公爵令嬢、身分を隠してパンを焼く。〜二度目の人生は恋と麦の香りとともに〜

すぎやま よういち

第1話 名もない村の、パン屋の娘

静謐な朝の光が、エルが住む「風凪ぐ丘のパン屋」の窓から流れ込み、店内に漂う焼きたてのパンの香りと混じり合う。その香りは、琥珀色の蜜を垂らしたように甘く、それでいて麦の素朴な息吹を宿していた。エルの指先は、まるで水面に舞う木の葉のように、小麦粉の山を優雅に、そして力強く捏ねていく。指と指の間から、白い粉がさらさらと砂時計の砂のようにこぼれ落ちる。やがて、その白い粉は、しっとりと重い塊となり、エルの掌に吸い付くように馴染んでいった。

この村の暮らしは、王都のそれとは比べ物にならないほど素朴だったが、それでも彼らの生活を支えるいくつかの工夫があった。例えば、パン屋の裏手には、村を流れる小川の澄んだ水を巧みに利用した水車式の製粉機が据えられている。ゴットン、ゴットンと規則正しい音を立てて回る巨大な木製の歯車が、石臼をゆっくりと動かし、小麦の粒を時間をかけて挽いていく。王都の製粉所にあるような、魔力で一気に大量の粉を生産する機械と比べれば、その効率は劣る。だが、この水車は、村の誰もが自由に使うことができた。

ある日のこと。製粉機の歯車の一つが、老朽化で軋み始めた。村の機械に詳しい老人が、一日がかりで修理にあたった。その間、村のパン屋は小麦粉が手に入らず、開店時間を遅らせざるを得なかった。 『ああ、これじゃあ、今日のパンは間に合わないねぇ』 エルは、少しばかり困った顔で、ルネにそう漏らした。 『仕方ないさ、エル。これも村の日常だよ。都会みたいに、全てが完璧に動くわけじゃない。でも、だからこそ、皆で助け合うんだ』 ルネはそう言って、薪割りの手伝いに向かう。

夕暮れ時になると、村の家々には魔力石を使った照明具が灯る。王都の街路を照らす巨大な魔導ランプのような派手さはないが、各家庭の小さな魔力石は、手のひらほどの温かい光を放ち、食卓を優しく照らした。その光は、蝋燭の炎のように揺らめくこともなく、煤(すす)が出ることもない。夜間の読書や、細かい手仕事には重宝されていた。しかし、その魔力石もまた、無限ではない。定期的に王都から補充されなければならず、その供給が滞れば、村はたちまち闇に包まれる。去年、内乱の余波で補給路が寸断された際には、村は数週間、蝋燭と焚き火の明かりで過ごすしかなかった。その夜は、いつもより魔物の声が近くに聞こえ、村人たちは不安な夜を過ごしたことをエルは覚えている。魔力石に依存しきっているがゆえの、不便さや、時に伴う不安がそこにはあった。

『お姉ちゃんのパン、まだかなぁ!』 店の入り口から、待ちきれない子どもたちの声が、朝焼けを裂くように弾けた。彼らの瞳は、焼き上がったばかりのパンのように、金色に輝いている。エルの頬が緩む。彼女は白い布に包まれた焼きたてのパンを、まるで大切な宝物でも手渡すかのように、一人ひとりの小さな手に載せていった。湯気を含んだパンの表面は、子猫の毛並みのようにふわふわと柔らかく、子どもたちはそれを抱きしめ、瞳を細めて香りを吸い込んだ。その光景は、古びた絵本の一頁のように穏やかで、エルの心に温かい墨が広がる。

その日の朝一番の客は、ルネだった。彼はいつもと変わらぬ笑顔で店の扉を開け、カラカラと心地よい鈴の音が店内に響いた。 「今日もいい匂いだよ、エル」 ルネの声は、清冽な泉の水のように澄んでいて、エルの耳の奥で静かに反響した。その言葉は、まるで掌に落ちた一粒の雫が、波紋となって心いっぱいに広がるように、彼女の胸の奥深くに染み渡った。ルネがパンを手に取り、柔らかな微笑みを浮かべた時、エルの心臓が、春の解氷期の小川のように、とくとくと脈打った。この何気ない日常の中にこそ、彼女が求めていた全てがあったのだ。

しかし、エルの内側には、決して表に出すことのない過去が、重い石碑のように横たわっていた。彼女はかつて、煌びやかな公爵令嬢「エレノア」だった。その名は、いまや遠い蜃気楼、あるいは幼き日の夢物語。王都の喧騒、社交界の華やかな仮面舞踏会、そして、自身の存在を縛り付けていた名誉と義務。それらすべてが、埃を被った古い書物のように、彼女の記憶の奥底に封じ込められていた。

彼女はあの頃、常に他者の視線の中に生きていた。着る服、座る椅子、口にする言葉のすべてが、公爵令嬢としての役割を演じるための舞台装置。息苦しさという名の分厚い布が、常に全身を覆い、彼女の魂は次第に干上がっていった。特に、王都で囁かれていた貴族たちの醜聞や、権力争いのための政略結婚の話が、彼女の心を深く抉り取っていた。父は常に「お前は公爵家の宝だ。その美しさ、その才覚は、家のために使うものだ」と、彼女の自由を鎖で繋ごうとした。その言葉は、エルの耳に届くたびに、鉛の塊となって胃の腑に沈んだ。

そんなある日、彼女は密かに屋敷を抜け出した。夜の闇は、彼女にとって唯一の逃げ場であり、自由への扉だった。その夜、迷い込んだ裏通りで、偶然目にしたのが、焼きたてのパンを売る小さな店だった。漂う香りは、王都のどの香水よりも甘く、彼女の心を捉えた。店の奥で、職人の無骨な手が小麦を捏ねる姿は、まるで魔法のように彼女の目に映った。その瞬間、エレノアは悟った。自分にとっての幸福は、豪華なドレスでも、飾られた肩書でもない。温かいパンを焼き、人々に喜びを届ける、名もない人生にあるのだと。

だからこそ、この村での生活は、彼女にとっての「命綱」だった。パンを捏ねる手のひらに感じる小麦の温もり。子どもたちの屈託のない笑顔。そして、ルネの、何の思惑も含まない「いい匂いだね」という言葉。それら一つ一つが、過去の自分を構成していた重い鎖を解き放ち、彼女の魂を静かに、しかし確かに満たしていく。この穏やかな日常は、彼女にとっての生命そのものだった。彼女は、この風凪ぐ丘のパン屋で、ただ一人のパン職人として、静かな呼吸を繰り返していたかった。それは、彼女がようやく手に入れた、魂の安息だった。

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