなければ、まだどうにかなったかもしれない。


 何か一つだけでも、この手が頼りになる武器を握っていたなら――


「――っ」


 はっと息を呑み、ショートパンツのポケットに手を入れる。


 硬く滑らかな感触。地下空間で見つけた後、訳が分からないままポケットの中に忍ばせていた物体が、変わらずそこにあった。


「気付いたようだな」


 久我山は目を細める。


「この状況でお前が頼れる物っつったら、地下で手に入れた典符しかねえよなぁ?」


 その言葉に背中を押されたわけでもないが、他に打つ手がなかった僕はポケットの中の物を取り出し、視線を落とす。


 黒い金属で作られた、一枚のカード。表に描かれているのは崖の上に立つ人物。上部に記された数字は「0」。下部に記された文字は「THE FOOL」。


 大アルカナの零番、「愚者」――を模した、典符と呼ばれる謎の物体だ。


「使ってみろよ。そいつを」


 挑発するように、久我山は言う。不気味な迫力を孕んだ声だった。


「言ったろ? そのタロットもどきは俺らに配られた武器なんだよ。戦う力が欲しいなら俺の真似して、そいつの本当の姿を引き出してみせろ。何が出てくるかは知らねえが……物によっちゃ俺をどうにか出来るかもしれんぜ」


 確かに言っていた。典符とはこれから始まる催しに参加するためのチケットであり、武器でもあるのだと。


 そして実際、この男は僕達の目の前で、自身が持つ「正義」の典符を湾刀に変えていた。


 あれと同じようなことが、今僕が持つ「愚者」の典符でも出来るのだろうか。


 いや、実に非科学的かつ非現実的なことではあるが、久我山の口振りや一連の流れからは、出来ると見た方が妥当と思える。


 僕は「愚者」の寓意画を凝視し、数分前の記憶を振り返る。


 この典符は武器に変わる。それが事実だとしたら、その方法は何だ。この薄っぺらい物体のどこをどうすれば、身を守る武器に変えられるのか。


 そういえばあの時、久我山は妙な言葉を口にしていた。


 確か、堕胎――


「――がっ!?」


 思考を断ち切る、重く深い衝撃。くの字に身体が折れ、呼吸が止まる。


 いつの間にか距離を詰めていた久我山が、左腕の拳を僕の鳩尾に突き入れていた。


「さっきのお返しだ」


 地面に膝をつく僕を見下ろし、冷たく言い放つ。


 意識の外からやってきた一撃に僕は到底耐えられず、胃の内容物を盛大にぶちまけた。


「げほっ……! ごほっ……ごほっ……!」


「肝は据わってても素人だな。対峙してる相手から考えなしに目を離すのは、殺してくれって言ってるのと同じだぜ」


 悔しいが、その通りだ。迂闊だった。こんな危機的状況で隙を晒しながら考え込んでどうするのか、僕は。


 こちらの考えがまとまるまで相手が待ってくれるなんて生温いこと、あるわけがないのに。


「ついでにもう一つ教えてやるよ。身体がバケモンみてえに強くなってんのは、別にお前だけじゃねえんだわ」


 言って、久我山は僕の右足首を掴んだ。そのまま片腕だけの力で僕を持ち上げる。


 見た目以上の怪力に驚く間も、何をする気かと疑問を抱く間もなかった。まるで砲丸投げでもするかのように、僕の足首を掴んだまま回転し、何度も空中に円を描いた後放り投げる。


 十メートル近く飛ばされた僕は、雑木林の木の幹に首の付け根から激突した。


「づぅ――ぁ――」


 脳が揺れる。死ぬかと思うほどの苦痛に襲われ、意識が消えかかる。太い幹に皮膚を削られながら落下した後は、全く身動きがとれなくなった。


 これまでの人生において最悪に近い体験であり、ある意味では稀有な体験だった。


 断言してもいい。自分の身体を投擲物にされて樹木に叩きつけられる機会なんて、普通に生きていたら一生訪れないと。


「こういうわけだ。俺を含めた祭儀の参加者は全員、典符の力で肉体を強化されてる。腕力も脚力も瞬発力も持久力も耐久力も、常人のそれとは比較にならねえものに変わってるのさ」


 脳震盪で動けない身体に、酷薄な声が降りかかる。


「おかげで色々と無茶が利くようになっちゃいるが、参加者同士の力の差は素の状態と変わらねえ。みんな平等に強化されてんだからな。まあ要するに……喧嘩の経験も格闘の心得もねえメスガキのお前は、殴り合いじゃ俺に勝てねえってことだ」


 混濁気味の意識の中、どうにかその声を聞き取り、内容を理解する。


 僕の身体が謎の強化を受けているのは事実なようだが、それは久我山も同じだった。


 元々の力が「一」の僕が「十」の力を得て「十一」になっても、「五」の力を持つ相手が同様の加算で「十五」になっていたら意味がない。素の状態の能力差がそのまま残っており、無策で殴り合えば順当に負ける。そういう話らしい。


 酷い話だと、深く絶望しながら思った。降って湧いたような身体能力に一縷の希望を見出したい状況だったのに、それさえも無力に等しかったなんて。


 これでは本当に、どうしようもない。この男の手から鞘香を守る術がない。


「れ、怜! 大丈夫!? 怜! 怜! 怜ってば!」


 鞘香が大声で呼びかけてくるが、今は返事も出来ない。起き上がって声を出せる状態まで回復するには、まだ時間が必要だった。


「随分必死に呼びかけるじゃねえかよ。そんなにお姉ちゃんが心配か?」


 久我山が問いかける。


「それとも、心配なのは自分の身か?」


「――っ」


「ここでお姉ちゃんに死なれちまったら、てめえを守ってくれる奴がいなくなるからなぁ……そりゃ必死にもなるよなぁ?」


 痛烈な皮肉。ヘドロのような悪意に塗れた最低の言葉が、鞘香の心を無遠慮に侵す。


「家族だろうが姉だろうが、結局は他人。本音のところじゃどうでもいいだろ? 他人の命なんて。そいつが自分の役に立つかどうか……重要なのはそこだけだ」


「ち、違……」


「違うってんなら、身を挺して守ってみせろよ」


 木にもたれかかる格好で倒れている僕を、湾刀の刃先で指し示す。


「さっきそいつがやろうとしたみてえに、根性出して俺に立ち向かってみせろよ。お姉ちゃんの命が本当に大事なら、それくらい出来るよなぁ?」


「あ……ぁ……」


「それともあれか? 自分はどうなってもいいからお姉ちゃんは見逃して、とでも言ってみるか? んな健気な台詞をマジで吐くなら、その通りにしてやってもいいぜ」


 口角を上げ、ゆっくりと腕を回す。


 命を容易く奪う凶刃と、持ち主の濁った凶眼が、怯える少女を次なる獲物と見定める。


「どんな死に方をしても構わねえって覚悟が、てめえにあるならな」


 勇気を振り絞り立ち向かっても、待つのは死だけ。


 刃で切り裂かれるか刺し貫かれるか、怪物じみた力で殴打されるか首をへし折られるか。それは久我山の気分次第だが、悲惨な死を迎えるという点では変わらない。


 今ここで、人生が終わる。想像を絶する苦しみを与えられ、幸福に生きるはずだった数十年を奪われ、自分という存在を無に帰される。


 そんな恐怖に、まだ十二歳の鞘香が抗えるわけがなかった。


「ひ……ぁ……ああああああああああっ!」


 半狂乱になりながら逃走を試みる。しかし読まれていたのか、久我山は即座に地面を蹴って跳びかかり、鞘香の後頭部を掴んで押し倒した。


「や……やだやだ! 殺さないで! 助けてお姉ちゃん! お姉ちゃあああああん!」


「はははははははっ!」


 火を噴くような哄笑が、髭に覆われた口から迸る。


 久我山は鞘香を押さえつけたまま、喜悦に歪んだ醜い顔を僕に向けた。


「おい見たかよ! 聞いたかよ! こいつの本性を! 本音の汚え叫びをよ! お前のために身体を張る気はさらさらねえが、お前に助けてほしくてたまらねえんだとよ! お姉ちゃんなんかどうなってもいいから自分だけは助かりたいってよ! はははははははっ!」


 恐怖に駆られて逃げ出そうとした鞘香を浅ましい臆病者と見なし、必死に鞘香の盾になろうとした僕を無様な道化者と見なし、等しく嘲る。


 僕達の絆を根底から否定し、嬉々として踏み躙る。


「そうだよなぁ……どこまで行ったってそんなもんだよなぁ、生の人間はよぉ。漫画や映画やドラマみてえにはいかねえ。作り話の住人みてえに綺麗にゃなれねえ。男も女もジジイもババアもガキも、みんな一緒だ。普段口先で何をのたまってようが、頭ん中にあるのは保身と自己愛だけ。本当に大事で可愛いのは自分だけだよなぁ!」


 ある種の熱を帯びた眼で鞘香を見下ろし、何かが決壊したかのように語り続けるその姿は、悪意の域を超えた黒い意思を感じさせた。


「そのくせよぉ……綺麗に取り繕いたがるんだよなぁ、どいつもこいつも。ハナから誰も愛してねえし誰も守る気がねえのによ、てめえがゲロ以下のクソゴミだって認めるのだけはどうしても嫌らしいぜ。だから平気で嘘を吐く。他人にも、自分にもな。――こいつだってそうさ! お望み通り自分だけ助かって家に帰れたらよ、一息ついた後で嘘臭え涙でも流すぜ、きっと! 自分の代わりにお姉ちゃんが犠牲になっただの、お姉ちゃんが死んで悲しいだのとほざいてよ! 何にもしねえで小便漏らしながら命乞いしてた分際でな! ひゃはははははははは! 都合の悪いことはすっかり忘れて、過去を自分好みに飾り立てて悲劇のヒロイン気取りだ! おめでたい脳味噌してんよなぁ! はははははははははははっ!」


 雑木林に響く笑い声。耳障りで毒々しいその声を聞きながら、僕は思った。


 強く深く、心底から思った。


 ――醜い。この久我山という男は本当に、骨の髄まで醜いと。


 言っていること自体はそう的外れではないのかもしれない。人間の弱さや欺瞞を説くその言葉には、否定し難い部分も確かにある。フィクションの世界ほど人が美しくないのは事実で、醜い面を隠すために自分を騙そうとする人だって少なくはないのだろう。


 それでも僕は、こいつに共感したくはないし、こいつの人間性を肯定する気にもなれない。


 理由は単純。こいつに美点がなさすぎるからだ。


 他人を愉快げに嘲弄し、何の躊躇いもなく暴力を振るい、この世の全ての人間を反吐以下の汚物と決めつけているこいつ自身が、僕の目には他の誰よりも汚らわしく映るからだ。


「書いてあった……通りだね……」


「あ?」


「少し前読んだ、心理学の本に……あんたみたいな人のことが書いてあった……その記述通りだって思っただけ」


 典符の力とやらの影響で回復力も上がっているのか、脳震盪からいくらも経っていないのに、もう普通に喋れるようになっていた。


 上体を起こし、言いたいことを静かに言う。


「人間の主観と客観についての話だよ。客観的な視点なんて言い方があるけど……本当の意味でのそれを持つことは、人間には不可能なんだってさ。どんな人間でも物事を見る際は、程度の差はあれ自分の主観が入ってしまう。自分の価値観、先入観、偏見、感情、好き嫌い……そうしたものを完全に意識から切り離せる人間は、この世のどこにもいない。人間はみんな、自分というフィルター越しに世界を見てる」


 想定外の反応に面食らったのだろう。久我山は笑みが消えた顔で固まっていた。


 構わず続ける。


「分からない? 簡単な話さ。自分というフィルターが外せないなら、世界の見え方はそれの出来次第でいくらでも変わる。心の綺麗な人は歪みも汚れもない清廉な目で世界が見れる。心の醜い奴は歪んで汚れたドブ色の目でしか世界が見れない。だから全てが醜く見える。ただそれだけの、言ってしまえば当たり前の話」


 僕だって聖人君子じゃない。色々と歪んでいるし、汚れているし、欠けている。


 それでも、今視線の先にいる奴とは違う。このクソ野郎ほど腐りきってはいない。


 鞘香が僕を助けてくれないことなんて別にいい。一人で逃げようとしてくれて構わない。こんな状況なのだから当たり前だ。自分を犠牲にしてでも僕を守る気概なんて妹に求める気はないし、求めてはいけない。


 情や絆があるなら命を捨てるのが当たり前だと語り、それが出来なければ汚物のように扱うこいつの価値観には、心底から反吐が出る。


「あんたの職業や経歴なんか知らないけど、顔と言動見てればどんな感じの人生送ってきたかくらいは想像がつくよ。暴力と暴言で他人を傷つけてばかりの不毛な日々。性根が腐ってるから類は友を呼ぶってやつで、関わる人間も全員似たり寄ったり。何かに本気で打ち込んだこともなければ、何かを成し遂げたこともない。正直な話、ろくなものじゃなかったでしょ?」


 勝手な決めつけだが、多分間違ってはいない。この手の奴は往々にしてろくでもない人生を送っていて、最低な人格の背景にはその人生の歪さがある。


 まともな教育を受けて成長し、友や家族を大切にしながら生きてきた人間なら、親子ほども年齢差がある子供を傷つけることに喜びを見出したりはしない。絶対に。


「汚れた心しか持てないから、生き方も汚れる。ゴミ溜めみたいな場所にしか身を置けなくて、汚物みたいな奴らとしか関われない。そんな人生送ってるから、余計に全てが汚く見える。人間が醜い? 世界が汚物塗れだって? 違うよ。そう見えるのは、あんた自身の腐った性根と、その行動がもたらした悪循環の結果だ」


 全ては自業自得。元から腐っていた男が腐った生き方をした結果、腐った世界観しか持てなくなった。ただそれだけの話。


 他の誰のせいでもない。こいつ自身の落ち度だ。


「断言してもいいよ。お前の人生は、この先もろくなものじゃない」


 立ち上がり、骨の髄まで腐った男と向かい合う。


 こんな奴には屈しない。決して退かないと自分自身に誓い、その顔を睨んで言い放つ。


「お前みたいなゴミは、死ぬまで何も得られず、何処にも辿り着けずに終わる」


 重い沈黙が落ちた。


 人格と人生を全否定された男は無表情のまま僕の顔を見据え、言いたいことを言い終えた僕は相手の反応を待つ。冷たく張り詰めた空気が場を包む。


 普通に考えれば、ここでの挑発は悪手。相手の凶暴性に油を注ぎ、自分が生き残れる可能性を下げるだけの愚行だ。もし傍観者がいたなら、何て馬鹿なことをしているのかと呆れ果てたことだろう。


 そんなことは承知の上で、僕は言った。臆せずに真正面から否定の言葉を叩きつけた。


 理由は一応あるが、一番重要なのは理由や理屈といったものじゃない。意地だ。ここは危険を冒してでも意地を通さなければいけない場面だと、胸の奥の苛烈な部分が強く訴えていた。


 こんな腐った奴に嘲笑われたままではいられない。浅はかで偏った人間観なんかで僕と鞘香の絆を冒涜させはしない。そうした思いに衝き動かされた結果であり、後悔はなかった。


 愚かだろうが何だろうが、これが僕だ。たとえ僕と同じ存在が何十人もいたとしても、同じ状況に置かれれば一人の例外もなく同じ内容の挑発をしたに違いない。そう信じられる。


「くっ……」


 久我山の口から、声が零れた。


「くく……くくくくく……くふふふふふふ……」


 嗤いだった。肩を震わせ、口を深い裂け目のように開け、久我山は嗤笑していた。


「いや参った……よりにもよって、何処にも辿り着けねえときたか……こりゃ傑作だ……くふふふふふふ……」


 顔が歪む。眉間に皺が寄り、細められた両眼が禍々しい曲線を描く。


 人の顔とは思えない、悪鬼の貌が表れる。


「そうさ、ご明察。俺は何処にも辿り着けねえよ。永遠にな」


 先の発言に思うところがあったのか。こちらを見据えるドブ色の瞳の奥には、暗い激情の炎が灯っていた。


「どう足掻いても先がねえクソゴミだから、今こうしてくたばるまでの暇潰しをしてんのさ。雄弁家のお嬢ちゃん」


 嗤いの形で怒りを表現しているのかと一瞬思ったが、違う。いや、怒りの念も確かに見て取れるが、それが全てではない。


 僕に罵られて血管が切れそうなほど激怒しながら、同時に小躍りしそうなほど歓喜してもいる、奇怪極まりない心境。胸糞悪い筋書きの舞台劇を観たいという願望を叶えた者が、その不愉快さと理不尽さに酔いしれているかのような、歪な恍惚。


 喜怒が混在した凄絶な形相は、そんな矛盾の極致を物語っていた。


 この男の捻じ曲がった人格には、僕の想像よりも深い闇が潜んでいたらしい。


「で……お次はどうする? 何やら上手いこと言って俺を言い負かしたような空気にしてるが、まさかそれで終わりじゃねえよな? ここでそんだけ啖呵切るってことは、何か考えの一つか二つくらいあるんだろ? なあ?」


「当然」


 僕は即答し、右手を前方に伸ばす。


 その手が持つのは、黒光りする「愚者」の典符。


 こちらの意図を察した久我山は目を見開き、鞘香から離れて僅かに身構えた。


「別に意味なくだらだら喋ってたわけじゃない。喋りながら記憶を辿って、あんたがその剣を出した時のことを思い浮かべてた。……それでやっと、思い出せたよ」


 要は時間稼ぎ。この手に武器を得るためには、あの「言葉」を思い出すまで間を持たせる必要があった。


 典符の起動条件と思しき、耳慣れない響きの言葉。


 記憶の中から掘り出したそれを舌先に乗せ、静かに発声する。


「堕胎顕幻」


 不思議な気分だった。同じ言葉を発声したからといって武器を得られる保証などないのに、この時の僕は不安を微塵も覚えなかった。この発声をすれば典符の起動条件を満たせるという確信が、いつの間にか胸中で芽生えていた。


 そして事実、僕が持つ「愚者」の典符は起動した。


 タロットを模した薄い金属の板が、無数の粉塵となって散る。次いで竜巻を生むように高速旋回し、僕の右手の一点に集束していく。


 久我山が「正義」の典符を起動した時と同じ光景が現出する中、再度の結合を果たしていく無数の粉塵を見て、僕は悟る。


 これは粉塵ではない。「情報」だ。


 気が遠くなるほど膨大な量の文字と、複雑怪奇な数式の羅列。コンピューターのプログラムの如く精緻に記述された情報。それが三次元の世界に現れ、世界の仕組みの一部を書き換えているのだ。


 驚くべきことにその書き換えは、僕の脳内にまで及んでいた。


 脳細胞に蓄積された知識の山に、新たな知識が投入される。映像を見たわけでも音声を聞いたわけでも文章を読んだわけでもなく、記憶そのものを改竄され、「既に知っていたこと」として情報を得る。


 今この瞬間手にした力の名称。原理。構造。効果。使用法。射程距離。時間制限。代価。


 そうした情報の全てを僕の脳が受け入れた時、典符の武器化は完了していた。


 確かな質量を持つ物体として形作られたそれを親指の先で軽く撫で、脳が受け入れた情報に従い、力の名を呼ぶ。


「〈虚夢の黒薔薇〉」


 それは、黒い指輪だった。暗闇が凝固したかのような漆黒の輪。薔薇の花を思わせる造形の石座。黒蝶真珠に似た煌めく球状の宝石。その三つの部位から構成されており、僕の右手の薬指に嵌っている。


 およそ武器と呼べる代物ではない、一見したところでは何の役にも立たなそうな一個の指輪が、僕の手にあった「愚者」の典符が変化した姿だった。


 意外な形状に当惑したのか。久我山は警戒しつつも怪訝に思うような表情を浮かべ、指輪に視線を注ぐ。


「それが……お前の虚装かよ……」


 謎の単語を呟き、推測の言葉を続ける。


「指輪、ね……初めて見る型だが……そのまま武器として使えるようなもんじゃねえな、どう見ても。まあ大方、そいつを起点にして何か妙な現象を――」


 言葉が途切れた。何かに引き寄せられるように自身の左手に視線を落とした久我山は、そのまま息を呑む。


 自ら口にした「妙な現象」とやらが既に発生していたことに、数秒遅れで気付いたのだ。


 その現象を言語で説明するのは難しい。あえて外見上近いものを例として挙げるなら、シャボン玉だろうか。多様な色味をほのかに帯びた、直径十数センチほどの透明な球状膜が、久我山の左手首から先を覆っていた。


 不可思議な超常現象に思考が追いつかなかったのだろう。久我山は呆然とした様子で立ち尽くし、言葉にならない疑問の声を零した。


 そして直後、奴は知ることになる。シャボン玉に似た透明な球状膜が、僕の力による「攻撃」だったことを。そこに込められた害意の深さを。


 迸る、赤い噴水。否、大量出血。


 久我山の左手首が突如、鋭利な刃物で切断されたかのように血を噴いた。


「ぐっ……おおおおおおおおおお!?」


 苦痛と驚愕の叫び。血飛沫を浴びる衣服。地面に広がっていく血溜まり。


 久我山は慌てて左手を膜の外に出し、限界まで見開いた両眼で凝視する。


 その手は健在だった。どこも切断されておらず、砕けても潰れてもいない。手首の先には無傷の左手が付いているだけだ。出血も既に収まっている。


 だが先の出来事は、幻覚などではない事実。その証拠に衣服の大部分は血飛沫で赤く染まっており、地面には夥しい血溜まりが残っている。


 傷はないのに出血の痕跡だけがある。そんな矛盾が混乱に拍車をかけたようだ。久我山は初めて明確な狼狽を見せ、無傷の左手、血溜まり、膜が浮いていた位置の三箇所に視線を巡らす。


 透明な球状膜は、既に跡形もなく霧消していた。


「んだよ……こりゃあ……」


「勘がいいね」


 自分の身に起きたことを理解出来ずにいる男に、僕は告げる。


「もう何秒か気付くのが遅ければ、失血死させられたんだけど」


 それは半分本当で、半分嘘。反応が鈍い者なら今の攻撃で終わっていただろうけれど、荒事に慣れた風のこいつなら気付いて逃げるだろうと読んではいた。だから遠慮なく仕掛けた。


 殺す気はない。今はまだ。


「でも少なくない出血量だ。もう立ってるのも辛いでしょ? 顔見れば分かるよ」


 外傷などにより大量に出血すると、脈拍の低下や呼吸不全などの症状が表れ、やがて多臓器不全に陥って死に至る。


 今の久我山はその何歩か手前の状態だ。早めに病院に行って治療を受ければ死ぬことはないだろうけれど、今この場で僕と鞘香に暴力を振るうような体力は残されていない。


 いや、仮に体力が残っていたとしても、そんな真似はもうさせない。


「その剣を捨てて降伏するなら、いくつかこちらの質問に答えてもらうけれど、命までは取らない。でも、その気がないなら……」


 右手を顔の前まで上げる。薬指に嵌った黒薔薇の指輪を、相手に銃口を向けるつもりで見せつける。


「死んでもらうよ。今、ここで」


 僕は聖人君子じゃない。自分と妹に危害を加えようとしている人間を放置していられるほど清い心は持っていない。


 向こうがこちらを殺そうとするなら、殺される前に殺す。


 当然の正当防衛であり、そこに躊躇や罪悪感は抱かない。こんなクソ野郎を殺したことを重い十字架として生涯背負い続ける気には到底なれない。


 それが僕の本音。自分と妹のためなら殺人も厭わない、御神本怜の無機質な本性だった。


「十秒だけ待ってあげる。こちらが十数える間に剣を捨てなければ――」


「くはっ……くははははっ……」


 こちらの通告を遮る、歪な笑い。


「脅し方まで堂に入ってやがる……やっぱ普通じゃねえな、こいつ……頭ん中どうなってんだか……」


 愚痴りながらも歪んだ喜びを滲ませ、久我山は苦笑する。


 出血のせいで呼吸は乱れ、顔色も青白くなっていたが、両眼に宿る獰猛な光は失われていなかった。いやむしろ、攻撃を受ける前より爛々と輝いているようでさえあった。


 顔を上げ、林の木々を仰ぎ見て叫ぶ。


「おい! もういいだろ! こいつはもう十分仕上がったよなぁ!? もう加減しなくていいよなぁ!?」


 その視線の先には誰もおらず、木々の枝葉と晴れた夏空が広がるばかり。


 それでも誰かに強く訴えかける様子で、怒気を込めた言葉を放つ。


「ここまできっちり要望通り動いてやったんだ! 後はもう構わねえよなぁ!? 俺の好きにしちまってもよぉ!」


 問いに対する答えはない。どこかから誰かが現れることはなく、誰の声も返ってこない。


 こいつは誰に向かって言っているのか。仲間がいるのか。この近くにその誰かが潜んでいるのか。


 僕が抱いたそんな疑問をよそに、酷く不気味な数秒の静寂が過ぎた後、満身創痍の男は満足そうに凄絶な笑みを見せた。


「どうやら、構わねえらしいな……じゃあ遠慮なく、好きにさせてもらうぜ」


 自らが握る湾刀を見下ろす。鏡面のように滑らかな刀身に視線を這わせ、低い声で告げる。


「起きろよ……〈顎門〉」


 刀身の切先。鋭く尖ったその先端部から、闇が溢れた。


 確かな厚みを持った、粒状の小さく黒い塊だ。それが次から次へと幾つも幾つも、巣穴から這い出る蟻の群れのように現れ、刀身を伝って腕へと進み、肩に達する。刃の先端から右肩の付け根に至るまでの範囲を、生々しく蠢く暗黒の塊が隙間なく覆う。


 そして変容。無数の塊同士が繋がり、混ざり合い、隆起し、新たな形を成していく。


「虚構魔法……って名らしいぜ。俺ら祭儀の参加者に与えられた、この力はよ」


 急速な変容が進む中、久我山は語る。


「偽りの魔法、紛い物の魔法……そんな玩具を与えられたアホ共が、それを使って最後の一人になるまで潰し合うってのが、俺らの祭儀だ。下らねえよなぁ、本当に。アホ臭すぎて欠伸が出るぜ」


 闇を掻き分け、巨大な眼球が浮き出る。白い牙が列をなして生え、粘液を垂らす。赤く細長い管が幾本も飛び出し、上半身の各所に突き刺さる。


 暗黒の塊に覆い尽くされた剣と腕が、原型を留めない異形へと変わっていく。


「だがまあ……降りられねえんだな、これが……俺もお前もどいつもこいつも、無駄に力だけありやがる糞ったれ共の意思に絡め取られて、もう引き返せねえとこまで来ちまってる。逃げ場も選択肢もねえんだよ。この島に踏み入った以上はな」


 変容が終わる。


 剣とはかけ離れたものに成り果てた剣が、息を吐いて身をよじる。


「じゃあどうする? そりゃやるしかねえよなぁ? 糞ったれ共の望み通りに、アホ臭え潰し合いをよ」


 大口を持つ黒い化物。陳腐な表現だが、僕が抱いた印象を率直に言語化するならそれだった。


 暗黒の塊に覆われ肥大化した刀身の前部が大きく縦に裂け、鋭い牙が左右に連なる「口」と化していたのだ。二枚貝にも似たその形状は、ハエトリグサという有名な食虫植物を思い起こさせる。


 刀身の側面にあたる部分から浮き出るのは、瞼のない巨大な五つの眼球。獲物を探し求めるように、それら全てが別々にぎょろぎょろと蠢く。剣の柄と一体化した前腕部からは幾本もの赤黒い管が伸び、久我山自身の胴体各所と繋がっていた。


 生々しく禍々しく汚らわしく、寒気を覚えるほど醜い姿だった。最早剣とは到底呼べない。使い手の指先から右肩までを侵食する形で、醜悪極まりない畸形の怪物が誕生していた。


 その姿を目にした鞘香が、生理的な恐怖に駆られて甲高い悲鳴を上げる。僕も平静を保ってはいられず、肌を粟立たせながら数歩後退する。


 そんな僕達の反応を面白がる様子で、自らが生んだ怪物と繋がる男は笑みを深めた。


「つうわけでだ、決闘しようぜ。雄弁家」


 五つの眼球がこちらを向く。牙の先から涎が滴る。


 飢えた獣の気配を放ち、理知のない狂った鳴き声を上げ、黒い畸形が僕を獲物として見定める。


「俺とお前のサシの勝負。勝った方が生き残り、負けた方が死ぬ。分かりやすくていいだろ? なぁ?」


 逃げ場も選択肢もない。


 先の言葉の意味が、重い実感を伴って僕の意識にのしかかった。







 不老の魔女は眉をひそめていた。


 ノートパソコンの液晶画面に表示された画像――そこに写る二人の外見が、予想の範疇から外れたものだったからだ。


「この子達が、最後の二人……?」


「随分と若い……というより幼く見えるな。まだ子供ではないのかね?」


 魔女とほぼ同様の表情で、漢人の老爺も疑問を口にする。


 二人から探るような視線を向けられた人物は、穏やかに微笑みながら問いに答えた。


「この二人は義理の姉妹で、向かって右側の髪の短い方が十三歳、左側の髪の長い方が十二歳です。幇主様のご指摘の通り、まだ子供と言うしかない年齢ですね」


「……正気かね?」


 老爺の眼が険しさを帯びる。


「我らの祭儀にこの二人を参加させると? こんな子供らに祭儀の貴重な枠を与える価値があると? 本気で考えているのかね?」


「別にいいじゃないか、子供でも。前例がないわけじゃないし、僕だってこのくらいの齢の子を送り込んだことはあるよ」


「君のところのあれは子供とは呼べん。子供を素材にしただけの生体兵器だ。単純に年齢だけを問題にしているのではない」


 白人の男の戯言を一蹴し、老爺は写真の二人に視線を戻す。


 凍土のように冷え切った眼は、無価値な塵芥を見る時のそれだった。


「写真を見ただけでも分かる。これは、ただの子供だ。兵器の類でも幼年兵の類でもない。武の匂いも戦場の匂いもしない。祭儀の舞台で勝ち残れる可能性など微塵も持たぬ、どこにでもいる平凡な子供達だ。違うかね?」


 黒社会の闘争を生き抜いてきた彼は、その経験故に人を見る眼を培っていた。


 非凡か平凡か。荒事に長けているか否か。その程度の違いなら、体つきや立ち姿を見るだけで判別がつく。筋肉の付き方は鍛錬の成果を、姿勢をはじめとした所作は技術の有無を物語るからだ。


 彼らが取り仕切る祭儀は格闘戦の強さだけで勝敗が決まるものではないが、かといってそれが無関係なわけでもない。必要最低限の身体能力や戦闘技術さえ持たない者が何も出来ないまま早々に脱落することは、数多くの前例から明白だった。


 要は、論外ということだ。どこにでもいる平凡な子供二人を連れてきて勝ち残らせるなどという無茶が可能なほど、彼らの祭儀は甘くない。


 それは老爺だけではなく、白人の男と不老の魔女も共有する認識だったが――


「仰る通り、とも言えますが……違います、とも言えます」


 協会長と呼ばれる四人目の人物は、やんわりと反論した。


「確かにこの二人は、特殊な施術をされた生体兵器や物心ついた頃から戦場を渡り歩いてきた幼年兵ではありません。平和な国の平凡な家庭に生まれ……まあ概ね常識の範疇の育て方をされてきた子達です。妹の方には格闘技を習わせてはいますが、まだまだ習い事の域ですね。皆様がお抱えになられている優秀な兵士達の腕前とは比べるべくもありません。でも……詳細は伏せさせていただきますが、ただの子供達ではないんですよ。この二人は」


 他の参加者より多くの面で劣ることを認めながらも、その微笑みは揺らがない。


 写真の中の御神本怜と御神本鞘香を見つめる瞳の奥には、奇妙なほどに強固な信頼があった。


「ちょっとだけ特別なんです。兵器としての性能や戦場での経験値とは違った意味でね。だからきっと、役者不足と謗られるようなことにはならないと思いますよ」


 静穏な様子を保ったまま、視線だけを僅かに動かす。


 祭儀とは名ばかりの殺し合いを自身と共に運営する三人の権力者に向け、軽く挑発するように言う。


「あくまで可能性の話、ですが……皆様が送り込んだ代表者の方々を打ち破ることもありえる、と私は見ています」


 三人の表情が微妙に変わった。四人目の人物の言葉が冗談や酔狂によるものではなく、本心から出たものだと察したのだ。


 元より、単なる遊び心で無意味なことをするような人物ではない。そんな愚か者だったなら協会長という地位をとうの昔に剥奪されている。


 写真の二人に祭儀を勝ち抜く力が本当にあるかどうかはさておくとしても、その人選の裏に何らかの意図や企みと呼べるものがあるのは間違いなかった。


「面白いね。気に入ったよ」


 白人の男が笑う。


「正直僕も半信半疑なところはあるけれどね。別に反対はしないよ。この子達が活躍するならなかなかの見物だし、活躍しなかったとしてもそれはそれで見物だ。どっちに転んでも高い観戦料を払う価値はある」


「活躍しなくても見物って何? ……あーごめん、大体察しついたわ。いいよ言わなくて」


「そんなの決まってるじゃないか。可愛い十代前半の女の子達がごつい男共の手でズタボロにされた挙句、盛大に泣き叫びながら無惨に犯されたり殺されたりするんだよ? 実に背徳的でそそられる絵面だね。僕も混ぜてほしいくらいさ」


「言わなくていいって言ってんのに」


 呆れ果てた顔で溜息をついてから、魔女は少しだけ真剣な顔を覗かせた。


「でも珍しいね。見方次第じゃあたしよりドライな協会長さんが、そこまで評価してるなんて」


 四人目の人物と目を合わせ、問う。


「……もしかして、わりと本気で思ってたりする? この二人のどっちかが、本物の魔法使いになれるって」


「さあ? どうでしょう?」


 他人事のような返答は、素顔を隠す薄い帳のようでもあった。


「私は予知能力者ではありませんから、未来のことは断言しかねます。無能で非才なこの身に出来るのは、人事を尽くして天命を待つことだけですよ」


 必ず勝つなどとは言わない。幼く非力な二人が他の参加者に惨殺されて終わる可能性を否定しない。


 そして同様に、万に一つの奇蹟を手繰り寄せるように勝ち残る可能性も否定しない。


「全ては運次第。神様が振るサイコロの出目次第……といったところでしょうか」


「神様、ね……あたしらが崇め奉ってる神様は、ろくなもんじゃないけど」


 不老の魔女は冷めた様子で呟く。


 暇潰しという前言が示す通り、彼女は祭儀の結果にさほど執着しておらず、祭儀の背後にあるものに対する関心も薄かった。


「だからこそ崇める価値があるんじゃないか。清く正しい天上の神様じゃ僕達の願いを聞き届けてくれないからね」


 白人の男は笑顔のまま軽口を叩く。


 自他共に認める下種であり、敬虔な心など欠片も持たない放蕩者だが、無神論者ではなかった。神と呼ぶしかない理外の存在を信じ、その恩恵を欲していた。


「然り。我らが神は魔道の神。世の理を狂わす白痴の怪異であるが故に、我らに恩恵をもたらしてくれる」


 漢人の老爺は粛々と同意を述べる。


 灼熱の信仰と冷徹な打算。理屈を超えた執念と理詰めの計略。半世紀近くに渡り祭儀と関わってきた老賢人の頭脳の中では、真逆の方向性を持つ意志が矛盾なく同居していた。


 思いは違えども連帯する。連帯しながらも敵同士となり競い合う。


 そうした特異な関係を続ける四人の力により、血染めの祭儀は繰り返されてきた。


 一度幕が上がれば、誰も逃れられない。勝者が決まるか期限を迎えるか、あるいは参加者全員が屍となるまで、魔道の力を借りた殺し合いは続行される。


「サイコロの出目は気まぐれですから、どうなるかは最後まで分かりません。でも、誰が脱落して誰が残ることになっても、面白くなるとは思いますよ」


 協会長という地位にあり、緩やかな連帯のまとめ役を務める人物は、肩にかかった長い髪を左手でかき上げる。


「今回も楽しみましょう。骸の神の加護を受けた、仮初めの魔法使い達の競演を」


 その左手に、輝きが一つ。


 純潔の美と永遠の絆、そして虚無の世界を象徴するかのような白薔薇の指輪が、細い薬指に嵌っていた。


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