第6話
嵐のような金曜日が過ぎ去り週末が明けた月曜日の朝。
私はいつもより少しだけ早く家を出て、教室の自分の席に座っていた。手には文庫本。でも活字はまったく頭に入ってこない。
(これから、どうなっちゃうんだろう……)
頭の中は金曜日の出来事でいっぱいだった。
姫川瑠奈さんの燃えるような嫉妬の瞳。彼女が残していった明確な宣戦布告。
『玲矢の隣にいていいのは、私だけなんだから』
その言葉が棘のように胸に突き刺さって、時々ずきりと痛む。
分かってる。私は神木くんの隣にいるべき人間じゃない。私は教室の隅で息を殺している、地味で冴えない彩崎莉緒だ。
でも『RIO』としての私は、彼と約束してしまった。
『最高の顔を創る』って。
二つの自分の間で心がぐらぐらと揺れる。
「おはよう、彩崎さん」
不意に隣から声をかけられて、私の心臓がどきんと大きく跳ねた。
見上げると、そこには朝の光を浴びてキラキラと輝く神木くんの笑顔があった。
「お、おはよう……神木くん」
「週末、よく眠れた? 金曜はごめん。大変だったよね」
彼は周りに聞こえないように声を潜めて私に話しかけてきた。その気遣いがなんだか嬉しくて、でも同時に胸が苦しくなる。
「ううん、大丈夫……。神木くんこそ、平気だった?」
「俺は平気。それより、RIOさんにもよろしく伝えておいてくれるかな。『本当にありがとう』って」
「……うん。分かった」
彼が話しているのは『RIO』のこと。私のことじゃない。
そう分かっているのに、彼の優しい声を聞いているだけで顔が熱くなってくる。
(って、なんで私が彼のことでこんなに一喜一憂してるの――っ!?)
心の中で自分にツッコミを入れる。
落ち着け、私。彼は依頼主。私はその依頼を受けたアーティスト。それ以上でもそれ以下でもないんだから。
そう自分に言い聞かせていると教室のドアが開き、女子たちの黄色い声が上がった。
「瑠奈様、おはよー!」
「今日も可愛いー!」
現れたのは姫川瑠奈さんだった。彼女はクラスメイトたちに優雅に微笑みながら自分の席へと向かう。その途中、彼女の視線が私と神木くんを捉えてぴたりと止まった。
そして、わざと見せつけるようににっこりと微笑んで神木くんの席へと近づいてきた。
「玲矢、おはよう。金曜日はごめんね、私、ちょっとカッとなっちゃって」
さっきまでの冷たい態度はどこへやら。彼女は甘えるような声で神木くんに謝った。
「……いや。俺の方こそ、言いすぎた」
神木くんは少し気まずそうに答える。
「ううん、いいの。玲矢が自分の仕事に真剣なのは、私が一番よく分かってるから。でも、あんまり根を詰めすぎないでね。心配だから」
そう言って彼女は神木くんの肩に、ぽんと優しく手を置いた。
その親密な仕草に私の胸がまたちくりと痛んだ。
(やっぱり、この二人は特別な関係なんだ……)
住む世界が違う。私なんかじゃ到底入り込めない、キラキラした世界。
私は二人の会話から逃げるように、再び文庫本に視線を落とした。本の世界に没頭してしまえば、この息苦しい現実を忘れられるはずだから。
***
放課後。私は逃げるように映像研究部の部室へと向かった。
ここだけが私の唯一の安息の場所。
「お、彩崎。来たか」
橘先輩がデスクでパソコンに向かいながら私に声をかける。
部室の机の上には金曜日に取った神木くんの顔の石膏型が置かれていた。それを見るとまた心臓が変な音を立て始める。
「先輩。これ、お願いします」
私は石膏の型に特殊な樹脂を流し込んで作った神木くんの顔の陽型――つまり、彼の顔の精密なレプリカを、作業台の上に置いた。
「おう。任せとけ」
先輩はその陽型を3Dスキャナーで読み込み、パソコン上に取り込んでいく。
「これで、いつでもデジタルデータ上でメイクのシミュレーションができるってわけだ。便利になったよな、ほんと」
「はい……」
私は自分の席に着くと、もう一つの陽型を手に取った。そしてその上に特殊メイク用の油粘土を盛り付け始める。
これからこの神木くんの顔のレプリカの上に直接『老人』の顔を彫刻していくのだ。
指先に全神経を集中させる。
深い皺、たるんだ皮膚、長年生きてきた証であるシミやホクロ。資料写真と自分の記憶の中にあるイメージを頼りに、少しずつ少しずつ粘土で形作っていく。
この作業をしている時だけは無心になれた。
教室での息苦しさも姫川さんのことも神木くんの優しい声も、すべて忘れてただひたすらに目の前の『顔』と向き合う。
「……なあ、彩崎」
しばらくして橘先輩がぽつりと呟いた。
「お前、本当に大丈夫なのか?」
その声にはいつもの軽さはなく、真剣な響きがこもっていた。
「金曜みたいなことがあると俺は心配だよ。姫川みたいなのに本気で目をつけられたら、お前ただじゃ済まないぞ」
先輩の言葉に私の手が、一瞬だけ止まる。
「……大丈夫です」
私は自分に言い聞かせるように言った。
「私は『RIO』ですから。彩崎莉緒がどうこうされるわけじゃありません」
「そういう問題じゃねえだろ」
先輩がため息をつく。
「俺は、お前の才能を誰よりも信じてる。だからこそ、お前が自分の才能のせいで傷つくのだけは見たくないんだよ」
先輩の不器用な優しさが心に染みる。
「……ありがとうございます、先輩。でも私はもう決めたんです。神木くんの力になるって」
そう。もう後戻りはできない。
私が粘土をこねていると、ポケットに入れていたスマホがぶぶ、と震えた。
メッセージアプリの通知。差出人は『K』。神木くんだ。
『RIOさん、こんばんは。先日はありがとうございました。次の打ち合わせですが、いつ頃がご都合よろしいでしょうか?』
そのメッセージを見て胸が高鳴るのと同時に、教室での彼の姿が思い出される。
『RIO』として彼とプロフェッショナルな会話を交わす私。
教室で彼にまともに話しかけることもできずおどおどしている私。
二つの顔のあまりにも大きなギャップ。
(神木くんが好きなのは、天才『RIO』……。本当の私を知ったらきっと幻滅する)
ズキッ、と胸の奥が痛んだ。
私は神木くんに『プロテーゼの完成まで、あと数日かかります』と返信した。
それから数日間。私は学校が終わるとすぐに部室にこもり、ひたすら老人の顔を創り続けた。
そして、ついに。
一枚の薄いシリコン製のプロテーゼが完成した。
それはまるで本物の皮膚のようにリアルな質感で、深い皺や細かなシミまでが完璧に再現されていた。
「……できた」
自分の手の中にある『顔』を見て私は思わず呟いた。
これさえあれば神木くんを完璧な老人に変身させられる。
達成感と言いようのない高揚感が胸いっぱいに広がった。
早く彼に見せたい。これをつけた彼がどんな表情をするのか見たい。
私は逸る気持ちを抑えながら神木くんにメッセージを送った。
『RIOです。準備ができました。明日の放課後、アトリエでお待ちしています』
すぐに彼から『必ず行きます』と返事が来た。
次の密会。今度はもっと深く彼の心に触れられるかもしれない。
そんな期待に胸を膨らませていた、その時だった。
スマホが再び通知を知らせる。
それはインスタグラムの通知だった。フォローしている姫川瑠奈さんの新しい投稿。
何気なくその通知をタップした私の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
そこにアップされていたのは一枚の写真。
スタジオらしき場所で姫川さんと神木くんが仲睦まじげに寄り添って、カメラに微笑んでいる。
そしてその写真に添えられていたのは、こんなコメントだった。
『玲矢と、今度の映画の役作りでディスカッション中♡ 最高の作品にするために、二人で頑張ります!』
その写真とコメントを見た瞬間。
私の心臓はまるで氷水に浸されたように冷たくなった。
ズキン、と今までで一番大きな痛みが胸を貫く。
そうか。
そうだよね。
本当の共演者は姫川さんだ。
二人で役作りをするのが当たり前なんだ。
私なんてただの裏方の、便利な道具にすぎない。
分かっていたはずなのに。
どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。
完成したばかりの老人のプロテーゼ。
それがなんだか急に色褪せて見えた。
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