第8話
「一年生の教室を、聞き込みしてる……!?」
橘先輩の言葉が冷たい刃のように私の胸に突き刺さる。
全身の血が逆流するような感覚。指先が急速に冷たくなっていく。
(嘘でしょ……なんで……)
姫川さんがそこまで本気で私の正体を探ろうとしているなんて。
どうしよう。どうすればいい?
この『RIO』の顔を落としていつもの彩崎莉緒に戻ったとしても、彼女の執念深い調査からは逃れられないかもしれない。
「彩崎莉緒」という名前とこの「RIO」という存在が結びついてしまったら。
神木くんにすべてがバレてしまう。
私が彼の隣の席にいる、あの地味で冴えない空気みたいな女子生徒だってことが。
(そんなの、絶対に嫌だ……!)
幻滅される。軽蔑される。もう二度と彼と『RIO』として向き合うことはできなくなる。
「RIOさん、落ち着いて」
私の混乱を察したのか、神木くんが老人の顔のまま静かな声で言った。
「大丈夫。君が誰であろうと、俺が君を信頼していることに変わりはないから」
彼の言葉は温かくて優しかった。でも今の私には、その優しさが逆に辛かった。
(違う、あなたは何も分かってない……!)
本当の私を知ったら、そんなこと絶対に言えないはずだから。
「先輩、どうしよう……! このままじゃ……!」
私はパニックで涙目になりながら橘先輩に助けを求めた。
橘先輩は腕を組んで、厳しい顔で何かを考えていた。
「……こうなったら、一か八かだ」
先輩は意を決したように顔を上げると、私と神木くんを交互に見て言った。
「神木、お前はその顔のままここから出ろ」
「え……?」
神木くんが戸惑いの声を上げる。
「姫川は今、一年生の教室を回ってる。つまりこの旧校舎にはいないはずだ。お前が『老人』の姿でここから出て、姫川と鉢合わせさえしなければ時間を稼げる」
「時間を稼いで、どうするんですか?」
私が震える声で尋ねる。
「その間にRIO、お前は化粧を落としていつもの『彩崎莉緒』に戻るんだ。そして俺と一緒に姫川の前に現れる」
「ええっ!?」
先輩のあまりにも大胆な提案に、私は素っ頓狂な声を上げた。
「俺が『RIOの正体は俺の知り合いのプロの演者で、今日はたまたま彩崎にモデルを頼んでいただけだ』って説明する。そうすれば姫川もそれ以上は追及できないはずだ」
「で、でも、そんな嘘、通用しますか……?」
「させるんだよ。他に方法がないだろ」
先輩の目は真剣だった。
確かに、もうこれしか方法はないのかもしれない。
「……分かりました」
神木くんがこくりと頷いた。
「俺が囮になります。RIOさんが無事に逃げられるように」
「神木くん……」
「大丈夫。俺だって役者だ。ただの老人として誰にも怪しまれずにここから出てみせる」
彼は老人の顔で、にやりと笑った。それは不思議な迫力と色気のある笑顔だった。
「RIOさん。また必ず会いに来ます。だから今は自分のことを一番に考えて」
そう言って彼は私に力強い視線を送ると、扉の方へと向かった。
「神木、頼んだぞ。絶対に姫川に見つかるなよ」
「分かってる」
橘先輩と短い言葉を交わし、神木くんはゆっくりと扉を開けて廊下へと出ていった。
彼の少し腰の曲がった後ろ姿が見えなくなるまで、私はただ祈るように見送ることしかできなかった。
「RIO! ぼーっとしてる暇はないぞ! 早く化粧を落とせ!」
先輩の檄が飛ぶ。
私ははっと我に返ると、慌てて自分の机に向かった。鏡の前に座り専用の除去剤を綿に染み込ませる。
『RIO』の顔に、綿を当てる。
強いアイラインが、意志の光が、自信に満ちた表情が少しずつ溶けていく。
その下に現れるのはいつもの、冴えない弱い彩崎莉緒の顔。
(嫌だ……)
この顔に戻りたくない。
でも今はそうするしかないんだ。
私が必死で化粧を落としている間、橘先輩は部室の中を片付け始めた。私が『RIO』として活動している痕跡をすべて消し去るために。
「よし、こんなもんか……」
数分後。私の顔から完全に『RIO』の化粧は消え去った。部室もいつもの雑然とした、ただの映像研究部の部室に戻っていた。
「行くぞ、彩崎!」
「は、はい!」
先輩に促され、私は心臓をバクバクさせながら部室を出た。
旧校舎の薄暗い廊下。私たちの足音だけがやけに大きく響く。
本校舎へと続く渡り廊下が見えてきた、その時だった。
「――いたわ」
冷たい鈴の鳴るような声。
曲がり角から姫川瑠奈さんがゆっくりと姿を現した。
彼女の背後には数人の女子生徒。きっと彼女に協力しているのだろう。
姫川さんは私と橘先輩の姿を認めると、唇の端をくいと吊り上げた。
「圭吾。やっぱりあなたね。あなたが、あの『RIO』とかいうのを匿っていたんでしょう?」
「……何のことだかさっぱりだな」
橘先輩はあくまでしらを切る。
「あら、とぼけないで。あなたの後輩に変な化粧をしてる子がいなかったか聞いて回っていたのよ。そうしたらみんな口を揃えて言うじゃない。『それなら映像研究部の橘先輩と一緒にいる地味な子じゃないか』って」
姫川さんの視線が私を射抜く。
その視線に私は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。
「あなたね。彩崎……莉緒さん、だっけ?」
彼女が私の名前を呼ぶ。
「あなたが『RIO』なんでしょう?」
断定的な問いかけ。
もうダメだ。
嘘をついても無駄だ。
私が観念してすべてを認めようとした、その時。
「おいおい姫川。お前の妄想も大概にしろよ」
橘先輩が私を庇うように一歩前に出た。
「こいつは彩崎莉緒。俺の部のただの後輩だ。お前が探してる『RIO』ってやつとは何の関係もない」
「嘘よ。じゃあなんでさっきまで部室に鍵をかけて二人きりでいたの?」
「だから言ったろ。映画甲子園の準備だって。彩崎には小道具の型を頼んでただけだ」
先輩の堂々とした嘘。
でも姫川さんは鼻で笑った。
「型、ねぇ。ずいぶん熱心なこと。……じゃあ聞くけど」
彼女は意地悪く目を細める。
「玲矢はどこに行ったのかしら? 彼もさっきまであなたたちと一緒にいたはずよね?」
その質問に橘先輩がぐっと言葉に詰まる。
やばい。神木くんのことまでバレていたんだ。
どうしよう。なんて答えれば……。
私たちの間に重い沈黙が落ちる。姫川さんの勝利を確信したような冷たい笑みが、私の心を抉る。
もう本当に終わりだ。
そうすべてを諦めかけた、その瞬間だった。
「――おや、皆さんお揃いでどうかなさいましたかな?」
不意に私たちの背後から、しわがれた老人の声がした。
全員がはっとしたように声のした方を振り返る。
そこに立っていたのは腰の曲がった、一人の見すぼらしい老人だった。用務員さんだろうか。でも学園でこんな人は見たことがない。
老人は私たちをきょとんとした顔で見つめている。
「わしはそろそろ帰ろうと思うんじゃが……。何か事件かね?」
そののんびりとした口調。
姫川さんは一瞬だけその老人を訝しげに見たが、すぐに興味を失ったように私たちの方へと向き直った。
「関係ない人は引っ込んでてちょうだい。今大事な話をしてるの」
彼女が老人を追い払おうとした、その時。
老人は何を思ったのか、よたよたと姫川さんの方へと歩み寄った。
そして彼女の目の前でぴたりと足を止めると、その皺だらけの顔をじっと覗き込んだ。
「……おお、なんと。あんたテレビに出てるお嬢ちゃんじゃないか」
老人は感心したように言った。
「実物はテレビで見るより、ずいぶんと……化粧が濃いのう」
「……は?」
姫川さんが固まる。
老人は構わずに続けた。
「そんなに塗りたくらんでも、あんた素顔はもっと可愛らしい顔をしとるじゃろうに。もったいない、もったいない」
老人の悪意のない、しかし的確すぎる一言。
姫川さんの完璧に作り上げられた笑顔がひび割れていく。
「な、な、なんですって……!?」
彼女が怒りで顔を真っ赤にした。
その隙を見逃すはずがなかった。
「行くぞ、彩崎!」
橘先輩が私の腕を掴む。
「え、あ、はい!」
私たちは呆然としている姫川さんたちの横を、すり抜けるようにして走り出した。
背後から姫川さんの「待ちなさい!」という金切り声が聞こえてくる。
でも私たちは振り返らなかった。
ただ必死で走った。
渡り廊下を抜け昇降口へ。
外に出たところで私たちはようやく足を止めた。
ぜえぜえと肩で息をする。
心臓が今にも張り裂けそうだった。
「……助かった」
橘先輩が壁に手をつきながら呟いた。
「ああ、本当に心臓が止まるかと思った……」
私もへなへなとその場に座り込みそうになる。
「……あの、おじいさん」
私が尋ねる。
「一体誰だったんでしょうか……?」
「さあな。俺にも分からん」
先輩はそう言って空を仰いだ。
でも私には分かっていた。
あのしわがれた声。
あの悪戯っぽく光る瞳。
そして姫川さんの痛いところを的確に突いてくる、あの鋭さ。
(神木くん……)
彼が助けてくれたんだ。
彼が『老人』の顔で私を守ってくれたんだ。
胸の奥がじわりと温かくなる。
と同時にさっきの老人の言葉が頭の中で反響する。
『そんなに塗りたくらんでも、あんた素顔はもっと可愛らしい顔をしとるじゃろうに』
それは姫川さんに向けられた言葉だった。
でもなぜか私自身の胸にも深く突き刺さった。
偽物の顔を被って世界から逃げている私に。
本当の顔で勝負することから目を背けている私に。
(私の素顔……)
夕焼けの空を見上げながら、私は自分の顔にそっと触れた。
地味で冴えない、大嫌いな私の顔。
この顔で私はいつか彼の前に立つことができるんだろうか。
答えはまだ見つかりそうになかった。
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