第14話

約束の日、土曜日。


私の心臓はまるでこれから処刑場へ向かうかのように鉛のように重かった。


午前中に橘先輩から連絡があり、姫川さんとの面会の場所は、やはりあの旧校舎の部室に決まった。部外者の立ち入りが厳しく制限されているこの場所が最も安全だからと。


私はいつもより時間をかけて、丁寧に『RIO』の顔を創り上げていった。


強い意志を宿した瞳、自信に満ちた表情、誰にも見破られない完璧な造形。


これは私の戦うための鎧。


完璧な『RIO』になった私は、鏡の中の自分をじっと見つめた。


(大丈夫……。私なら、やれる)


そう、自分に言い聞かせる。


午後五時。約束の時間ぴったりに私は旧校舎の部室の前に立っていた。ドアを開ける勇気がなかなか湧いてこない。


深呼吸を何度も繰り返す。


コン、コン。


私は意を決して、控えめにノックをした。


「……どうぞ」


中から聞こえてきたのは橘先輩の声。


ゆっくりとドアを開けて中に入ると、部室の奥に二つの人影があった。


一人はもちろん橘先輩。もう一人は黒いキャップとマスクで顔を隠した神木くんだ。彼は私の顔を見るとわずかに息をのんだように見えたが、すぐに普段通りの落ち着いた表情に戻った。


「来たか、RIO」


「はい。お待たせしました」


私は橘先輩に挨拶を返した。


「神木、先に事情を説明しておけ。俺は、もう一人のお客さんを迎えに行ってくるから」


先輩はそう言うと、私に目配せをして、部室を出ていった。


残されたのは私と神木くんの二人だけ。


気まずい沈黙が重く部室を満たす。


私はもう、彼の顔を直視することができなかった。海辺でキスされた時の感触がまだ唇の奥に残っているような気がしたから。


「……RIOさん」


神木くんが静かに私の名前を呼んだ。


「その顔……」


彼は私の顔をじっと見つめている。


「どうしましたか?」


私が努めて冷静に問いかけると、彼は少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「いつもの、泣いているような顔じゃないね。……すごく、綺麗だ」


彼の言葉に私の心臓がきゅんと音を立てた。


(気づいて、くれた……)


私が初めて自分の顔を好きになれたこと。神木くんがくれた小さな勇気のおかげで、私が一歩前に踏み出せたこと。


彼の言葉は、そのすべてを肯定してくれたような気がした。


「ありがとうございます。これは今日のために特別に創った顔ですから」


私は少しだけ照れながらそう答えた。


「姫川に、何を言われるか分からない。だから怯えている彩崎莉緒じゃなく、戦う『RIO』でいようと、決めたんです」


そう言うと、神木くんの目がわずかに見開かれた。


「姫川……。君は、姫川が来ることを知っていたのか?」


「はい。彼女から直接メッセージが来ました」


私の言葉に、神木くんは悔しそうに唇を噛んだ。


「……ごめん。俺のせいで、君をこんな危険な目に遭わせてしまった」


「いえ、神木さんのせいじゃありません。これは私が選んだ道ですから」


私はまっすぐに彼を見て微笑んだ。


「それに……私も、姫川さんに、伝えたいことがあるんです」


「伝えたいこと?」


「はい。私はただの地味な女子高生じゃない。あなたの才能に惚れ込み、あなたの役作りの力になりたいと願った、一人のアーティストだ、と」


私の言葉に神木くんは何も答えなかった。ただその瞳に宿る光が、少しだけ熱を帯びたような気がした。


その時、部室のドアがノックもなしに乱暴に開けられた。


「お待たせ。あなた、もう来てるのね」


そこに立っていたのは、いつにも増して完璧なメイクで武装した姫川瑠奈さんだった。


彼女は部屋の中にいる私と神木くんの姿を見ると、にやりと勝ち誇ったように笑った。


「やっぱりね。探偵の報告通り、玲矢とあなたが、ここで密会していたなんて」


「姫川さん……」


神木くんが、彼女を咎めるように名を呼ぶ。


「あら、ごめんなさい、玲矢。でもまさかあなたが、こんな女と……」


彼女の視線が、私を値踏みするように上から下へ、下から上へと動く。


「あなた、一体誰? 玲矢の隣にいる、その派手な顔の女は」


彼女はまるで私を汚れたものを見るかのように言った。


「私は、RIOです。神木さんの、役作りのために、お力添えをしている者です」


私は一歩も引かずに堂々とそう名乗った。


「RIO……。ふぅん」


彼女は面白そうに目を細めた。


「あなたが、あの『RIO』ね。ずいぶん、テレビのメイクとは違うみたいだけど?」


「あなたの知っているメイクは、ただ顔を綺麗に見せるためのもの。私のメイクは、人を変身させるためのものですから」


私は胸を張って答えた。


「ごちゃごちゃ理屈を並べるのは結構よ。単刀直入に聞くわ。あなた、玲矢と、どういう関係?」


「私は彼の依頼主です。それ以上でも、それ以下でもありません」


「嘘ね」


姫川さんは私の言葉をぴしゃりと切り捨てた。


「あの海辺の写真を、見たわ。あなたは玲矢に甘えているような顔をしていた。そしてあの時、玲矢は……あなたに、キスをしたんでしょう?」


その言葉に私の心臓が大きく跳ねた。


(なんで、そこまで知ってるの……!?)


「姫川、やめろ」


神木くんが静かに、しかし威圧的に言った。


「彼女は関係ない。俺とお前の問題だ」


「関係なくないわ! 玲矢が最近おかしくなったのは、この女のせいよ! 玲矢が唯一、心を許している相手……それが、この『RIO』なんでしょう!?」


彼女の言葉に神木くんは何も答えなかった。


沈黙が、肯定だ。


姫川さんはますます激昂した。


「そんなの、許さない! 玲矢の隣にいるのは、私だけよ! 私こそ、玲矢の仕事を一番理解している、最高のパートナーなんだから!」


彼女の瞳は嫉妬に燃えていた。


「最高のパートナー?」


私はふっと、小さく笑ってしまった。


その声に姫川さんの目がさらに鋭くなる。


「何がおかしいの?」


「いえ。あなたは神木さんを、『完璧な王子様』という仮面から、決して解放してあげていない。それが本当に最高のパートナーと言えるのでしょうか?」


私の言葉に、彼女の顔からさっと血の気が引いた。


「な……っ!」


「私と神木さんは、お互いの『素顔』を、見せ合っている。そして私は、彼の役作りのために、彼の『魂』に触れた。それがあなたの言う、最高のパートナーとの違いです」


私は姫川さんの目をまっすぐに見つめた。


「あなたは、神木さんの『顔』しか見ていない。でも私は、彼の『心』を見ている」


私の言葉に姫川さんは完全に言葉を失った。


彼女の完璧なメイクが、少しだけぐらついたように見えた。


その時だった。


「――お前は、この先、どうしたいんだ」


今まで黙って話を聞いていた神木くんが、静かに、私に問いかけた。


「君は、『RIO』として、俺の隣にいたいのか。それとも……」


彼は言葉を切った。


「彩崎莉緒として、俺の隣にいたいのか」


彼のまっすぐな瞳。


その瞳に私の心臓は完全に射抜かれてしまった。


嘘の顔と、本当の顔。


私がこの先、彼と向き合うために必要なのは、一体どちらの顔なのだろうか。


私の頭の中は真っ白になった。

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