第9話

姫川さんの嵐が過ぎ去ってから数日。

学園は嘘のように平穏を取り戻していた。姫川さんはあれ以来、私に絡んでくることはない。でもそれは休戦協定なんかじゃなく、もっと大きな嵐の前の静けさなのだと私は感じていた。


教室での私は相変わらず空気のままだ。

長い前髪で顔を隠しひたすら息を殺す。それが私の日常。それが私の鎧。

隣の席の神木くんは完璧な王子様を演じ続けている。彼の周りにはいつも人が集まり、キラキラした笑顔が絶えることはない。


でも時々、ほんの時々。

彼がふとした瞬間にこちらへ向ける視線に気づくようになった。それは誰にも気づかれない一瞬の出来事。心配と優しさが入り混じったようなその視線に、私の心臓は小さく跳ねる。


(気のせいだよね……)

そう自分に言い聞かせ、私は彼から目を逸らす。彼が気にかけているのは彩崎莉緒じゃない。『RIO』の正体かもしれない、か弱い後輩だ。そう思うと胸がちくりと痛んだ。


放課後の部室。そこだけが私の聖域。

私は黙々と粘土をこねていた。次の作品の構想を練る。でもなぜか、少しも集中できなかった。


『そんなに塗りたくらんでも、あんた、素顔はもっと可愛らしい顔をしとるじゃろうに』


あの老人の言葉が頭から離れない。

神木くんが演じたあの老人の言葉が。

あれは姫川さんに向けられた言葉だ。分かっている。

でも、まるで自分に言われたみたいに、私の心に深く突き刺さっていた。


偽物の顔を被って、世界から逃げている私。

本当の顔で勝負することから、目を背けている私。


(私の、素顔……)

家に帰って、自分の部屋の鏡を見る。

そこに映るのは、重たい一重まぶたに低い鼻、ぱっとしない輪郭の大嫌いな自分の顔。


はぁ、とため息が漏れる。

この顔じゃ、ダメだ。この顔じゃ、彼の隣には立てない。


「……何、ため息なんてついてんだよ」

不意に、背後から声がした。

驚いて振り返ると、いつの間にか部室に来ていた橘先輩が呆れた顔で私を見ていた。


「あ、先輩……いつの間に」


「今来たところだよ。お前こそ、最近ずっと浮かない顔してるぞ。悩みがあるなら、この天才橘先輩が聞いてやらんでもないが?」

先輩は、おどけるように胸を張る。

その優しさに、私の心の壁が少しだけ崩れた。


「……私、どうしたらいいんでしょうか」

ぽつりと、弱音がこぼれる。

「自分の顔が、嫌いなんです。この顔でいると、息が詰まりそうで……。だから、私は『RIO』になったのに。なのに、最近、分からなくなってきて……」


私の言葉を、先輩は黙って聞いてくれていた。

「なあ、彩崎」

しばらくして、先輩が静かに口を開いた。

「お前のその技術は、誰かを騙したり、自分を隠したりするためだけにあるのか?」


「え……?」


「別に、いいんじゃないか。お前のその魔法みたいな技術を、お前自身のために使ったって」

先輩の言葉が私の心に染み込んでいく。


「特殊メイクで別人になるだけが、お前の才能じゃないだろ。普通のメイクで、今の自分を、ほんの少しだけ好きになる。そういう使い方だって、あるはずだ」


普通の、メイク……。

考えたこともなかった。

私のメイクは、常に「変身」が目的だったから。自分の顔を消し去るためのものだったから。


「今の自分を、好きになる……」


「そうだよ。誰かのためじゃない。お前自身のためだけのメイクだ」

先輩はそう言うと、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。

「ま、俺にはよく分からん世界だけどな。でも、お前が笑ってる方が、俺は好きだぜ」

その言葉は、不器用だけど、すごく温かかった。


その日の帰り道。

私はまるで何かに引き寄せられるように、駅前のドラッグストアに立ち寄っていた。

色とりどりの化粧品が並ぶ棚。

私にとっては、ずっと縁のない、キラキラした世界。

周りの女の子たちは、楽しそうにテスターを試したり、友達と相談したりしている。その光景がなんだかすごく眩しく見えた。


(私には、無理……)

そう思って、店を出ようとした時。

ふと、一つの商品が目に留まった。

それはほんのり桜色に色づくリップクリームだった。

『あなただけのピンク色に』というキャッチコピー。


これなら、私でも使えるかもしれない。

気づけば私はそのリップクリームをぎゅっと握りしめていた。

それから、肌が綺麗に見えるという透明なフェイスパウダーも一つ。

レジでお金を払う時、心臓がドキドキした。

まるで、悪いことをしているみたいに。


家に帰り、自分の部屋に駆け込む。

買ってきたばかりの小さな戦利品を机の上に並べた。

鏡の前に座り、おそるおそる、リップクリームを唇に塗ってみる。

最初は透明だったのに、だんだんと私の唇が自然なピンク色に染まっていく。

次に、フェイスパウダーを付属のパフでそっと肌に乗せてみる。

劇的な変化はない。でも、なんとなく、肌のトーンが明るくなったような気がした。


鏡の中の私。

いつもの地味な私と、何も変わらないはずなのに。

でも、ほんの少しだけ。

ほんの少しだけ、顔色が良く見えて、血色がよく見えて。


(……悪くない、かも)

ぽつりと、そんな言葉が漏れた。

心臓が、きゅん、と音を立てる。

それは、私が初めて自分の顔をほんの少しだけ肯定できた瞬間だった。


***


翌朝。

私は昨日買ったリップクリームとパウダーで、こっそりとメイクをして、学校へ向かった。

誰にも気づかれない。絶対に。

これは、ただの自己満足。私だけのお守り。

そう、自分に言い聞かせる。


教室に入っても、誰も私の変化に気づく様子はなかった。

よかった、と安 Protokollのため息をつき、自分の席に座る。

隣の席の神木くんは、もう来ていた。

彼は窓の外を眺めながら、何かを考えているようだった。その横顔は少しだけ、物憂げに見えた。


私が席に着いたことに気づくと、彼は、ふっとこちらを向いた。

そして。

「……彩崎さん」

彼が私の名前を呼ぶ。

「今日、何か雰囲気、違うね」


え、と息を飲む。

彼の、まっすぐな瞳。

その瞳には、私がほんの少しだけ勇気を出して施した、ささやかな変化がちゃんと映っていた。


「そ、そんなこと、ないです……!」

私は顔を真っ赤にしながら、ぶんぶんと首を振った。

でも、心臓は、今までにないくらい、大きな音で鳴り響いていた。

気づいて、くれた。

この、誰にも気づかれないはずの、小さな変化を。

この人だけは、気づいてくれたんだ。

嬉しくて、恥ずしくて、泣きそうだった。


神木くんは私の慌てぶりに、少しだけ優しく微笑んだ。

「そうかな? でも……」

彼は言葉を続ける。

「今の彩崎さん、すごく……綺麗だと思う」


その一言が、私の心臓を完全に射抜いた。

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