第20話

橘先輩からの不穏な連絡。

『莉緒、大変だ。すぐに部室に来てくれ。……お前の過去のことで、やばいことが分かった』


その短い文面が、私の幸せな気持ちを一瞬で凍りつかせた。


「どうしたの、莉緒? 顔色が悪いよ」

隣にいる神木くんが、心配そうに私の顔を覗き込む。彼の優しい声が今は遠くに聞こえる。


「ううん、なんでもない。ちょっと先輩から急ぎの連絡が……」

「俺も行くよ。一人じゃ心配だ」


神木くんは私の手をぎゅっと握りしめてくれた。その温かさが冷え切った私の心に少しだけ熱をくれる。でも、胸の奥で鳴り響く警報は止まってはくれなかった。


過去のこと。やばいこと。

その言葉が私の頭の中をぐるぐると回り続ける。

一番触れられたくない、心の奥底にしまい込んで鍵をかけたはずの箱。まさか、それをこじ開けようとする人間がいるなんて。


私と神木くんは夜の海辺の公園から、タクシーを拾って急いで学園へと戻った。

旧校舎に続く道は街灯もまばらで、まるで私の不安な心を映しているかのように暗い。部室のドアの隙間から漏れる光だけが、私たちを導く唯一の目印だった。


「先輩!」

私が息を切らしながらドアを開けると、橘先輩はパソコンの画面を睨みつけながら、苦々しい表情で腕を組んでいた。そのただならぬ雰囲気に、私の心臓はさらに嫌な音を立てて脈打つ。


「来たか、二人とも。……覚悟してこれを見てくれ」

先輩はそう言うと、パソコンの画面を私たちの方に向けた。

そこに映し出されていたのは、探偵事務所の印が入った数枚にわたる調査報告書の電子資料だった。


『彩崎莉緒に関する身辺調査報告』

その表題を見た瞬間、全身の血の気が引いていくのが分かった。指先が氷のように冷たくなり、呼吸が浅くなる。


「これ……姫川さんが……?」

「ああ。あいつ、俺たちの知らないところでここまで調べてやがったんだ」

先輩の声には抑えきれない怒りが滲んでいた。


私は震える目で画面に表示された文字を追った。

そこには私の名前、生年月日、住所といった個人情報に続いて、今まで誰にも、もちろん神木くんにも橘先輩にも話したことのない、私の家族に関する秘密が赤裸々に綴られていた。


『対象者の父、彩崎誠。元特殊化粧師』

「お父さん……」

私の唇から、か細い声が漏れた。


そうだ。私の父は、かつてその世界では天才と呼ばれた特殊化粧師だった。幼い頃の私は、父の創り出す魔法のような仕事が大好きで、いつも工房に入り浸っては目を輝かせながらその手元を見ていた。


でも、報告書はそんな幸せな記憶を無残に打ち砕くように、冷たい事実を突きつけてくる。

『――映画「クロノスの迷宮」制作時、主演俳優に対する特殊化粧で重大な過敏反応を引き起こす事故が発生。俳優は顔に重度の火傷を負い、再起不能に。彩崎誠は業界から永久追放処分となり、多額の損害賠償を請求される』


知っている。私が知りたくなくても知ってしまっている事実。

あの事故が私たちの家族をすべて壊した。

天才ともてはやされた父は、一夜にして業界の厄介者になった。父は酒に溺れ、家には帰ってこなくなり、いつも優しかった母は日に日に笑顔を失っていった。


そして報告書は、さらに私の心を抉るように続く。

『事故後、母・彩崎美奈子は、莉緒を連れて離婚。現在に至るまで、父・誠とは一切の連絡を絶っている』

『母・美奈子は元夫の仕事を極度に憎悪しており、娘・莉緒が化粧に興味を持つことを強く禁じていた。「あなたはお父さんのようになってはならない」が口癖であり、莉緒の夢や才能を長年にわたり否定し続けてきた』


(やめて……)

心の中で悲鳴を上げる。

そうだ。母は父のすべてを憎んでいた。そして父に面影が似ている私の顔を見るたびに、こう言ったんだ。

『その顔を見るとあの人のことを思い出して胸が苦しくなる』

母のその言葉が、私にとってどれだけ重い呪いだったか。

私の顔への劣等感はそこから始まった。父に似ていることが罪であるかのように感じていた。


私が『RIO』として活動を始めたのは、この大嫌いな顔を捨てたかったから。そして心のどこかで、父が成し遂げられなかった夢を、父の汚名を私が代わりにそそぎたいと願っていたから。


誰にも言えなかった。誰にも知られたくなかった。

私の一番柔らかくて、一番痛い場所。

それを姫川さんは土足で踏み荒らし、白日の下に晒そうとしている。


「……っ」

目の前が真っ暗になり、ぐらりと体が揺れる。

立っていられない。全身の力が抜けてその場に崩れ落ちそうになった、その時。


「莉緒!」

力強い腕が私の体をぐっと支えてくれた。

神木くんだった。

彼は私の震える体を、壊れ物を扱うように優しく、でも強く抱きしめてくれた。


「大丈夫だ。俺がいる。俺が絶対に君を守るから」

彼の胸の中で私は子供のように声を上げて泣きじゃくりたかった。でも、涙さえ出てこなかった。あまりの衝撃と絶望に、感情が麻痺してしまったみたいだった。


「ごめん……。ごめんね、神木くん……」

私はかろうじてそれだけを絞り出した。

こんな重たい過去を背負った女だって知ったら、彼もきっと幻滅する。私のことなんて嫌いになるに違いない。


「謝るな」

彼は私の髪を優しく撫でながら、静かだが芯のある声で言った。

「君は何も悪くない。悪いのは君の才能に嫉妬して、こんな卑劣な手を使った姫川だ」


「でも……!」

「それに……」

彼は一度言葉を切ると、私の体を少しだけ離し、まっすぐに私の目を見つめた。その瞳には同情や憐れみではない、もっと深い温かい光が宿っていた。

「君のお父さんのこと、俺、知ってる」


「え……?」

彼の思いがけない言葉に私は息を飲む。


「俺が役者になりたいって本気で思ったきっかけの映画があるんだ。子供の頃、何度も何度も繰り返し見て、台詞も全部覚えるくらい大好きな映画」

彼の声は遠い日の憧れを語るように熱を帯びていた。

「その映画に出てくる、現実的でどこか哀しい目をした創造物。そいつに俺は心を奪われたんだ。そして、いつか俺もこんなふうに人の心を動かす存在になりたいって思った」


彼の言葉が私の心の奥底にゆっくりと染み込んでいく。

「その映画こそが、『クロノスの迷宮』なんだよ」


時間が止まった。

世界から音が消えた。

信じられない。そんな偶然。


「そしてその創造物を創り出したのが君のお父さん、彩崎誠さんだ。俺は、ずっと探してた。あの素晴らしい仕事をした芸術家は、今どこで何をしているんだろうって」


神木くんの憧れの人の原点。

それが私の父だったなんて。

私がずっと、その存在から目を背け憎みさえしていた父が。


「だから、莉緒」

彼はもう一度、私の体を優しく引き寄せた。

「君の才能は呪いなんかじゃない。君のお父さんから受け継いだ素晴らしい贈り物なんだ。君が君自身の力でさらに輝かせた、最高の宝物なんだよ」


彼の言葉が私の凍りついた心を少しずつ溶かしていく。

涙がやっと溢れてきた。温かい涙が彼のシャツを濡らしていく。

嬉しい。悲しい。苦しい。愛おしい。

すべての感情がぐちゃぐちゃになって涙になって流れ出ていく。


でも、この絶望的な状況の中で一つの確かな光が見えた気がした。

過去と現在が思いがけない形で繋がった。

それは偶然なんかじゃない。きっと運命だったんだ。


私が泣き止むまで神木くんはずっと、黙って私を抱きしめてくれていた。

橘先輩も何も言わずに、ただ静かに私たちのそばにいてくれた。


どれくらいそうしていただろうか。

ふと橘先輩の携帯端末が短い着信音を鳴らした。

画面を見た先輩の顔がさっと険しくなる。


「……姫川からだ」

その名前に私の体はびくりとこわばった。

「『明日の午後三時、星奏学園の講堂で緊急記者会見を開きます。彩崎莉緒さんのすべての真実を、世間の皆様にお話しするために』……だってよ」


姫川さんがついに動いた。

彼女は私の過去を、私の傷を、世間の好奇の目に晒すつもりなんだ。

絶望の淵で掴んだはずの光が、また暗い雲に覆われていく。

新たな嵐がもう、すぐそこまで迫っていた。

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