第3話

パソコンの画面の向こう側で、神木玲矢が私を、いや、『RIO』をまっすぐに見つめている。


心臓が、耳のすぐそばで鳴っているみたいにうるさい。指先が氷のように冷たくなって、呼吸の仕方さえ忘れそうだった。


(ど、どうしよう……! 本物の、神木玲矢だ……!)


昨日、遠くから見ただけでも現実感がなかったのに、今は画面越しとはいえ、一対一で向き合っている。整いすぎた顔のパーツひとつひとつが、あまりにもはっきりと見えて、頭がクラクラする。


隣にいる橘先輩が、私の背中をこっそりと、でも力強く叩いた。その衝撃で、私はかろうじて意識を現実に引き戻す。


そうだ、私は今、彩崎莉緒じゃない。


天才特殊メイクアップアーティスト、『RIO』なんだ。


この顔(フェイクフェイス)を被っている限り、私は無敵。大丈夫。できる。


「……はい。私がRIOです」


自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。ボイスチェンジャーで少しだけ低く変えている声。これが、私の鎧。


「初めまして、神木玲矢さん。ご依頼のメール、拝見しました」


画面の向こうで、神木くんがわずかに目を見開いた。私の落ち着き払った態度が、少し意外だったのかもしれない。


「……初めまして。神木玲矢です。突然の連絡、失礼しました。でも、どうしてもあなたにお願いしたくて」


彼の声は、テレビで聞くよりも少しだけ低くて、真剣な響きを帯びていた。教室で見せる、あの完璧な王子様の笑顔はどこにもない。今は、一人の悩める役者としての顔をしている。


(この顔が、彼の本当……?)


胸の奥が、きゅっと締め付けられる。もっと、知りたい。この人のことを。


「単刀直入に伺います。あなたが演じる『老人』とは、どのような人物ですか?」


私は、プロとしてのスイッチを無理やり入れた。感傷に浸っている場合じゃない。これは仕事だ。


私の問いに、神木くんは少し驚いたように瞬きをして、それから真剣な表情で語り始めた。


「僕が演じるのは、家族も友人も失って、たった一人で海辺の古い家に住む老人です。頑固で、無口で、誰にも心を開かない。でも、その心の奥底には、深い孤独と、かつて愛した人への想いが眠っている……そういう役です」


彼の言葉を聞きながら、私は手元のスケッチブックにペンを走らせる。老人の顔、手の甲、その生活。彼の言葉からイメージを膨らませ、具体的なビジュアルに落とし込んでいく。


「役作りのために、たくさんの資料を読みました。老人ホームにも足を運んで、お話を伺ったりもした。でも……分からないんです」


神木くんが、悔しそうに唇を噛んだ。


「どんなに知識を詰め込んでも、僕には本当の意味で『老いる』ということが理解できない。八十年以上生きてきた人間の、その顔に刻まれた皺の意味も、その瞳に宿る諦観も……僕には、何一つ、本当の意味で分からないんです」


画面越しに伝わってくる、彼の焦りと情熱。


(この人、すごく真面目なんだ……)


世間が彼に求める「キラキラした王子様」というイメージとは、かけ離れた姿。自分の仕事に、こんなにも真摯に向き合っている。


「だから、お願いしたいんです。あなたの力で、僕を『老人』にしてほしい。見た目だけじゃない。特殊メイクの力で、僕に『老いる』という感覚を、教えてほしいんです」


まっすぐな瞳。その瞳に射抜かれて、心臓がドキリと音を立てた。


(感覚を、教える……)


なんて無茶な要求だろう。でも、なんて魅力的な挑戦だろう。


私の血が、騒ぐのが分かった。アーティストとしての本能が、この難題に挑戦しろと叫んでいる。


「……分かりました。お引き受けします」


私は、きっぱりと告げた。


「ただし、条件があります。私のやり方に、すべて従ってもらうこと。そして、この件は完全な極秘事項として、誰にも口外しないこと。マネージャーさんにも、です」


「もちろんです。すべて、あなたにお任せします」


神木くんは、力強く頷いた。その瞳には、暗いトンネルの先にかすかな光を見つけたような、そんな切実な色が浮かんでいた。


「では、まず最初に、あなたの顔の型を取らせていただきます。ライフキャスト、と呼ばれる作業です」


「ライフキャスト……」


「はい。あなたの顔に直接、型取り材を乗せて、精密なレプリカを作ります。それがなければ、あなた専用のプロテーゼは作れませんから」


私の説明に、神木くんはごくりと喉を鳴らした。


「つまり……直接、お会いするということですね」


「そうなります。安全で、誰にも見られない場所が必要ですが……心当たりは?」


私がそう尋ねると、神木くんは少し考え込むように視線を彷徨わせた。


「……僕の自宅は、マスコミにマークされていて難しい。事務所のスタジオも、人の出入りが激しいし……」


彼の言う通りだ。国民的人気俳優が、正体不明のアーティストと密会するなんて、スキャンダル以外の何物でもない。


その時、隣で黙って話を聞いていた橘先輩が、マイクをオフにした状態で私に耳打ちした。


「彩崎、この部室を使えばいい」


「えっ!?」


「ここは旧校舎で、放課後はほとんど誰も寄り付かない。それに、機材も揃ってる。最高の隠れ家だろ?」


確かに、先輩の言う通りだ。この部室以上に、安全な場所はないかもしれない。


私はマイクをオンに戻し、神木くんに提案した。


「……私のアトリエに来ていただきます。場所は、追って連絡します。もちろん、こちらも万全のプライバシー対策をお約束します」


「あなたの、アトリエ……」


神木くんが、興味深そうに目を細める。


「はい。そこなら、誰にも邪魔されずに作業に集中できます」


「分かりました。それで、お願いします」


こうして、私たちの最初の密会場所が決まった。


心臓が、さっきからずっと変な音を立てている。


クラスメイトの神木玲矢と、この部室で、二人きり。しかも、私は『RIO』の顔で、彼は素顔で。


(考えただけで、気が遠くなりそう……)


「あの……RIOさん」


ふと、神木くんがためらうように口を開いた。


「一つ、聞いてもいいですか?」


「なんでしょう」


「あなたはどうして……そこまで、この仕事に情熱を注げるんですか? あなたの作品からは、単なる技術だけじゃない、何か……魂のようなものを感じるんです」


彼のまっすぐな質問に、私は言葉に詰まった。


どうして、なんて。


そんなの、決まってる。


自分の顔が嫌いで、現実から逃げたくて、別人になりたかったから。私の技術は、私のコンプレックスそのものだから。


でも、そんなこと、言えるはずがない。


私は、当たり障りのない答えを探して、口を開いた。


「……顔は、その人の心を映す鏡だから、でしょうか。顔を創ることは、新しい心を創ること。それは、とても……やりがいのある仕事です」


我ながら、優等生すぎる答えだと思った。


でも、神木くんは、私の言葉をじっと噛みしめるように聞いていた。そして、ふっと息を吐くと、今まで見せたことのないような、儚い笑顔を浮かべた。


「そっか……。新しい心を、創る……」


その笑顔に、胸がズキッと痛んだ。


「俺も、ずっと探してたのかもしれない。本当の自分を隠してくれる、別の顔を」


え、と息を飲む。


「俺、時々分からなくなるんです。みんなが求めている『神木玲矢』を演じているうちに、本当の自分がどんな顔をしてたのか、忘れちゃいそうで」


彼の独白は、誰にも聞かせたことのない、心の叫びのように聞こえた。


「だから、なんだか分かる気がするんです。RIOさんが、どうしてそんなに真剣に『顔』と向き合っているのか」


ドクン、と心臓が大きく脈打つ。


「あなたも、きっと……自分の顔じゃない『顔』で、世界と戦っている人なんじゃないですか?」


違う。


私は戦ってなんかない。ただ、逃げてるだけだ。


でも、彼の言葉は、不思議なほど私の心に染み渡った。


この人は、分かってくれるのかもしれない。


仮面の下にある、本当の私を。


いや、そんなはずはない。彼は、私が創り出した『RIO』という虚像に、自分を重ねているだけだ。


「……時間ですね。詳しい日時は、後ほどこちらの担当者から連絡させます」


私は、無理やり会話を打ち切った。これ以上話していると、メッキが剥がれてしまいそうだったから。


「あ、はい。よろしくお願いします」


神木くんが、少し名残惜しそうに頷く。


橘先輩が、通話を終了するボタンを押した。画面が暗転し、神木くんの姿が消える。


途端に、全身の力が抜けて、私は椅子にへたり込んだ。


「はぁ……はぁ……疲れた……」


「お疲れさん。見事なもんだったぜ、RIO」


先輩が、私の頭をわしゃわしゃと撫でる。


「心臓に悪すぎます……」


「でも、やるんだろ?」


先輩の問いに、私はこくりと頷いた。


もう、後戻りはできない。


国民的王子様・神木玲矢の『顔』を創る。


それは、私のアーティスト人生を賭けた、最大で、最も危険なプロジェクト。


そして、もしかしたら。


私の嘘だらけの日常を、根底から覆してしまうかもしれない、恋の始まり。


週末に迫った、初めての密会。


私は、どんな顔で、彼に会えばいいんだろう。


偽物の顔の下で、本物の心臓が、警報みたいに鳴り響いていた。

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