第16話
教室の空気が凍りついたかのように張り詰めている。
私の前に立つ姫川瑠奈さんの完璧な美貌は今、怒りと嫉妬の色に染まり、その瞳は鋭い刃のように私を射抜いていた。
「彩崎さん……!」
彼女が絞り出すように私の名前を呼ぶ。その声には隠しきれない敵意がこもっていた。クラス中の視線が私たち二人に突き刺さる。皆が固唾をのんでこの対決の行方を見守っている。
もう私は教室の隅で息を殺していた、空気みたいな彩崎莉緒じゃない。
神木玲矢の隣に立つ、天才化粧師『RIO』としての顔を持つ一人の人間だ。
「……はい。私が彩崎莉緒です」
私は震えそうになる声を必死で抑え、まっすぐに彼女の目を見つめ返した。もううつむかない。逃げたりしない。
私の堂々とした態度が少し意外だったのかもしれない。姫川さんは一瞬だけ怯んだように目を見開いたが、すぐにふんと鼻で笑い、嘲るような表情を浮かべた。
「そう。あなたが彩崎莉緒。玲矢を誑かした地味で冴えない、ただの女子高生」
彼女の言葉はナイフのように鋭く、私の胸を抉る。でも、もうその言葉に傷つく私はいなかった。
「あなたみたいな子が玲矢の隣にいるなんて万死に値するわ。その才能、私が完膚なきまでに潰してあげる」
それは明確な宣戦布告だった。学園の女王からの容赦のない通告。
教室のあちこちから、ひそひそと囁く声が聞こえる。
「やばい、姫川さん本気で怒ってる……」
「彩崎さん、どうなっちゃうんだろう……」
心配する声、面白がる声。そのすべてが渦を巻いて私を取り囲む。
でも、怖くはなかった。
だって、私の隣には。
「――それは俺が許さない」
静かだが有無を言わせない力強い声が、私と姫川さんの間に割って入った。
神木くんだった。
彼は私の前に立つと、まるで私を守る盾になるかのように姫川さんと対峙した。
「玲矢……! あなた、この女の味方をするの!?」
姫川さんが信じられないというように叫ぶ。
「味方とかそういう問題じゃない。俺の相棒は俺が決める。そして俺が選んだのは彩崎さんだ」
神木くんの言葉に教室中がどよめいた。
それはクラス全員の前での、はっきりとした告白。
「彼女の才能が俺に新しい世界を見せてくれた。彼女のひたむきさが俺に本当の自分を思い出させてくれた。彩崎莉緒は俺にとってかけがえのない存在なんだ」
まっすぐな彼の言葉。その一つ一つが私の心に温かく染み渡っていく。
顔が熱い。嬉しいのに涙が出そうだった。
「ふざけないで!」
姫川さんの金切り声が教室に響き渡る。
「あなたは騙されてるのよ、玲矢! この女は地味な自分を隠すために特殊な化粧であなたに取り入っただけ! こんな卑怯な女のどこがいいって言うの!?」
「卑怯なのは君の方だろう」
神木くんの瞳が冷たく姫川さんを射抜いた。
「人の私的な事柄を探偵まで使って嗅ぎまわって、ネットに晒す。君がやっていることの方がよっぽど卑怯で醜い」
「なっ……!」
図星を突かれて姫川さんは言葉を失う。その顔は怒りと屈辱で真っ赤に染まっていた。
「俺は彩崎さんのすべてを知った上で彼女を選んだ。彼女の弱さも強さもその才能も全部含めて、俺は彼女を必要としている。だからもう彼女に手出しはしないでくれ」
それは姫川さんへの最後通告だった。
神木くんの揺るぎない決意。
姫川さんはわなわなと唇を震わせ、私と神木くんを交互に睨みつけた。その瞳には涙さえ浮かんでいるように見えた。
やがて彼女は何かを諦めたようにふっと息を吐くと、踵を返した。
そして教室を出ていく直前。
彼女は私だけを振り返り、小さいがはっきりとした声でこう言った。
「……覚えてなさい。これで終わりだなんて思わないことね」
その言葉を残して彼女は嵐のように去っていった。
教室には気まずい沈黙が流れる。
誰もが今の出来事をどう処理していいか分からずにいた。
その沈黙を破ったのは意外な人物だった。
「……すごいじゃん、彩崎さん」
今まで私とはほとんど口も利いたことのなかった、クラスの中心的な女子が感心したように言った。
「姫川さんにあそこまで言えるなんて、あんた根性あるね」
「え……」
「神木くんがあんたを選ぶのも、なんか分かる気がするかも。あんた、ただ地味なだけじゃなかったんだね」
彼女の言葉を皮切りに、クラスの空気が少しずつ変わっていくのが分かった。
驚き、戸惑い、そしてほんの少しの尊敬。
私を見る目が昨日までとは明らかに違っていた。
もう私は誰にも見えない「空気」なんかじゃなかった。
***
放課後。
私は足早に映像研究部の部室へと向かった。
ドアを開けると橘先輩がニヤニヤしながら私を迎えた。
「よぉ、今日の主役。ずいぶん派手にやったらしいじゃないか」
「せ、先輩! からかわないでください!」
「ははっ、悪い悪い。でもよくやったな、彩崎。お前、すごくいい顔してたぜ」
先輩の言葉に顔が熱くなる。
私は今日の出来事を興奮冷めやらぬまま先輩に話して聞かせた。
「そっか。神木も男を見せたわけだ。……あいつ本気だな」
先輩がしみじみと呟く。
「でも姫川がこのまま黙ってるとは思えない。あいつは自分が欲しいものはどんな手を使っても手に入れるやつだ。きっと次の一手を考えているぞ」
「……はい。分かってます」
私も覚悟はしていた。今日の勝利はほんの始まりに過ぎない。
コン、コン。
部室のドアが控えめに叩かれた。
入ってきたのは神木くんだった。
「彩崎さん、いたんだ」
彼は私を見つけるとほっとしたように微笑んだ。
「神木くん……。今日はありがとう。庇ってくれて嬉しかった」
「ううん。俺がそうしたかっただけだから」
彼は少し照れたように笑うと私の隣に立った。
二人きりの部室。夕焼けの橙色の光が彼と私を優しく包み込む。
「改めて言わせてほしい」
彼が真剣な表情で私に向き直る。
「俺は君が好きだ。彩崎莉緒という一人の女の子が。君のその素顔が、俺はどうしようもなく好きなんだ」
まっすぐな彼の告白。
心臓がどきどきと甘く鳴り響く。
「君の答えを聞かせてくれるかな。俺と付き合ってほしい」
彼の真摯な瞳。
もう迷いはなかった。
「……はい」
私は涙で潤む瞳で彼を見つめ返した。
「私でよければ……。よろしくお願いします」
私の返事を聞いて、彼は今まで見た中で一番優しい顔で微笑んだ。
そしてゆっくりと、私の手を彼の大きな手で包み込んだ。
その温かさが私の心の隅々まで広がっていく。
もう何も怖くない。
この手があればどこまでだって行ける気がした。
ふと机の上に置いてあった、彼からもらった星の鍵飾りが夕日を反射してきらりと光った。
それはまるで私たちの未来を祝福してくれる一番星のようだった。
これからたくさんの困難が待ち受けているかもしれない。
姫川さんの次なる攻撃がいつ、どんな形で来るか分からない。
でも私はもう一人じゃない。
私の隣には神木くんがいる。そして橘先輩も。
私の才能を信じて支えてくれる人たちがいる。
私は私の力で夢も恋も絶対に掴み取ってみせる。
嘘の顔を脱ぎ捨てた本当の私で。
胸に宿った温かい決意。
それは夕焼けの空に輝くどの星よりも強く、明るく輝いていた。
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