第10話
「今の彩崎さん、すごく……綺麗だと思う」
神木くんの言葉が私の頭の中で、何度も何度もこだまする。
綺麗。
私が今まで生きてきて、一度も言われたことのない言葉。
顔が、カッと熱くなる。心臓が、うるさくて、彼の顔をまともに見られない。
「か、からかわないでください……!」
私はそう言うのが精一杯だった。
うつむいた私の耳元で、彼が小さく笑う気配がした。
その日から、私の世界はほんの少しだけ色づき始めた。
朝、鏡に向かう時間が少しだけ楽しくなった。
誰にも気づかれないくらいの、ささやかなメイク。でも、それは、私に小さな勇気をくれる、魔法のおまじない。
神木くんはあれ以来、私のメイクについて何も言ってこない。
でも、教室で目が合うと、ふっと、優しい表情をすることが増えたような気がする。
(自意識過剰だよね、絶対……)
そう思いながらも、胸の奥がふわっと温かくなるのを止められなかった。
そんなある日の放課後。
私がいつものように映像研究部の部室で作業をしていると、橘先輩が神妙な顔で話しかけてきた。
「彩崎。『RIO』に、また依頼が来たぞ」
「え?」
「差出人は、もちろん『K』だ」
先輩がパソコンの画面を私に向ける。
そこには、神木くんからのメッセージが表示されていた。
『RIOさん、ご無沙汰しています。映画の撮影が、いよいよ来週から始まります。つきましては、撮影前に、もう一度だけ、あの『老人』のメイクをお願いできないでしょうか。役の、最終調整をしたいんです』
いよいよ、撮影が始まるんだ。
彼の、役者人生を賭けた、大きな挑戦。
「もちろん、受けます」
私は迷わずに答えた。
『RIO』として、私が、彼の力になれる、最後の機会かもしれないから。
『明日の放課後、アトリエでお待ちしています』
そう返信すると、すぐに、彼から『ありがとうございます。必ず行きます』と、短い返事が来た。
***
翌日の放課後。
部室は再び、私たちの秘密の『アトリエ』となった。
私は完璧な『RIO』の顔になり、彼を待つ。
不思議と、以前のような過剰な緊張はなかった。
ほんの少しだけ、自分に自信が持てるようになったからかもしれない。
約束の時間ぴったりに、神木くんは現れた。
いつものように、キャップとマスクで顔を隠して。
「こんばんは、RIOさん」
「お待ちしていました、神木さん。どうぞ、こちらへ」
彼が、リクライニングチェアに座る。
数週間ぶりに、間近で見る彼の顔。なんだか、少しだけ精悍になったような気がした。役に入る準備ができている顔だ。
「撮影、いよいよですね」
私がそう言うと、彼はこくりと頷いた。
「はい。正直、怖いです。でも、それ以上に、ワクワクしています」
彼の瞳には、不安と、それ以上の強い決意が宿っていた。
「姫川さんとの、役作りは順調ですか?」
私は平静を装って、尋ねた。
心の奥で、まだ、ちくりと痛む、小さな棘。
私の質問に、彼は少しだけ遠い目をした。
「……姫川は、すごい役者です。彼女と向き合っていると、たくさんの刺激をもらえる。でも……」
彼は言葉を切った。
「彼女といると、どんどん、『神木玲矢』の仮面が分厚くなっていく気がするんです。完璧な役者でいなきゃいけない、って」
彼の、静かな告白。
「不思議ですよね。RIOさんといる時だけが、俺、本当の自分でいられる気がするんです。素顔も見えない、名前も知らない、あなたの前でだけ」
その言葉に、私の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
(本当の、自分……)
それは私がずっと隠してきたもの。
「さあ、始めましょうか」
私は込み上げてくる感情を振り払うように、明るい声で言った。
彼の顔に再び、老人の顔を創り上げていく。
手慣れた作業。
でも、私の指先は彼の肌に触れるたびに、微かに熱を帯びていく。
数時間後。
メイクは完璧に仕上がった。
鏡の中には、完全に『老人』となった、神木くんがいた。
彼は鏡の中の自分をじっと見つめている。
その横顔は、美しくて、そして、どこか寂しそうだった。
「……RIOさん」
彼が静かに、私を呼ぶ。
「はい」
「この顔で、行きたい場所があるんです」
「行きたい、場所?」
「ええ。……君に、付き合ってほしい」
彼の、思いがけない提案。
「え、でも……」
「お願いします」
彼の、真剣な瞳。
その瞳に見つめられて、私は断ることができなかった。
「……分かりました」
これは、仕事の一環。そう、自分に言い聞かせる。
「どこへ、行くんですか?」
私の問いに、彼は少しだけはにかむように言った。
「海です。この映画の、舞台になった場所」
***
私たちは電車を乗り継いで、海辺の町へと向かった。
神木くんは、完璧な『老人』になりきっていた。
腰を曲げ、ゆっくりとした足取りで歩く姿は、誰も、彼が国民的俳優の神木玲矢だとは気づかないだろう。
私はそんな彼の少し後ろを付き添いのヘルパーのように歩く。
周りの人たちは私たちを祖父と孫か何かだと思っているようだった。
その関係性が、なんだか、おかしくて、でも、心地よかった。
夕暮れ時の、海辺の公園。
潮の香りと、錆びれた鉄の匂いが混じり合う場所。
「……ここです」
彼が足を止めた。
「僕が演じる老人が、かつて、愛した人と、毎日、このベンチに座って、夕日を眺めていたんです」
彼は、そう言うと、古びたベンチにゆっくりと腰を下ろした。
私も彼の隣に、そっと座る。
目の前には、オレンジ色に染まる、広大な海。
寄せては返す波の音だけが静かに響いている。
「……綺麗ですね」
「ええ」
しばらく二人で、黙って夕日を眺めていた。
それは、とても不思議な時間だった。
お互いに、偽物の顔を被っているのに。
言葉を交わさなくても、心が通じ合っているような気がした。
「……本当は」
彼がぽつりと、呟いた。
「本当は、今日のこの役作り、姫川と二人でする予定だったんです」
その言葉に、私の心臓が、ちくりと痛む。
「でも、断りました。……どうしても、君と来たかった」
え、と私は顔を上げた。
彼は海を見つめたまま、続けた。
「この役の、一番大事な部分を、完成させるのは、君じゃなきゃ、ダメだと思ったから」
彼の、まっすぐな言葉。
それが私の心の壁を、いとも簡単に溶かしていく。
「ねえ、RIOさん」
彼がゆっくりと、こちらを向いた。
老人の深い皺の奥で、彼の本当の瞳が私を、まっすぐに捉えている。
「君は、どうして、そんなに悲しい顔をしてるの?」
「え……」
「君の創る顔は、いつも、どこか、泣いているように見える。まるで、君自身の、心の叫びみたいに」
彼の言葉に、私は息を飲む。
見抜かれていた。
私の、この偽物の顔の下にある、本当の、弱い心を。
「俺でよければ、話してくれませんか。君が、何に怯えて、何に苦しんでいるのか」
彼の、優しい声。
もう、隠しきれない。
この人の前では、嘘をつけない。
涙が頬を伝うのが分かった。
『RIO』のメイクが、崩れてしまうかもしれない。
でも、もう、どうでもよかった。
私は震える声で、話し始めた。
自分の顔が、大嫌いなこと。
ずっと、誰にもなじめず、逃げてきたこと。
この偽物の顔だけが、私の、唯一の居場所だったこと。
彼はただ、黙って私の話を聞いてくれた。
すべてを話し終えた時。
私の涙は止まっていた。
彼はゆっくりと手を伸ばすと、その皺だらけの指先で、私の涙の痕をそっと拭ってくれた。
「……そっか。ずっと、一人で、戦ってきたんだね」
彼の声はどこまでも、優しかった。
「でも、もう、大丈夫だよ」
彼は私の目をまっすぐに見て、言った。
「君が、どんな顔をしていようと、俺は、君を見つけることができるから」
その言葉の意味を私が理解するより早く。
彼は私の顔に、ゆっくりと自分の顔を近づけてきた。
夕日が彼の老いた顔を赤く染める。
嘘の顔と、嘘の顔。
でも、その下にある本物の心が、今、確かに、重なろうとしていた。
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