第7話

姫川瑠奈さんのインスタグラムの投稿を見てから、私の世界は灰色になった。


キラキラと輝く写真の中で神木くんは、私の知らない顔で笑っていた。それは教室で見せる完璧な王子様の笑顔とも、私にだけ見せてくれた悩める役者の顔とも違う。姫川さんの隣にいるのが当たり前だというような、リラックスした穏やかな表情。


『最高の作品にするために、二人で頑張ります!』


その言葉が何度も何度も頭の中で繰り返される。


そうだよね。それが普通なんだ。本当の共演者同士が、お互いを高め合って役作りをしていく。それが正しい姿。


私なんてただの裏方。彼の役作りのために雇われた便利な道具。それ以上でもそれ以下でもない。


分かっていたはずなのに。


心にぽっかりと穴が空いてしまったみたいだった。


翌日の学校は息をするのも苦しいくらいだった。


教室に入るとクラスメイトたちは姫川さんのインスタの話題で持ちきりだった。


「昨日の瑠奈様の投稿、見た!?」

「見た見た! 神木くんと超お似合いだったよね!」

「あの二人、付き合ってるのかなあ」


そんな会話が容赦なく私の耳に飛び込んでくる。私は誰にも気づかれないように自分の席に着くと、机に突っ伏した。


(やめて……)


聞きたくない。知りたくない。


ちらりと隣の席を見る。神木くんはまだ来ていないようだった。


しばらくして教室のドアが開き、神木くんと姫川さんが二人で話しながら入ってきた。まるで昨日の写真の続きを見ているかのようだった。


「だから、あの場面の解釈は……」

「ああ、なるほどな。瑠奈の言う通りかもしれない」


二人の間には私なんかが到底入り込めない、プロ同士の空気が流れている。


姫川さんは私に気づくと、一瞬だけ勝ち誇ったような笑みを浮かべた。それは私にしか分からない、小さな小さな合図。


『あなたの居場所は、そこじゃないのよ』


そう言われた気がして、胸がずきりと痛んだ。


私は一日中、死んだように過ごした。授業の内容も先生の声も、何も頭に入ってこない。ただひたすらに放課後が来るのを待っていた。


約束の時間。私は『RIO』の顔になって、部室で神木くんを待っていた。


今日の私はいつもより入念に『RIO』を創り上げた。強いアイライン。誰も寄せ付けないような冷たい表情。心に分厚い壁を作るための、戦闘服。


(これは、仕事だ)


自分に何度も何度も言い聞かせる。


(余計な感情は捨てる。私はプロの演者。依頼主の要望に応えるだけ)


コン、コン。


控えめな打撃音。


「……どうぞ」


ドアを開けて入ってきた神木くんは、黒い帽子にマスク姿だった。


「こんばんは、RIOさん」


「お待ちしていました。では早速始めましょう」


私は一切の感情を殺した事務的な声で言った。


私の冷たい態度に神木くんが少し戸惑ったような表情を浮かべたのが分かった。でも私は気づかないふりをした。


彼を椅子に座らせ、私は黙々と準備を進める。


「今日は先日完成した補綴物をあなたの顔に装着します。数時間はかかりますので、そのつもりで」


「……はい」


神木くんも何かを察したのか、それ以上は何も言わなかった。


部室に気まずい沈黙が流れる。聞こえるのは道具がカチャカチャと触れ合う音だけ。


私は彼の顔に専用の接着剤を塗り始めた。


ひんやりとした液体を刷毛で丁寧に伸ばしていく。彼の肌の感触が指先に伝わってくる。


(集中しろ、私……)


これはただのシリコンを貼り付けるための作業。そう、ただの作業だ。


補綴物を彼の顔に慎重に乗せる。そして肌との境目を特殊な充填剤で丁寧になじませていく。


彼の顔が少しずつ、私の創った『老人』の顔に変わっていく。


その過程を彼は鏡も見ずに、ただじっと私に委ねていた。その絶対的な信頼が今の私には少しだけ重かった。


「……あの」


沈黙に耐えかねたように彼が口を開いた。


「姫川のインスタ、見ましたか?」


その言葉に私の指がぴくりと震えた。


「……仕事に関係のない話はしない主義なので」


私は冷たく突き放した。


「……そっか。ごめん」


彼はそれきり黙ってしまった。


(なんで、そんな悲しそうな声を出すの……)


胸がちくりと痛む。でも私はこの冷たい仮面を外すわけにはいかなかった。優しくされたら期待してしまうから。


化粧の工程は終盤に差し掛かっていた。噴霧器を使って肌に細かなシミや血管を描き込んでいく。最後に白髪のかつらと眉毛を装着する。


そして数時間後。


すべての作業が終わった。


「……終わりました。鏡を見てください」


私は彼に手鏡を渡した。


彼はおそるおそるその鏡を覗き込む。


そして息を飲んだ。


鏡に映っていたのは神木玲矢の姿ではなかった。深い皺が刻まれ、疲れ切ったような目をした見ず知らずの老人がそこにいるだけだった。


「……すごい」


彼の唇から感嘆のため息が漏れた。


「本当に……俺じゃないみたいだ」


彼は自分の顔にそっと触れる。皺の一本一本を確かめるように。


「これが……八十年、生きてきた顔……」


彼の瞳が潤んでいるように見えた。


その表情を見て私の心もわずかに揺れる。


(よかった……喜んでくれたんだ)


演者としての喜びが胸の奥から込み上げてくる。嫉妬とか不安とか、そんな黒い感情が一瞬だけどこかへ消えていく。


「どうですか。これで『老いる』という感覚が少しは掴めそうですか?」


私はプロとして冷静に問いかけた。


彼は鏡から目を離すと、まっすぐに私を見た。その瞳は今までに見たことがないくらい真剣で熱を帯びていた。


「感覚、なんてものじゃない」


彼は静かに言った。


「これは、もう……俺そのものだ。孤独も諦めも後悔も……全部この顔が俺に教えてくれる」


彼の言葉に私は息を飲む。


「ありがとう、RIOさん。君はやっぱりすごいよ」


彼の心からの賞賛の言葉。


「君はただの化粧師じゃない。人の魂に触れることができる人だ」


ドクン、と心臓が大きく跳ねた。


「姫川にはこれができない。どんなに演技がうまくても彼女には人の心をここまで揺さぶることはできない。……君にしかできないんだ」


え、と私は顔を上げた。


彼は姫川さんのインスタのことで私が心を乱されていることを見抜いていたんだ。そしてそれを彼なりの言葉で否定してくれた。


(私にしか、できない……)


その言葉が私の心の氷を溶かしていく。

灰色だった世界に一筋の光が差し込むような感覚。


「俺が本当に信頼しているのは君だけだよ、RIOさん」


彼のまっすぐな瞳。


その瞳に見つめられて、私はもう冷たい仮面を被っていることができなかった。


「……神木、くん」


声変換機を通さない私の本当の声が思わず漏れてしまった。


しまった、と思った時にはもう遅い。


神木くんがわずかに眉をひそめる。


「……今の声」


彼は老人の顔のまま私をじっと見つめた。


「どこかで聞いたことがあるような……」


やばい。バレる。


私が混乱していると彼はふっと息を吐いて首を振った。


「いや、気のせいか。ごめん」


彼はそう言うともう一度鏡の中の自分を見つめた。


「この顔で少し歩いてみてもいいかな。この体で世界がどう見えるのか知りたいんだ」


「ええ、もちろん」


私は安堵のため息をつきながら頷いた。


彼はゆっくりと椅子から立ち上がる。そしてまるで本当の老人のように少し腰を曲げ、おぼつかない足取りで部室の中を歩き始めた。


その姿は完璧な『老人』だった。


私は自分の仕事に誇りを感じた。


彼がふと窓の外に目をやる。夕焼けの光が彼の老いた顔を照らしていた。


「……綺麗だな」


彼がぽつりと呟く。


「こんなふうに夕日を綺麗だって思ったの、いつ以来だろう」


その横顔はひどく儚くて切なくて。


私は思わず彼から目が離せなくなっていた。


この時間がずっと続けばいいのに。


彼がただの依頼主で、私がただの演者で。お互いの素顔も知らずに、でも心だけは繋がっている。


そんな淡い願いが胸をよぎった、その時だった。


ガラッ!


部室のドアが乱暴に開けられた。


そこに立っていたのは息を切らした橘先輩だった。


「RIO! 大変だ!」


先輩の切羽詰まった声。


「姫川が……! お前の正体を嗅ぎつけようとしてる!」


「え……!?」


「あいつ、お前が俺の『後輩』だってことまで突き止めて、今、一年生の教室を片っ端から聞き込みしてるらしい!」


先輩の言葉に私の血の気がさっと引いていく。


一年生。後輩。


条件に合う人間なんてそう多くはない。


私の本当の顔が暴かれる。


神木くんに私が地味で冴えない彩崎莉緒だってことがバレてしまう。

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