第12話
ほとんど眠れないまま朝を迎えると、鏡に映る自分の顔は目の下に隈ができたひどい有様だった。
私は昨日買ったばかりのフェイスパウダーとリップクリームを手に取り、おまじないのようにそっとメイクを施す。
これが今の私にとって唯一の鎧であり、何もしないよりはずっとマシなはずだった。
重い足取りで学校へ向かい、教室のドアを開けるのが怖いと感じながら自分の席に着く。
神木くんとどんな顔で会えばいいか分からない。
彼はもう来ていて、窓の外を眺める横顔はどこか物憂げに見えた。
私が来たことに気づくと彼はゆっくりとこちらを向き、その目がわずかに見開かれた気がしたけれど、すぐにいつもの完璧な王子様の笑顔を浮かべた。
「おはよう、彩崎さん」
「お、おはよう……神木くん」
声が震えそうになるのを必死でこらえながら挨拶を返す。
心臓がうるさくてまともに彼の顔を見られない。
「昨日、よく眠れなかった?」
彼の優しい声が私の胸に突き刺さる。
どうしてこの人はいつも私のことを見抜いてしまうんだろう。
「そ、そんなことないよ! ぐっすり寝たし!」
慌てて嘘をつくと、彼は私の様子にふっと小さく笑った。
「そっか。ならいいんだけど」
それきり会話は途切れたけれど、彼の視線がずっと私に注がれているのを感じる。
その視線が心地いいのに苦しくてたまらなかった。
授業中も私は彼のことばかり考えていた。
『今日のことは忘れてください』という彼のメッセージが頭から離れない。
彼は本当に忘れたいのか、それとも私を気遣ってそう言っただけなのか。彼の本当の気持ちが分からなかった。
休み時間になれば彼の周りにはいつものように人だかりができ、その中心で姫川さんが楽しそうに彼と話している。
「玲矢、今度の週末、映画の成功祈願に神社に行かない?」
「ああ、いいね。行こうか」
二人の親密な会話を聞いていると胸がずきりと痛む。
やっぱりあの二人がお似合いなんだ、私なんて足元にも及ばないと痛感させられた。
私はその輪から逃げるように部室へと向かい、橘先輩の顔が見たくなった。
「よぉ、彩崎。また浮かない顔してんな」
部室に入ると先輩が呆れたように言った。
私は堪えきれずに昨日あったことをすべて話した。海に行ったこと、彼にキスされたこと、そしてメッセージのこと。
私の話を黙って聞いていた先輩は大きなため息をつく。
「……お前、本気でヤバいとこに足突っ込んでるぞ」
「分かってます……」
「神木も罪な男だな。無自覚に気を持たせるようなことしやがって」
先輩は少し怒ったように言った。
「でも、これは危険なゲームだ。お前が本気になればなるほど、傷つくのはお前自身だぞ。分かってるのか?」
「……はい」
先輩の言うことは正しい。
でももう私の気持ちは自分でもコントロールできないところまで来ていた。
その日の午後、神木くんの主演映画の制作発表会見がテレビで生中継された。
スマホの画面の中で彼はキラキラしたスポットライトを浴び、隣には完璧なドレスを着こなした姫川さんがいる。
彼は映画への意気込みを熱く語っていたが、その姿はあまりにも遠くてまるで違う世界の人のようだった。
私がいるのは教室の隅っこで、彼がいるのは華やかな世界の真ん中。交わるはずのない二つの世界だ。
会見が終わるとネットニュースは彼らの話題で持ちきりになり、『神木玲矢と姫川瑠奈、熱愛か!?』そんな見出しが私の心を抉った。
もうやめよう、これ以上彼を思うのはやめよう。
『RIO』としての役目は終わったのだから、明日からはまた元の空気みたいな彩崎莉緒に戻るんだ。
そう心に決めたはずだった。
放課後、私が教室を出ようとするとクラスメイトたちが神木くんを取り囲んで会見の感想を伝えていた。
私はその輪を避けるようにそっと教室を出ようとする。その時だった。
「彩崎さん、待って」
神木くんの声が私を呼び止め、周りの生徒たちの視線が一斉に私に集まった。
え、と固まる私に彼は人混みをかき分けて近づいてきて、私の目の前で立ち止まる。
「これ。この間の、お礼」
彼が私に差し出したのは小さな紙袋だった。有名なお店のロゴが入っている。
「え、でも、私、何も……」
「ううん。彩崎さんには、いつも助けてもらってるから」
彼はそう言うと周りには聞こえないくらいの小さな声で囁いた。
「君の手、すごく優しいんだね」
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
「まるで、『RIO』さんみたいだ」
彼はいたずらっぽく笑うと私の返事も聞かずに踵を返す。
「じゃあ、また明日」
そう言って彼は教室を出ていった。
残された私は紙袋を握りしめたままその場に立ち尽くすしかなかった。
(今の、って……どういう意味……!?)
彼は気づいているの?それともただの偶然?
頭の中が真っ白になって何も考えられない。
ただ一つ確かなのは、私の恋はまだ終わっていないということ。
それどころか今、とんでもない方向へ動き出そうとしていた。
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