第23話

お父さんに会いに行く。

そう決意したものの、私の心は期待と不安でぐちゃぐちゃだった。


十年以上も会っていないお父さん。

彼は、私のことを覚えているだろうか。

そもそも、会ってくれるんだろうか。


ううん、それ以前に、私はどんな顔をしてお父さんに会えばいいんだろう。


私を捨てた人。

お母さんを苦しめた人。

でも、私の才能の原点でもある人。


そんな複雑な想いを抱えたまま、私たちは橘先輩と合流して新幹線に乗り、お父さんが住むという山奥の町へと向かった。


「しかし、よく見つけたな、神木」


電車の中で、橘先輩が感心したように言った。


「彩崎のお父さん、完全に世間との関わりを断ってるみたいだったぞ」


「ああ。昔の業界の関係者を片っ端から当たってみたんだ。そうしたら、一人だけ彼と今でも連絡を取っている人がいて」


神木くんは、少しだけ疲れた顔で、でもどこか誇らしげに言った。

私のために彼がどれだけ頑張ってくれたか。それを思うと、胸が熱くなる。


「大丈夫か、莉緒? 顔色が良くないぞ」


神木くんが、心配そうに私の顔を覗き込む。


「う、うん。大丈夫。ちょっと緊張してるだけ」


「無理するなよ。辛くなったら、いつでも言え。俺たちがいるんだからな」


先輩が、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。

二人の優しさが、私の固くなった心を少しずつ解きほぐしていく。


電車を乗り継ぎ、バスに揺られ、私たちはやっと目的の町にたどり着いた。

そこは、とても静かな集落だった。

古い木造の家が立ち並び、空気は澄んでいて、鳥のさえずりだけが聞こえてくる。


「……ここか」


先輩が持っていた地図と目の前の風景を見比べる。

その地図が指し示していたのは、集落から少し離れた、森の中にひっそりと佇む古びた工房だった。


錆びついたトタン屋根に、蔦が絡まった壁。打ち捨てられた家だった。


「……行こう」


神木くんに背中を押され、私は意を決してその工房のドアの前に立った。

心臓が激しく脈打っている。


ドアを叩けない。

指が震えて動かない。


そんな私の手を、神木くんがそっと自分の大きな手で包み込んでくれた。


「大丈夫。俺がついてる」


私は深呼吸を一つして、古びた木のドアをコン、コン、と叩いた。


しんと静まり返る工房。

返事はない。


もう一度、叩く。

それでも、何の反応もなかった。


「……留守、なのかもしれない」


橘先輩がそう言った時だった。

ギィ、と錆びついた蝶番が軋む音を立て、ドアがゆっくりと内側から開いた。


そこに立っていたのは、私の記憶の中にいる優しくて格好良かったお父さんとは似ても似つかない、一人の男の人だった。


無精髭が伸び放題で、髪はぼさぼさ。痩せて、目の下には深い隈が刻まれている。着ている服も薄汚れていて、体からはお酒の匂いがぷんと漂ってきた。


その瞳は虚ろで、私の顔を見ても何の感情も浮かべていないようだった。


「……どなたですかな」


しゃがれた、生気のない声。


「……お父さん」


私の唇から、震える声が漏れた。


「私、莉緒だよ」


私の言葉に、彼は一瞬だけ眉をひそめた。

でもすぐに興味を失ったように、ふいと顔を背けた。


「……人違いだ。俺に娘なんていない。帰ってくれ」


そう言って、彼はドアを閉めようとした。


「待ってください!」


神木くんが咄嗟にドアの隙間に足を入れて、閉まるのを防いだ。


「お話があるんです。彩崎さん」


「……話すことなど何もない」


男の人は、忌々しげに私たちを睨みつけた。

その瞳は、かつて天才と呼ばれた芸術家のものではなかった。


私は、絶望した。

やっぱり無理だったんだ。

お父さんは、もう昔のお父さんじゃない。

私がここに来たのは、間違いだったのかもしれない。


私がうつむいて、その場から逃げ出したくなった、その時。


「嘘だ」


私が、ぽつりと呟いていた。


「え?」


神木くんと橘先輩が、驚いて私を見る。


「嘘だよ……。だって……」


私は、工房の中をじっと見つめた。

雑然として埃っぽい工房。

壁には、使い古された特殊化粧の道具が無造作にかけられている。


その中に、一つだけ。

工房の隅の小さな作業机の上だけが綺麗に片付けられていて、とても大切にされているのが分かった。


そして、その机の上に見覚えのある古びた木の箱が置いてあるのが見えた。


あれは……。

私が幼い頃、お父さんと一緒に創った、宝箱だ。


私は、工房の中へと足を踏み入れた。


「おい、勝手に入るな!」


お父さんの戸惑うような声が、背後から聞こえる。

でも、私は止まらなかった。


作業机の前に立つと、私はそっとその木の箱の蓋を開けた。


中に入っていたのは、私が小学生の時に粘土で創った、歪な形をした小さなクマの人形。

そして、一枚の色褪せた写真。

そこには遊園地で幸せそうに笑っている、若い頃のお父さんとお母さん、そして二人の間で満面の笑みを浮かべている幼い私が写っていた。


胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。

私は、その写真をそっと裏返した。

そこには、お父さんの震えるような不器用な文字で、こう書かれていた。


『莉緒、お前の才能だけは、誰にも奪わせない。すまない、父さんを許してくれ』


その言葉を見た瞬間、私の目から涙が止めどなく溢れ出した。


お父さんは、忘れてなんかいなかった。

ずっと、私のことを想っていてくれたんだ。

業界から追放され、家族も失い、たった一人でこの暗い工房の中で、ずっと私のことを……。


「……お父さん」


私は涙でぐしゃぐしゃのまま、振り返った。

お父さんは、呆然とそこに立ち尽くしていた。その虚ろだった瞳が大きく見開かれ、揺れている。


「私、話がしたい。お父さんの本当の気持ちを聞きたいの」


私が、まっすぐに彼を見つめる。

それを受けて、お父さんの顔が苦しそうに歪んだ。

彼は何も言わずに、ただわなわなと唇を震わせている。


深い絶望の中にある、ほんの少しの希望。それを私が見つけた時だった。


バタンッ!


工房のドアが、今度は外から乱暴に開けられた。

そこに立っていたのは、凄まじい形相の姫川瑠奈さんだった。


彼女の手にはスマホが握られていて、その画面はライブ配信中であることを示していた。


「見つけたわよ、彩崎莉緒。そして、元・天才芸術家さん」


彼女は歪んだ笑みを浮かべて、私たちを見下ろした。


「あなたたちの、感動の親子の再会。その一部始終、全国の皆様にお届けしてあげるわ」


彼女の後ろには、情報を聞きつけて集まってきたであろう数人の記者たちの姿もあった。

カメラの閃光が、一斉に私たちに、そして私の涙に濡れた顔に容赦なく浴びせられた。


「さあ、始めましょうか。あなたたちの物語の、最終章を」

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