第11話
夕日が彼の老いた顔を赤く染める。
嘘の顔と嘘の顔の下にある本物の心が今まさに重なろうとしていた。
世界が止まったかのような静寂の中で、寄せては返す波の音だけがやけに大きく響き渡る。
ゆっくりと近づいてくる彼の顔。その深い皺の奥にある本当の瞳が私をまっすぐに捉えていた。
(だめ……)
心の中で誰かが叫ぶ。
これは違う。私は『RIO』であって彩崎莉緒じゃない。この偽りの顔の下にある本当の私を彼は何も知らないのだ。
こんなのフェアじゃない。ただ彼を騙しているだけじゃないか。
そう思って身を引こうとした私の動きは、そっと唇に触れた彼の感触に完全に止められてしまった。
ドクン。
心臓が大きく跳ねて思考が停止する。
唇と唇の間には薄いシリコンの膜が二枚。直接触れているわけじゃない。
なのに彼の唇の柔らかさと確かな温かさが、まるで電気みたいに全身を駆け巡っていった。
(あ……)
潮の香りと混じり合った彼の香りが私のすべてを包み込む。
頭が真っ白になって何も考えられない。ただ彼の存在を全身で感じていた。
それはほんの一瞬の出来事。
すぐに彼の顔が離れていく。夕日に照らされた彼の老人の顔はなぜか少しだけ寂しそうに見えた。
「……ごめん」
彼がぽつりと謝罪の言葉を口にする。その声はひどく掠れていた。
「君が嫌がってるのに、俺……」
「ち、違う……!」
私は慌てて首を横に振った。
嫌だったわけじゃない。ただ驚きのあまり体が固まってしまっただけだ。
でもそんな本心を伝えられるはずもなく、私は言葉に詰まる。
「ごめんなさい。私……」
偽物の顔の下で、本物の私の顔はきっと真っ赤に染まっているだろう。
気まずい沈黙が二人の間に重く落ちて、さっきまでの穏やかな空気はどこかへ消えてしまった。
波の音だけがざあざあと私たちの気まずさをかき消すように響いている。
「……帰ろうか」
しばらくして彼が静かにそう言った。その声にはもうさっきまでの熱は感じられない。
「はい……」
私はこくりと頷くのが精一杯だった。
帰り道はほとんど会話もなく、電車の中で隣に座る彼の横顔を盗み見る。
窓の外を流れる景色をただ黙って見つめる彼はひどく疲れているように見えた。
私のせいだ。私がちゃんと気持ちを伝えられなかったから彼を傷つけてしまったのかもしれない。
でもどうすればよかったというのだろう。
『RIO』として彼に好意を伝えるなんてできない。それは彩崎莉緒の気持ちなのだから。
駅に着いて私たちは別々の方向へ歩き出す。
「RIOさん。今日は、本当にありがとう」
別れ際に彼が振り返って言った。
その顔にはもう感情の色はなく、そこにはただの依頼主とアーティストがいるだけだった。
「君のおかげで、最高の役作りができた。感謝してる」
「……お役に立てて、よかったです」
私はそう答えるのがやっとで、彼の背中が雑踏の中に消えていくのをただ見送っていた。
部屋に入り鍵をかけると、その場にへたり込みそうになるのをなんとかこらえて鏡の前に立つ。
そこに映る強い意志の光を宿した『RIO』の顔を、私はゆっくりと落としていく。
クレンジング剤でシリコンの接着剤を溶かし、プロテーゼを剥がす。
強いアイラインもシャドウもすべて拭い去ると、偽物の顔の下からいつもの地味で冴えない彩崎莉緒の顔が現れた。
鏡の中の自分と目が合った途端、涙が止めどなく溢れてくる。
(なんで、泣いてるの……)
自分でも分からない。
彼にキスされたことが嬉しかったのか、それとも本当の自分で向き合えないことが悲しかったのか。
様々な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って涙になって溢れ出した。
偽物の唇越しに感じた彼の確かな温もりは、まるで夕暮れの海辺で見た儚い夢のようだ。
ベッドに倒れ込み、枕に顔をうずめて声を殺して泣き続けた。
こんなに胸が苦しいのは生まれて初めてだった。恋なんて自分には一生縁のないものだと本気で思っていたのに。
どれくらいそうしていただろうか。
涙も枯れた頃、ポケットのスマホが震えてメッセージの受信を知らせた。
差出人は『K』、神木くんだった。
心臓がドキリと跳ねるのを感じながら、おそるおそるメッセージを開く。
『RIOさん。今日は本当にごめんなさい。俺はどうかしてた。君を困らせるつもりじゃなかったんだ。どうか、今日のことは忘れてください』
その文面を読んだ瞬間、私の心はまたずきりと鋭く痛んだ。
忘れてください、か。
そうだよね、それが正しいんだ。あれはただの過ちで、役に入り込みすぎた彼が起こしたアクシデントに過ぎない。
そう思わなければ。
『忘れることなんて、できないよ……』
私の指は無意識にそう打ち込んでいたが、送信ボタンを押す直前で我に返り、慌ててすべての文字を消去した。
そして代わりに、プロのアーティスト『RIO』としての完璧な返信を打ち込む。
『お気になさらないでください。これも役作りの一環だと理解しています。撮影、頑張ってください』
送信ボタンを押す指が微かに震える。
すぐに既読の印がついたけれど、彼からの返信はもうなかった。
私はスマホをベッドに放り投げ、真っ暗な天井を見つめる。
それはまるで今の私の心の中のようだった。
嘘の顔から始まった恋はあまりにも切なくて苦しく、彼と私を繋ぐものはもう何もないのだと思うと、胸にぽっかりと空いた穴から冷たい風が吹き込んでくるようだった。
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