第4話

約束の日、金曜日の放課後。


私の心臓は、朝からずっと落ち着きなく脈打っていた。それもそのはず。今日、このあと、私は『RIO』として神木玲矢くんに会うのだ。


授業なんて、まったく頭に入ってこない。ノートの端に、無意識のうちに老人の顔のデッサンを描いては、慌てて消しゴムで消す。その繰り返し。


ちらり、と隣の席に視線を送る。


神木くんは、いつも通り完璧な姿勢で、真剣な表情で黒板を見つめていた。休み時間になれば、相変わらず彼の周りには人だかりができて、彼はその一人一人に、あの完璧な王子様の笑顔を振りまいている。


(本当に、この人が……?)


私の正体を知らずに、今夜、私の『アトリエ』にやってくる。そして、私は彼の顔に、この手で触れるのだ。


考えただけで、顔から火が出そうだった。


「……崎さん。彩崎さん」


「へっ!?」


肩を揺さぶられて、私は我に返った。目の前には、心配そうに私を覗き込む神木くんの顔。


「大丈夫? チョーク、落としたよ」


言われて足元を見ると、白いチョークが一本転がっていた。どうやら、先生に指されて黒板で問題を解いた後、ぼーっとしていて落としてしまったらしい。


「あ、あ、ごめんなさい!」


慌てて拾おうと屈んだ私と、同じように手を伸ばした神木くんの指先が、ふいに触れ合った。


ドキッ!!


指先から、電気が走ったような衝撃。


「わっ!」


びっくりして手を引っ込めると、神木くんが先にチョークを拾い上げて、私に差し出してくれた。


「はい」


「あ、ありがとう……ございます……」


彼の綺麗な指先からチョークを受け取る。たったそれだけのことなのに、心臓はもう限界なくらいバクバクしていた。


「彩崎さんって、いつも何か考え事してるよね」


彼が、ふとそんなことを言った。


「え?」


「なんていうか、上の空っていうのとは違うんだけど……すごく、遠い世界にいるみたいに見える時がある」


彼の言葉に、私は息を飲む。


(見抜かれてる……?)


私が、ここで息を殺して、別の世界――『RIO』としての世界に生きていることを?


「ご、ごめんなさい、私、ぼーっとすることが多くて……」


「いや、謝らないで。別に、悪い意味で言ったんじゃないんだ」


神木くんは、少し困ったように笑った。


「ただ……少しだけ、気になっただけだから」


そう言って、彼は自分の席に戻っていく。


残された私は、心臓を押さえたまま、その場に立ち尽くすしかなかった。


(なんなの、今の……)


ただでさえ緊張しているのに、彼のせいで心臓がもたない。


早く、放課後になってほしい。そして、早く、この息苦しい彩崎莉緒の皮を脱ぎ捨てて、『RIO』になりたい。


そう、強く願った。


***


そして、運命の放課後。


旧校舎の映像研究部室は、いつもとは違う緊張感に包まれていた。


私は、昨日創った『別人』のプロテーゼを装着し、完璧な『RIO』の姿になっていた。橘先輩は、万が一誰かが来ないように、部室の前に『機材調整中・立入禁止』の札を下げてくれている。


約束の時間が、刻一刻と迫る。


ごくり、と喉が鳴った。


コン、コン。


静かな部室に、控えめなノックの音が響いた。


びくり、と私の肩が跳ねる。橘先輩と顔を見合わせ、彼が頷くのを確認して、私は深呼吸をした。


「……どうぞ」


ギィ、と古びたドアが開く。


そこに立っていたのは、黒いキャップを目深にかぶり、マスクで顔を半分以上隠した、長身の男の子。紛れもない、神木玲矢くんだった。


彼は、警戒するように素早く室内を見渡すと、私と橘先輩の姿を認めて、ほっとしたように息をついた。


「……こんばんは。RIOさん、ですよね?」


マスク越しにくぐもった声が、私の名前を呼ぶ。


「はい。お待ちしていました、神木さん。こちらは、私のアシスタントです」


私が隣の橘先輩を紹介すると、彼はぺこりと頭を下げた。


「どうも」


「神木くん、ようこそ。ま、汚いとこだけど、ゆっくりしてってよ」


先輩の気さくな態度に、神木くんも少しだけ表情を和らげた。


彼はマスクと帽子を取る。現れた素顔は、やはり息をのむほど整っていて、私は思わず目を逸らしそうになった。


「すごいですね……ここ」


神木くんは、壁際にずらりと並んだ機材や、デスクの上に散らばる粘土の欠片、石膏の型なんかを、興味深そうに見回している。


「本当に、アトリエって感じだ」


「お褒めいただき、光栄です。では、早速始めましょうか」


私は、彼を部屋の中央に用意したリクライニングチェアへと促した。


「これから、あなたの顔に直接、型取り材を塗っていきます。まずは、アルジネートという、歯医者さんで使うようなもの。冷たくて、少し驚くかもしれませんが、害はありません」


私は、これから行う手順を、冷静に、事務的に説明していく。そうでもしないと、平常心を保てそうになかったから。


「その後、石膏のついた包帯で顔全体を覆います。完全に固まるまで、十分ほど。その間、鼻に差し込んだストローだけで呼吸してもらうことになります。少し、窮屈に感じるかもしれませんが……」


「大丈夫です。役のためなら、何でもします」


神木くんは、迷いのない瞳で、まっすぐに私を見つめて言った。


その覚悟に、私の背筋も自然と伸びる。


「では、椅子に。髪が汚れないように、ケープをかけますね」


彼が椅子に横たわる。私は、彼の首元にケープをかけ、髪をヘアバンドで丁寧に上げた。


彼の顔が、すぐそこにある。


ふわりと、シャンプーのいい香りがした。


(ち、近い……!)


心臓が、今にも破裂しそうだ。でも、私の手は、震えてはいけない。私はプロなんだから。


「少し、冷たいですよ」


私は、ボウルの中で練り上げた、ペースト状のピンク色のアルジネートを、彼の顔に塗り始めた。


ひんやりとした感触に、彼の肩がわずかに震える。


私は、彼の額から、頬へ、顎へと、指先で優しく、しかし手早くアルジネートを広げていく。


彼の肌の、滑らかな感触。規則正しい、呼吸の温かさ。そのすべてが、私の指先から伝わってきて、頭がおかしくなりそうだった。


(しっかりしろ、私……! これは仕事、仕事……!)


自分に何度も言い聞かせる。


アルジネートで顔全体が覆われ、彼の表情が見えなくなる。最後に、鼻にストローを二本差し込んだ。


「苦しくないですか?」


「……大丈夫です」


ストロー越しに、くぐもった声が返ってくる。


次に、石膏を含ませた包帯を、彼の顔の上に重ねていく。だんだんと、彼の顔が真っ白な仮面のようになっていく。


完全に、彼の『顔』が世界から遮断された。


静寂が、部室を支配する。聞こえるのは、古びた時計の秒針の音と、彼の、ストローを通る呼吸音だけ。


それは、とても不思議な時間だった。


顔が見えないからだろうか。沈黙に耐えかねたように、彼がぽつりと話し始めた。


「……俺、ずっと、怖かったんです」


ストロー越しの声は、まるで心の奥底から響いてくるようだった。


「いつか、みんなが俺に飽きちゃうんじゃないかって。キラキラした王子様じゃなくなった俺には、誰も価値を見出してくれないんじゃないかって。だから、必死で『神木玲矢』を演じてきた」


彼の告白に、私は手を止めて、じっと耳を澄ませた。


「でも、この役だけは、どうしても演じ切りたい。これが成功すれば、俺は、ただのアイドルじゃなくて、本物の『役者』として、一歩前に進める気がするんです」


彼の声は、わずかに震えていた。


完璧な仮面の下に隠された、彼の弱さと、焦りと、そして、夢。


胸の奥が、ちくりと痛んだ。


分かるよ、神木くん。私も、同じだから。


この偽物の顔がなくなったら、誰も私なんて見てくれない。そう思って、ずっと怯えて生きてきた。


「……大丈夫ですよ」


気づけば、私はそう呟いていた。


「私が、あなたを『役者』にする顔を、創りますから」


それは、『RIO』としての言葉だったのか。それとも、彩崎莉緒としての、心の叫びだったのか。


自分でも、分からなかった。


私の言葉に、彼は何も答えなかった。ただ、ストローを通る彼の呼吸が、少しだけ穏やかになったような気がした。


石膏が、完全に固まる。


私は、ゆっくりと、彼の顔から型を外した。


現れた彼の顔は、少し赤くなっていて、額には汗が滲んでいた。


彼が、ゆっくりと目を開ける。


そして、私を――『RIO』を、まっすぐに見た。


その瞳には、さっきまでの不安の色は消えて、代わりに、深い信頼と、そして、今まで見たことのないような熱い光が宿っていた。


「ありがとう、RIOさん」


彼の声が、静かな部室に響く。


「あなたとなら、俺……本当に、やれる気がします」


その真剣な眼差しに、私の心臓が、大きく、大きく、跳ねた。


嘘の顔から始まった、秘密の関係。


でも、今、この瞬間に通い合った気持ちは、きっと、本物だ。


そう、確信した、その時だった。


ギィ……。


不意に、部室のドアが、ゆっくりと開く音がした。


「圭吾? 部室にいるー?」


聞こえてきたのは、甘く、しかしどこか芯の強さを感じさせる、女の子の声。


私と橘先輩、そして神木くんの間に、緊張が走る。


ドアの隙間から、綺麗なウェーブのかかった髪を覗かせたのは、学園のアイドル的存在で、人気若手女優の――姫川瑠奈、その人だった。

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