第2話

翌日、学園は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。


それもそのはず。昨日、旧校舎で目撃された神木玲矢が、なんとこの星奏学園に転校してくるという噂が、一晩で光の速さで広まっていたからだ。


「ねえ、本当に神木くんが来るのかな!?」

「ガセじゃない? いくらなんでも、こんな普通の高校に……」

「でも、昨日見た子がいるんだよ! マジでオーラ半端なかったって!」


朝のホームルームが始まる前の教室は、興奮と期待で蒸し風呂のような熱気に包まれている。女子はみんな、いつもより念入りにメイクをして、そわそわと落ち着かない様子だ。


もちろん、私はその輪から遠く離れた席で、分厚い文庫本に視線を落としていた。だけど、まったく頭に内容が入ってこない。


(なんで、ここに……?)


昨日の光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。夕日を浴びて輝いていた、完璧な王子様。そして、私が感じた強烈な違和感。


あの『仮面』のような笑顔。


あれは、私の気のせいだったんだろうか。特殊メイクにのめり込むあまり、人の顔まで作り物に見えるようになってしまったとか?


(そうだよ、きっとそう。国民的俳優の顔が、作り物なわけないじゃん……)


自分に言い聞かせようとすればするほど、胸のざわめきは大きくなる。


ガラリ、と教室のドアが開く音。担任の先生が入ってきて、途端に教室が静まり返った。みんなの視線が、先生の、そしてその後ろにいるであろう誰かに集中する。


「えー、みんな知っているかもしれないが、今日からこのクラスに新しい仲間が増える。紹介するぞ」


先生の言葉に、クラスの空気が張り詰める。ごくり、と誰かが息を飲む音が聞こえた。


「入れ」


促されて、一人の男子生徒が教室に入ってくる。


その瞬間、わぁっ、と女子たちの間から夢見るようなため息が漏れた。


昨日、遠くから見た姿よりも、ずっと衝撃的だった。


寸分の狂いもなく整った顔立ち。少し茶色がかった、サラサラの髪。モデルみたいに長い手足。制服さえも、彼が着ると高級ブランドの衣装のように見える。現実感がまるでない。まるで、CGか何かを見ているみたいだ。


「神木玲矢です。今日からお世話になります。よろしくお願いします」


にこり、と微笑む。


それだけで、教室中にキラキラした光の粒子が舞ったような錯覚に陥った。女子の何人かは、胸を押さえてうっとりしている。男子でさえ、その圧倒的なオーラに気圧されているようだった。


これが、国民的王子様……!


私も、その他大勢と同じように、ただただ呆然と彼を見つめていた。でも、やっぱり感じてしまう。


(この笑顔……)


完璧すぎる。優しさ、親しみやすさ、少しの照れ。すべてが計算され尽くしている。まるで、何百回も練習したかのような、完璧な『演技』。


(やっぱり、仮面だ……)


確信に近い思いが、胸を支配する。でも、そんなこと、誰にも言えるはずがない。言ったところで、頭がおかしいと思われるだけだ。


「えー、神木の席だが……」


先生が教室を見渡す。その視線が、どうか私の方に来ませんように。心の中で、私は必死に祈った。目立たない。空気でいる。それが私の処世術なんだから。


神様、お願い。私をこのまま、背景の一部でいさせてください――。


「ああ、彩崎の隣が空いてるな。神木、あそこでいいか?」


私の祈りは、いとも簡単に打ち砕かれた。


「え」


思わず、声が漏れる。


クラス中の視線が、一斉に私に突き刺さる。驚き、羨望、嫉妬、好奇心。色とりどりの感情の矢が、私の体を貫いていく。顔から、さっと血の気が引くのが分かった。


(う、嘘でしょ……!?)


なんでよりによって、私の隣なの!?


神木玲矢が、まっすぐにこちらへ歩いてくる。一歩、また一歩と彼が近づくたびに、心臓がぎゅうっと縮こまっていく。彼の爽やかな香りが、ふわりと鼻をかすめた。


「よろしく」


隣の席に座った彼が、私を見て小さく微笑む。


ドキンッ!


心臓が、喉から飛び出しそうなくらい大きく跳ねた。


「あ……、あやさき、です。よろしく、お願いします……」


蚊の鳴くような声で、なんとかそれだけを絞り出す。顔が熱くて、きっと茹でダコみたいに真っ赤になっているに違いない。恥ずかしくて、うつむくことしかできなかった。


最悪だ。最悪すぎる。


なんで私が、こんな少女漫画のヒロインみたいなシチュエーションに……!


それからの数時間は、まさに地獄だった。


授業中、すぐ隣から感じる神木くんの視線。いや、きっと彼は私を見ているわけじゃない。黒板を見ているだけだ。でも、そう分かっていても、意識せずにはいられない。


休み時間になれば、彼の席の周りにはすぐに人だかりができる。女子たちが、キラキラした目で彼に話しかけている。


「神木くんって、好きな食べ物とかあるんですか?」

「次の映画、絶対見に行きます!」


その一つ一つに、彼は嫌な顔一つせず、あの完璧な笑顔で応対していた。


「ありがとう。みんなが応援してくれるから、頑張れるよ」


なんて模範解答。どこまでも完璧な王子様。


私は、そんな喧騒から逃れるように、ひたすら机の上の本に没頭するふりを続けた。お願いだから、誰も私に話しかけないで。神木くんの隣の席の子、なんていうカテゴリーで認識されたくない。


だけど、そんな私の願いも、またしても打ち砕かれることになる。


「あの、彩崎さん」


すぐ隣から、名前を呼ばれた。


びくり、と肩が震える。恐る恐る顔を上げると、神木くんが心配そうな顔で私を覗き込んでいた。


「大丈夫? さっきから、顔色悪いみたいだけど」


「へっ!? だ、大丈夫です! なんでもないです!」


慌ててぶんぶんと首を振る。彼の顔が、近い。整いすぎた顔が間近にあって、心臓が悲鳴を上げた。


「そう? ならいいんだけど。あ、そうだ。よかったら、これ使って」


すっと彼が差し出してきたのは、一枚のプリント。今日の数学の授業で配られたものだ。


「さっきの授業、俺、途中から全然分かんなくなっちゃって。もしよかったら、放課後、少しだけ教えてもらえないかな?」


「えええええっ!?」


今度こそ、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。


クラス中が、またしてもこちらを注目する。女子たちの視線が、さっきよりも鋭く、痛い。


(む、無理無理無理! 私が神木くんに勉強を教えるなんて、そんなことできるわけない!)


「ご、ごめんなさい! 私、数学苦手で……! 全然、教えられない、です……!」


しどろもどろになりながら、私は断った。本当は、数学は得意科目だ。でも、そんなことを言って、彼と二人きりになるなんて、考えただけで気が遠くなる。


「そっか。ごめん、急に無理なお願いして」


神木くんは、少しだけ寂しそうに笑った。


あ、と私は息を飲む。


その一瞬だけ、彼の完璧な笑顔の仮面に、ほんの少しだけ、ひびが入ったように見えたから。


それは、本当に些細な変化だった。眉がほんのわずかに下がり、口角の上がり方が、いつもよりぎこちない。でも、人の顔の構造を研究し尽くしてきた私には、その微妙なズレが、はっきりと分かってしまった。


(この人、本当に困ってる……?)


世間のイメージを守るための完璧な笑顔。その下に隠された、彼の本当の感情。


ふと、彼が持っている教科書に目をやると、その隅に置いてある一冊の台本が視界に入った。ボロボになるまで読み込まれたそれは、彼が真剣に仕事に向き合っている証拠だった。


台本のタイトルは、『老人と海』。


(老人……?)


その単語に、私の心臓が小さく跳ねる。


神木くんが次に演じる役は、老人なのかもしれない。まだ十代の彼が、老人を演じる。それは、とてつもなく難しい挑戦のはずだ。彼が悩んでいるのは、きっとその役作りのことなんだ。


「……あの」


気づけば、私は口を開いていた。


「数学は、無理だけど……もし、何か他に困ってることがあるなら……力になれる、かも」


自分でも、何を言っているのか分からなかった。空気でいたい、目立ちたくない。そう思っていたはずなのに。


彼の仮面の下にある、ほんの少しの『素顔』を見てしまったから。放っておけない、と思ってしまったから。


私の言葉に、神木くんはきょとんとした顔で目を丸くした。完璧な仮面が剥がれた、一瞬の素の表情。


「……え?」


「あ、いや、ごめんなさい! 今の、忘れて……!」


しまった、と後悔した時にはもう遅い。私は顔を真っ赤にして、再びうつむいた。もうダメだ。今日は人生で一番最悪な日だ。早く家に帰って、特殊メイクの粘土をこねていたい。


***


放課後。私は逃げるように教室を飛び出し、いつものアトリエ、映像研究部の部室に駆け込んだ。


「橘先輩……!」


「お、彩崎。どうした、そんなに慌てて。まるで何かに追われてるみたいじゃんか」


椅子に座って雑誌を読んでいた橘先輩が、のんびりとした口調で私を迎える。


「追われてるんです! 全クラスの女子の嫉妬の目に!」


私はぜえぜえと息を切らしながら、今日起こったことを先輩にまくし立てた。神木玲矢が転校してきたこと。席が隣になったこと。そして、勉強を教えてほしいと頼まれて、断ってしまったこと。


「ははっ、そりゃまた、災難だったな。お前、目立つの嫌いだもんな」


先輩は面白そうに笑っている。全然、他人事だと思って!


「笑い事じゃありません! もう、明日からどんな顔して学校に行けばいいか……」


「大丈夫だって。お前には、もう一つの『顔』があるだろ?」


先輩が、にやりと笑う。


その言葉に、私はハッとした。そうだ。私には『RIO』としての顔がある。学校での彩崎莉緒がどんなに惨めでも、『RIO』でいる時の私は、自由で、最強だ。


「……そう、ですね」


少しだけ、心が軽くなる。私は自分のデスクに向かうと、昨日創った『別人』のプロテーゼを手に取った。これさえあれば、私は無敵。


「そうだ、RIO。お前に、すごい依頼が来てるぞ」


先輩が、ふと真剣な声で言った。


「依頼?」


「ああ。超極秘で、絶対に他言無用っていう条件付きの、デカい仕事だ」


先輩が、パソコンの画面を私に見せる。そこに表示されていたのは、一通のメールだった。


差出人の名前は、伏せられている。


『拝啓、RIO様。あなたの作品を拝見し、その圧倒的な技術に感銘を受けました。つきましては、ぜひ私の役作りにお力添えをいただきたく、ご連絡いたしました』


丁寧な文章で綴られた、依頼の内容。


『次回作で、私は孤独な老人を演じます。しかし、どうしてもその感覚を掴むことができません。どうか、あなたの特殊メイクの力で、私を完全に『老人』にしていただけないでしょうか。見た目だけでなく、その心までも。報酬は、お望みのままに』


(老人……!)


今日、教室で見た、神木くんの台本。そのタイトルが、脳裏をよぎる。


まさか。そんな偶然、あるはずがない。


「この依頼主って……」


「さあな。こっちも正体を明かしてないんだから、向こうも名乗らないのは当然だろ。でも、文面からして、相当な大物っぽいぜ。どうする、RIO? 受けるか?」


先輩の問いに、私はすぐには答えられなかった。


心臓が、バクバクとうるさい。


もしも、万が一。この依頼主が、神木玲矢本人だったとしたら?


私が『RIO』だってバレたら、どうなる? 天才アーティストだと思っていた相手が、クラスの地味で冴えない女子生徒だったなんて知ったら、彼はきっと幻滅する。


(怖い……)


でも。


(知りたい……)


あの完璧な仮面の下にある、本当の顔を。彼が抱えている、本当の悩みを。


特殊メイクを施している間だけ、私は『RIO』として、彼と対等に話せるかもしれない。


「……やります」


震える声で、私は答えた。


「この依頼、受けます」


私の返事を聞いて、橘先輩は満足そうに頷いた。


「よしきた。じゃあ、早速、先方とオンラインで打ち合わせだ。準備はいいか、RIO?」


「……はい」


覚悟を決めて、私は頷く。


先輩が、ビデオ通話のボタンをクリックした。画面に、接続中のマークがぐるぐると回る。


数秒後。


ぷつり、と音がして、画面の向こう側が明るくなった。


そこに映し出されたのは――。


昼間の教室で見た、あの完璧な王子様の笑顔とは違う。緊張と、期待と、そして少しの不安が入り混じった、真剣な表情の、神木玲矢だった。


彼の大きな瞳が、まっすぐに私を――画面越しの『RIO』を、捉える。


「あなたが、『RIO』さん、ですか?」


静かな、でも芯のある声が、部室に響いた。


時間が、止まった。


偽物の顔(フェイクフェイス)で、私は、本物の王子様と対峙する。

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