第13話

私の心臓はまるで壊れてしまったみたいに不規則なリズムを刻んでいた。


彼の言葉が耳の奥で何度もリフレインする。


「君の手、すごく優しいんだね」


「まるで、『RIO』さんみたいだ」


彼は本当に私の正体に気づいているのだろうか。それともただの偶然だろうか。


私がぼんやりと立ち尽くしているとクラスメイトの女子が私をちらりと見て、ひそひそと話しているのが聞こえた。


「今の見た? 神木くん、彩崎さんにプレゼント渡してたよ」


「マジ? なんであんな地味な子に……」


その声に胸の奥がちくりと痛む。でもいつものようにうつむいて、その場から逃げ出そうとは思わなかった。


私は彼がくれた紙袋をぎゅっと握りしめた。その温かさが私に勇気をくれる気がした。


家に帰り、自分の部屋でそっと紙袋を開ける。中に入っていたのは小さな星の形のキーホルダーだった。きらきらと光るガラス細工の星。


(なんで……)


どうして彼はこんな素敵なものを私にくれたのだろう。


私はその星をしばらくぼんやりと眺めていた。その星がなんだか今の私のようで、少しだけ切なかった。


地味で目立たない、教室の隅っこの星。


でも彼だけは、その小さな光に気づいてくれたのだろうか。


スマホのメッセージアプリを開くと、未読の通知が一つあった。差出人は橘先輩だ。


『明日、部室に来い。急ぎの相談がある』


先輩からのメッセージはいつも通りぶっきらぼうだけど、少しだけ焦っているような雰囲気がした。何かあったのだろうか。胸騒ぎがする。


そしてもう一つ、見慣れない差出人からのメッセージ。


『彩崎莉緒さんですか? 姫川瑠奈です。今度の週末、お話ししたいことがあるんだけど。あなたの好きなカフェ、教えてくれない?』


そのメッセージを読んだ瞬間、私の心臓は嫌な音を立てて大きく跳ねた。


(な、なんで……!?)


どうして姫川さんが私に直接連絡を……?


そしてわざわざ『お話ししたい』なんて、明らかに普通じゃない。


きっと神木くんから私へのプレゼントを見て、何かを確信したのだろう。もう彼女の追及から逃げられない。


私は震える指で彼女のメッセージをそっと閉じた。


明日、橘先輩に相談してみよう。そう思いながらも私の心は不安でいっぱいだった。


---


翌日、放課後。私は緊張で張り裂けそうな心を抱えながら、映像研究部の部室へと向かった。


ドアを開けると、橘先輩はいつものようにデスクでパソコンに向かっている。でもその表情はいつになく真剣で、重い空気が部室に満ちていた。


「先輩……」


私が声をかけると、先輩は顔を上げ、私をじっと見つめた。


「来たか、彩崎。これ、見ろ」


先輩がパソコンの画面を私の方に向ける。そこには先週の金曜日に私と神木くんが海に行った時の写真が何枚も表示されていた。


遠くから撮影されたボケた写真。でも間違いなく、私と神木くんだ。


「これ、どこから……?」


「ネットのゴシップサイトにアップされてた。どうやら姫川が金を積んで、探偵に依頼したらしい」


「探偵……!?」


私は驚きに目を丸くした。そこまでするとは想像もしていなかった。


「ああ。神木の正体を掴むだけじゃなくて、『RIO』の正体、そしてその周辺まで調べてたってわけだ。おかげで、お前と俺の関係までバレちまった」


先輩が悔しそうに唇を噛んだ。


「神木もやばいけど、お前の顔がバレてないだけまだマシだ。でもいつまで隠し通せるか……」


姫川さんはもうすぐそこまで来ている。私の喉元に彼女の爪がかけられているような、そんな恐怖に襲われた。


「それで、姫川さんから、私にメッセージが来たんです」


私はスマホに届いたメッセージを先輩に見せた。


先輩はそれを読んで、大きなため息をついた。


「もう逃げられないな。完全に、マークされてる」


「どうすれば……」


私の声は震えていた。


「こうなったら、腹をくくるしかない」


先輩は真剣な目で私を見つめた。


「お前が『RIO』だということを姫川にバラせ」


「え……!?」


私は先輩の言葉に絶句した。


「馬鹿なこと言わないでください! そんなことしたら、神木くんに……!」


「いいか、彩崎。よく聞け。今お前が『RIO』だということを姫川にバレたら、神木は『ただの地味な女子高生に騙された』って世間から叩かれる。神木のキャリアにも傷がつく。それは絶対に避けなきゃいけない」


「でも……」


「でも、お前が自分から、『実は私がRIOなんです』って言ったら、話は変わる。姫川もまさかお前が自分から正体を明かすとは思わないだろうし、それにもうお前は地味なだけの彩崎莉緒じゃない。あの時の神木の言葉、覚えてるか?」


先輩は私の胸元を指さした。


「神木は、お前の素顔の美しさにも気づいてる。それに、お前はもう自分の顔が嫌いだ、なんて言ってないだろ?」


先輩の言葉に私はハッとした。


そうだ。あの時、神木くんが言ってくれた言葉。


『今の彩崎さん、すごく……綺麗だと思う』


そしてあの老人が言った言葉。


『あんた、素顔はもっと可愛らしい顔をしとるじゃろうに』


私はもう自分の顔を大嫌いだとは思っていなかった。ほんの少しだけだけど自分を好きになれた。それは紛れもなく神木くんが私にくれた、小さな勇気だった。


「このまま逃げ続けるのか、それとも正面から向き合うのか。どっちを選ぶかは、お前自身だ」


先輩の言葉が私の心に深く響く。


私は彼の言葉を噛みしめるように静かにうつむいた。


怖い。もちろん怖い。でも神木くんがくれたこの勇気を無駄にしたくなかった。


逃げずにちゃんと向き合いたい。


「……分かりました」


私は顔を上げて、先輩の目を見た。


「姫川さんに、会います」


私の決意の言葉に、先輩はふっと安堵の笑みを浮かべた。


「そうか。お前なら、そう言うと思った」


「でも……どうやって、姫川さんと会えばいいんでしょうか。カフェじゃ、人目につくし……」


「それは俺に任せとけ。神木にも協力してもらって、人目につかない場所を確保する」


先輩はそう言って、スマホを取り出すとすぐに神木くんに電話をかけ始めた。


私が神木くんの声を耳にするのは海辺での別れ以来だった。


「もしもし、神木か? 俺だ。……ああ。うん、ちょっとお前に協力してもらいたいことがある。急ぎだ。……うん。分かった。じゃあ、明日の夕方、例の部室で。……悪いな、また」


電話を切った先輩が私に向き直る。


「よし、話はついた。神木も、お前と会うことに同意してくれた」


神木くんと、また会えるんだ。


胸の奥がぎゅっと締め付けられる。


「ただ……」


先輩は少しだけ言いづらそうに言葉を続けた。


「姫川は、お前が『RIO』だって疑ってる。だからその話をする時には、お前も『RIO』の顔で話すんだ。彩崎莉緒として話すと、姫川は絶対に納得しないだろうからな」


「……はい」


私はこくりと頷いた。


神木くんは私の『RIO』の顔を見て、何を思うのだろうか。


「あと、一つだけ……」


先輩が真剣な表情で私の顔をじっと見つめた。


「これは俺の予想だけど、姫川は神木のことだけが目的じゃないかもしれない。……お前の才能を、妬んでるんだ。だから気をつけろ。姫川はかなり厄介な相手だ」


その言葉に私は背筋がぞくりと冷たくなった。


姫川さんの燃えるような嫉妬の瞳がまぶたの裏に蘇る。


そう。彼女はただの恋敵じゃない。


私の才能を妬む、ライバル。


この先何が起こるか分からない。でももう逃げない。


私は自分の心を決めた。


明日、私は『RIO』として、姫川瑠奈と、そして神木玲矢と、正面から向き合う。

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