第5話

時間が、凍りついた。


部室のドアの隙間から覗く、華やかな顔。甘く響く、その声。


姫川瑠奈。


テレビや雑誌で何度も見たことのある、トップアイドル女優。きらきらと輝く大きな瞳、完璧な角度で巻かれた艶やかな髪。彼女の存在そのものが、この埃っぽい部室にはあまりにも不釣り合いで、まるで異次元から迷い込んできたかのようだった。


(な、なんで、この人がここに……!?)


心臓が、喉元までせり上がってくる。頭の中が真っ白になって、思考が停止する。


私の隣で、橘先輩の顔からすっと血の気が引いていくのが分かった。そして、椅子に座っていた神木くんに至っては、バッと音を立てんばかりの勢いで立ち上がり、咄嗟にさっきまで自分の顔についていた石膏の型を盾のようにして、顔を隠した。


そのあまりに不自然な動きに、姫川瑠奈の目が、きらりと鋭く光る。


「あら……? 圭吾、お客さん?」


彼女は、ドアを完全に開けて、優雅な足取りで部室に入ってきた。ふわりと、甘い花の香りが空気を満たす。


「立入禁止って書いてあったけど、圭吾がいるならいいかなって。ちょっと、相談したいことがあったのよ」


彼女は橘先輩に親しげに話しかけながらも、その視線は明らかに室内をくまなく探っていた。私の、このありえない『顔』を値踏みするように一瞥し、それから、石膏の型で顔を隠す神木くんの姿に、ぴたりと固定される。


空気が、張り詰める。やばい。やばいやばいやばい!


この状況、どう考えても絶体絶命だ。国民的俳優の神木玲矢と、人気女優の姫川瑠奈が、こんな旧校舎の部室で鉢合わせなんて。もしバレたら、明日にはとんでもないスキャンダルになっている。


(どうしよう、どうしよう……!)


私の頭がパニックでショート寸前になった、その時。


「よぉ、瑠奈。久しぶりじゃんか」


橘先輩が、驚くほど普段通りの、気だるげな声で言った。彼は、私と神木くんの前にさりげなく立つと、姫川瑠奈の視線を遮るように、壁になった。


「悪いな、今ちょっと取り込み中で。こっちは、映画甲子園に出す作品の小道具作りを手伝ってもらってる、俺の友達」


先輩は、親指で私の方をくいっと示す。


「で、そっちの奴は、顔の型取りモデルをやってくれたボランティア。恥ずかしがり屋だから、顔はNGな」


完璧だ。完璧すぎる、アドリブ……!


私は、先輩の背中に隠れながら、心の中で喝采を送った。


姫川瑠奈は、先輩の言葉に、ふぅん、と意味ありげな相槌を打つ。そのアーモンド形の瞳が、私と、神木くんが隠れている方を、じろりと射抜くように見た。


「友達、ねぇ……。圭吾、あんたが女子を部室に入れるなんて、珍しいじゃない。しかも、ずいぶん本格的なメイクをしてるみたいだけど」


彼女の視線が、私の『顔』に突き刺さる。値踏みするような、探るような、鋭い視線。


(バレてる……? 私が、ただの友達じゃないって……)


背筋が、ぞくりと冷たくなる。


「それに、そっちのボランティアさん? ずいぶん、スタイルがいいのね。俳優さんか何か?」


鎌をかけるような、意地悪な質問。


神木くんが、石膏の型の陰で息を飲むのが分かった。


「さあな。俺はスカウトマンじゃないから分かんねえよ」


橘先輩は、あくまで飄々とした態度を崩さない。


「それより、相談ってなんだよ。手短に頼むぜ。こっちは、締め切りが近いんでな」


先輩が話を逸らそうとするが、姫川瑠奈は乗ってこない。彼女は、くすりと妖艶に微笑むと、わざと聞こえるように、大きな声で言った。


「実はね、玲矢のことなの」


その名前に、神木くんの肩が微かに揺れる。


「玲矢、最近、なんだか様子がおかしいのよ。何か一人で思い詰めてるみたいで。……もしかして、圭吾、何か知らない?」


探るような視線が、橘先輩に注がれる。


「俺が知るわけないだろ。あいつとは、クラスが違うしな」


「そう? でも、玲矢ってば、最近よく旧校舎の方に行くって噂よ。だから、もしかしたら、圭吾に何か相談してるんじゃないかなって思って」


姫川瑠奈の言葉は、確信犯だ。彼女は、神木くんがここにいることを、ほとんど確信している。


(どうしよう……。このままじゃ、時間の問題だ)


私の心臓が、警鐘のように激しく鳴り響く。


「さあな。俺は何も聞いてないぜ」


橘先輩がしらを切り通そうとした、その時。


姫川瑠奈は、ふいに私の方へと一歩近づいた。甘い香りが、強くなる。


「ねえ、あなた」


彼女が、私に話しかけてきた。


「あなた、名前は?」


心臓が、喉から飛び出しそうだった。


ここで、私が彩崎莉緒です、なんて言えるはずがない。でも、偽名を名乗ったところで、すぐにバレるだろう。


私が答えに窮していると、橘先輩がすかさず割って入った。


「おいおい、瑠奈。言ったろ、こいつは俺の友達だ。根掘り葉掘り聞くのは、マナー違反だぜ」


「あら、ごめんなさい。でも、気になっちゃって。だって、そのお顔……」


姫川瑠奈は、私の顔をじっと見つめて、唇の端を吊り上げた。


「まるで、誰かみたい」


え、と私は息をのむ。


「最近、玲矢がすごく入れ込んでる、正体不明のアーティストがいるのよ。『RIO』っていうんだけど……。あなた、その人だったりして?」


心臓が、凍りついた。


バレてる。なんで。どうして。


パニックに陥る私を、橘先輩が守るように一歩前に出る。


「おい、瑠奈。いくらなんでも、憶測でモノを言うのはやめろ。こいつは、ただの学生だ」


「そうかしら?」


姫川瑠奈は、少しも怯まない。彼女の瞳は、獲物を見つけた肉食獣のように、爛々と輝いていた。


絶体絶命。もう、ダメだ。


そう思った、その時だった。


「――瑠奈」


低く、静かな声が、部室に響いた。


声の主は、今まで石膏の型で顔を隠していた、神木玲矢くんだった。


彼は、ゆっくりと立ち上がると、顔を隠していた型をデスクに置いた。その顔は、いつもの完璧な王子様の笑顔ではなく、冷たく、人を寄せ付けないような、絶対零度の表情をしていた。


「お前、何しに来たんだ」


「れ、玲矢……! やっぱり、ここにいたのね!」


姫川瑠奈の顔が、ぱっと華やぐ。


「心配したのよ! 最近、様子がおかしいから……」


「余計なお世話だ」


神木くんは、彼女の言葉を、ぴしゃりと切り捨てた。


「俺が誰とどこで何をしようと、お前には関係ない。それに、この人たちに、無礼な詮索をするのはやめろ」


彼の冷たい声と、突き放すような視線に、姫川瑠奈の笑顔が凍りつく。


「な……っ! 私、心配して……!」


「心配なら、なおさらだ。俺のプライベートに、これ以上踏み込むな」


神木くんは、有無を言わせないオーラで、姫川瑠奈を睨みつけた。


それは、私が今まで見たことのない、彼の『顔』だった。


テレビで見せる爽やかな王子様でもなく、私に見せてくれた悩める役者の顔でもない。大切なものを守るために、敵を威嚇する、鋭い獣のような顔。


その姿に、私は、なぜか胸がドキドキしていることに気づいた。


「……分かったわ」


しばらくの沈黙の後、姫川瑠奈は悔しそうに唇を噛み締めると、踵を返した。


そして、ドアを出ていく直前、彼女は私の方を振り返り、小さな声で、でもはっきりと、こう言った。


「……覚えておきなさい。玲矢の隣にいていいのは、私だけなんだから」


それは、嫉妬と敵意に満ちた、明確な宣戦布告だった。


バタン、と乱暴にドアが閉められる。


嵐が去った後の部室に、重い沈黙が落ちた。


「……ごめん」


最初に口を開いたのは、神木くんだった。


「俺のせいで、嫌な思いをさせた」


彼は、私と橘先輩に、深く頭を下げた。


「いや……気にするな。それより、お前こそ大丈夫か? あんな言い方して、後で面倒なことになったりしないか?」


橘先輩が、心配そうに尋ねる。


「平気だよ。あいつとは、昔からああいう感じだから」


神木くんは、力なく笑った。でも、その顔は、ひどく疲れているように見えた。


私は、何も言えなかった。


姫川瑠奈が残していった、棘のある言葉。彼女の、燃えるような嫉妬の瞳。


自分が、とんでもない世界に足を踏み入れてしまったことを、今更ながらに実感していた。


地味で、空気みたいな、ただの彩崎莉緒でいることが、どれだけ平和で、安全だったか。


(私に、できるのかな……)


こんな華やかな世界の、すぐ隣で。この人の、力になるなんて。


私の不安を、見透かしたように。


神木くんが、私をまっすぐに見て、言った。


「RIOさん」


彼の真剣な声に、私は顔を上げた。


「さっき、君が言った言葉……『私が、あなたを役者にする顔を創る』って言葉、すごく、嬉しかった」


彼の瞳には、さっき瑠奈に向けていた冷たい光はなく、ただひたすらに、誠実な色が浮かんでいた。


「君のおかげで、光が見えたんだ。俺は、絶対にこのチャンスを無駄にしたくない。だから……これからも、俺の力を貸してください」


そう言って、彼は、再び深く頭を下げた。


彼の真摯な言葉と、その瞳に宿る熱い光。


それを見たら、もう、逃げることなんてできなかった。


ここで怖気づいて、すべてを投げ出してしまうのは、彩崎莉緒だ。


でも、私は今、『RIO』なんだ。


「……もちろんです」


私は、覚悟を決めて、頷いた。


「最高の『顔』を、創ってみせます。あなたの、役者としての未来を、この手で」


偽物の顔の下で、私の本物の心が、確かにそう叫んでいた。


姫川瑠奈の宣戦布告。神木くんの、切実な願い。


私の日常は、もう、音を立てて崩れ始めている。


これから、一体どうなってしまうんだろう。


不安と、それから、ほんの少しの武者震いが、私の全身を駆け巡っていた。

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