母がいる。

小鰐紅丸

母がいる。

 わたしの家には母がいません。ずっと父とその祖父母に育てられました。


 わたしの幼少期をまとめたそれなりに分厚いアルバムに写っているのも、友達や写りこんだ観光客などを除けばわたしと父方の血縁だけです。

 無論、父ひとりからわたしが産まれるわけはないので、母もいるはずです。ただ、家族が一度も母について言及することはありませんでした。そもそも知識として母を知らなかったうちは疑問を抱く余地すらありません。

 物心がつきはじめ幼稚園に通い出してから、わたしは一般的な家庭には母親がいることを知りました。

 それを知って、ようやく腑に落ちたのです。

 お迎えに来てくれた祖母に聞いたことがありました。

「どうしておかあさんがおむかえにきてくれないの?」と。

 祖母は気まずそうな表情をしていました。そして、わたしを抱き締めて慰めるように、優しく背をさすってくれるだけでした。

 わたしは祖母の行動が理解できませんでした。わたしは、自分の家に母がいないことを疑問に思ったのではなかったからです。

 幼稚園の隅、木の陰からわたしを見つめる女性の影があったからです。その女性は、ふと窓の外を見たときや、父と出かけたときの曲がり角、最寄りの駅のホームでは人混みに紛れて、いつもわたしを見ていました。

 表情はよくわかりませんがわたしをじっと見ており、乾いた黒い髪は荒れながら長く伸びて、袖口から覗く青白い腕は骨に皮膚が張り付いているようでした。

 わたしは気味の悪さを知らず、違和感は覚えませんでした。

 常に見守ってくれる距離にいるあの人を、わたしは母だと認識したのです。

 だから、どうしてあそこにいるのに見ているだけでこっちに来てくれないんだろう、と本当は聞きたかったのです。


 母の日や父の日の近くのことです。片親の子供に配慮してでしょうが、いつもお世話になっている大人に感謝の似顔絵を贈ろうという幼稚園の恒例行事がありました。両親はもちろんのこと、幼稚園の先生や好きなヒーローを演じる俳優など、似顔絵に描かれる大人は多岐に渡っていましたが、複雑な家庭環境を持つ子供もいる中ではいい対応だったと思います。

 わたしが先生に、誰を描いているの? と尋ねられたとき、わたしは「おかあさん」と答えました。

 黒のクレヨンでぐちゃぐちゃに表現された髪と、灰色で渦を巻いて表情がわからない顔。先生がどのような反応を示したかは、一心不乱に似顔絵に耽っていたのでわかりません。おそらくわたしの家庭環境を知っていたはずですから、いい気持ちではなかったでしょう。

 似顔絵はしばらくの間、幼稚園内に飾られましたが幼児の描く似顔絵の中では、わたしの絵も目立ちはしませんでした。


 母はいつも家の外にいました。

 真夏の炎天下でも、真冬の雪が降る日でも、朝でも夜でも、母が家に入ってくることはありませんでした。

 ただ、わたしを見つめて立っていたのです。

 なので、わたしは何回か母を家に入れてあげようとしたことがありました。ドアや窓を開け放したり、そこで呼ぶように手を鳴らしたりしていました。子供がおかしな行動をしてもまともに受け取る大人はあまりいないでしょうが、祖母はよくわたしに、何をしているの? と聞いてきました。その度にわたしは「おかあさんを呼んでるの」と答えていました。祖母はそれを聞くといつも困った表情を浮かべ、何いってるの、とドアや窓を閉めました。

 母が見えているのはわたしだけのようでした。

 友達に聞いたことがあります。幼稚園の柵の向こうからこちらを覗く母を指さして「おかあさん」と伝えても、だれもいないよ、と言われました。

 どうしてわかってくれないのか、憤りを覚えたこともありましたが、世間を知らなすぎた幼いわたしは、そういうものなのだと理解していました。

 

 幽霊という存在を知ったのは小学校に上がった頃でした。

 児童向けの怖い話をまとめた本を持ってきた子を中心に、わたしは同級生たちと陳腐な怪談で体を奮わせていました。次第に話題は実際に幽霊を見たことがあるか、という話へ自然な流れで変わることは普通のことでした。

 わたしは幽霊を見たことがないと答えました。ただわたしが見ている母について教えたことのある友達が、もしかして、とわたしの話を切り出したことで、ようやく認識したのです。

 あれは母の幽霊なのではないか、と。

 母が亡くなっているなど家族からは聞いていないと答えても、それは気を遣われているからじゃないか、と別の友達に言われ反論することができませんでした。

 しかし、幽霊であるならばすべての疑問に納得がいくのもまた事実でした。

 わたしにしか見えていないこと、ずっと遠くからわたしを見守っていること。そのどちらもが説明できるのです。

 ちょうど、そういった親子の心温まる類のホラーも怖い話をまとめた本には載っていたので、その場では心を温める方向で話がまとまりました。

 帰り道、わたしは心の欠けた部分が補われた気分でした。

 父や祖父母は優しく、不自由は何一つない生活でしたが、周囲の話を聞き比較したとき、やはりわたしの生活には母親という存在が欠けていました。お母さんの得意料理だとか、お母さんとお揃いの洋服だとか、お母さんが好きだったアニメだとか、わたしにはそういったものがありません。それらは決して、父や祖父母では埋められない部分でした。その欠けた部分に、生を失って尚もわたしを見守る母の愛がぴったりはまったのです。

 その日は何故か誇らしい気持ちで家に帰りました。下校中、視界の隅に母の影が入ると嬉しかったことを覚えています。

 以来、わたしは家族に母の話をしなくなりました。わたしを傷つけまいとした気遣いに応えようとしたのです。


 ある日、わたしは母の表情を見定めようとしました。二階にある教室の窓際で授業を受けているときで、母は校庭の隅からわたしを見上げていました。退屈な授業だったので、わたしは母のよく認識できない顔をじっと覗きました。

 母の顔はよくわからないとしか形容することができません。いままではそういうものだと思っていましたが、それがついにもどかしく感じられたのです。

 母が笑っているのか、悲しんでいるのか、はたまた別の表情をしているのかが知りたくなりました。

 母のよくわからない顔を見つめていると、ぐちゃぐちゃに色が重ねられた絵画の時間を巻き戻していくかのような具合に、顔の印象が変わっていきました。よくわからない母の表情を解き明かす期待も束の間、わたしは咄嗟に目を逸らしてしまいました。全身を嫌な感じが突き抜けたからです。鳥肌が立ち、全身の血液が冷え込んでいくような感覚です。見てはいけないものを見てしまった気分で、その時間中は窓の外を眺めることはありませんでした。

 母の表情は相変わらずよくわからないものでしたが、そのよくわからないの向こう側に、わたしを見つめる確かな視線を感じたのです。肉や水気を失って窪んだ双眸が光を吸い込んでいる、そんな視線を。

 そのときからわたしは母に対して仄かな嫌悪感を覚えるようになりました。

 視界に入ったときはすぐに目を逸らすようになりましたし、道の向こうに母を見かけたときは道を変えるようになり、どうしても離れられないときは母をいないものとして扱いました。

 しかし、完全に無視できるような存在でもなく、確かにわたしの精神は蝕まれていきました。

 越えてはいけない一線を越えて、わたしと母の、触れてはいけないものとの距離が近づいてしまったように思えたのです。

 いつからか、わたしにとって母は気味の悪い存在になっていました。乾いて荒れている黒い髪や、生気を感じさせない肉のない腕などに忌避感を覚えるようになりました。


 中学年の頃、ついにわたしは母を拒絶しました。

 ひとりで下校している際、人通りが少ないけれど近道の公園を通ると滑り台の裏に母はいました。わたしも母の気味悪さには慣れてしまっていて嫌悪感や忌避感よりも不快感が勝りました。

 何も話さず、じっとこちらを見てくるだけの存在が癇に障ったのです。

 一歩、母へ踏み出し、声を上げました。

「ついてこないでよ! わたしはお母さんのことなんて知らないんだから! 一緒にいたいなんて思ってない!」

 わたしははじめて母への拒絶を言葉にしました。

 刹那、いってしまった、という感情がよぎりました。母を傷つけてしまったかもしれない。そう思うと自分の心が痛むようでした。

 母はわたしの拒絶を聞いて、活力を感じさせないふらふらとした足取りで詰め寄ってきました。

 それを見て、わたしは怖くなって逃げだしました。母を想う気持ちは瞬間的に霧散していました。けれど、震える足がもつれ転んでしまいました。膝を擦りむいた痛みを感じている暇はなく、すぐに立ち上がろうとしましたが、肘の関節が曲がってしまって、うまくいきませんでした。

 その間も背後から徐々に母が迫ってくる気配が、わたしの下腹部に溜まった不安を加速させていました。このとき、はじめて母が声を発していることに気付きました。文字にはできない呻き声で、恐怖心を煽るには十分すぎるものでした。

 この存在が母である、そういうものの以前にこの世のものではないことが、急激に思考を侵し、純粋すぎる恐怖を呼び起こしたのです。

 どうにか立ち上がり、走り出した瞬間に肩を掴まれました。力が強いわけではありませんでしたが、柔らかい毛布にものを落としたときに沈み込んでいくように、わたしの肩に母の指が食い込んでいく感覚がありました。背筋を冷たい虫が這っているかと思える寒気が走りました。寒気の虫が全身の毛穴から無理やりわたしの中に入り込もうとしていました。母は肩を掴んだだけではなく、背後からわたしを抱くように腕も回してきました。

「やだっ、離してっ!」

 わたしは振りほどこうと身をよじりましたが母は離してくれず、胸中にはじわじわと嫌な染みが広がっていきました。

 何か、悪いことが起きそうな予感がしていました。このままではまずい、そういった考えが脳内を支配しましたが、慌てて混乱に陥るばかりでした。人通りの少ない場所で襲い掛かってくるどうにもならない理不尽に近い現実が目頭を熱くしました。わたしは無力で泣きわめくことしかできませんでした。

 無我夢中でもがいていたら一瞬、母の拘束が緩んだようで、わたしは腕の中から飛び出して通りへと飛び出しました。

 しかし、すぐに骨のような手に腕を掴まれて引き戻されました。

 すると、わたしのすぐ後ろを、狭い通りで出すような速度ではない一台の車が走り抜けていきました。背負っていたランドセルに掠っていった衝撃がありました。

 わたしが驚いて目を見開いていると、母はわたしを抱き寄せました。

「しんだら、だめ」

 冷たくて鼓動がない、そんな体の母はわたしを抱き締めたまま、しゃがれた声でいいました。声は鼓膜を凍えさせましたが、それ以上の温かさをわたしは感じていました。

 母の愛情という温度を。

 わたしは生まれてはじめて、母の腕の中で泣きました。もしかしたら、記憶にないだけで赤ん坊の頃にもそういった体験があったかもしれませんが、いまのわたしという人間にとっては、はじめてのことでした。

 母の純粋な愛がわたしを守ってくれたこと。そんな母をわたしは拒絶してしまったこと。

 わたしの涙は一色ではありませんでしたが、母はそれらを全て受け止めてくれました。

 泣き疲れたのか、わたしはいつの間にか眠っており、通りかかった女性に起こされました。目を覚ましたときには、空が焼ける夕暮れでした。辺りを見まわしても母の影はなく、夢だったのかとも思いましたが、わたしは母を信じることにしました。


 それからも、母はわたしを見守ってくれました。

 わたしは暇さえあれば、どこでも母の影を探すようになりました。母がわたしを見守ってくれていることを認める度に、心が温かくなるように感じられたのです。母を見つけても、積極的に近づくことはしませんでした。本当に、母がいる、それだけでよかったのです。

 どこにいてもきょろきょろと辺りを見まわす子供を父と祖父母がどう思ったかは知りませんが、とやかくいわれることはありませんでした。

 一般的な観点から見れば非日常的な生活でしたが、わたしはそうやって残りの小学校生活を送りました。

 小学六年生に進級し夏と秋の境目の頃、父から引っ越しの計画を伝えられました。父の仕事の都合で中学生になるのと同時に遠くの地方へと住居を移すとのことでした。友達と同じ中学校に通えないことは悲しかったですが、新たな土地や新たな住宅に期待するところもあり、素直に受け入れました。

 ただひとつ懸念がありました。母のことです。

 思えば、母を見かけるのは家の近くばかりでした。旅行先や遠方の親戚の集まりでは母を見かけた記憶がありません。

 引っ越してしまえば、母とは別れることになってしまうのか。この悩みにはしばらくわたしの睡眠時間を食べられました。

 わたしが母を連れていくことはおそらくできないので、母に委ねることにしました。

 母に自分から来てもらおうとしたのです。

 ある日の下校中に母を見つけると、わたしは駆け寄り、引っ越し先の住所を書いたメモを握らせました。相変わらず母の手は冷たかったですが、愛情の温度を知っていれば気にはなりませんでした。

 幽霊に住所を教えたところでわかってくれるのかわかりませんが、メモを渡すことがわたしにできる精いっぱいでした。

 言葉は交わしませんでした。ただメモを渡してわたしは逃げるように踵を返しました。

 それから変化はないまま、母に見守られながらわたしは小学校を卒業し、産まれてからずっと暮らしてきた土地を離れました。


 中学生になり、わたしの生活は新しくなりました。

 あの日以来、母は姿を見せてはおらず、心のどこかでは別れを覚悟していました。

 新しい街はそれなりに発展していて、しばらくの間は散歩をすることが多く、その度に母の影を探すことが当たり前でした。

 しかし、こっちでできた友達と遊ぶようになってからは、いつの間にか母を探さなくなりました。

 それに気付いたとき、一抹の寂しさがありました。けれど、母がわたしを守ってくれた思い出があれば、母がいないことで悲しい思いはしないだろうという確信がありました。

 中学生にもなれば、学校での話題は色恋沙汰や流行りのアーティストの話が多く、怖い話で盛り上がる時期も過ぎていたので、母のことを誰かに話すこともありませんでした。

 母の存在は次第に過去のものへと変わっていきました。それに伴い、わたしも普通の子供に変わっていきました。

 元々、母以外の幽霊を見たことがないほど霊感というものがあるわけでもないですから、それも普通のことでした。

 非日常的な体験をするようなこともなく時間は過ぎていき、数年が経ちました。

 ある日、学校から帰ると、家の前に見知らぬ女性がいました。彼女は気怠そうにスマートフォンを弄りながら時折辺りを見渡していて、わたしを見つけると「あ」と声を上げました。

 女性はどちらかといえば派手な化粧で、髪は明るい茶色に染められており、あまり出会ったことのない人でした。スマートフォンを持ち上げ、わたしと画面を見比べ笑みを浮かべると、ふらっと近づいてきました。

 すると彼女はわたしを抱き締め、軽く言いました。

「おー、おっきくなったじゃん。あんたのママよ、あたし。あたしに似て美人ね」

 

 どうしていいかわからず母を名乗る女性を連れ、家に入ると祖父母は今までに聞いたことがない尖った声色で、女性のことを罵倒しました。どの面を下げて私たちの前に出てこれたんだ、警察を呼ぶぞ、初対面には思えない反応だったために、わたしの混乱は加速するばかりでした。女性はひょうひょうとした様子でリビングのソファーに座り込み、父が帰ってくるまでは居座る旨を告げました。

 祖父母たちはそれに耳を貸さず、尚も女性を追い出そうとしました。その際、祖母が「この子を置いて出ていったくせに!」と声を荒らげたのが確かに聞こえました。すると、どんな言葉もどこ吹く風だった女性の表情に怒りが滲み「あたしを追い出したのはあんたらだろ! 好きでこの子を置いてったわけじゃない!」と怒鳴り返しました。

 そして「あたしがお腹を痛めて産んだ子なのに」と小さく呟いたのです。


 父が帰ってきてからも空気は険悪なまま変わることはありませんでした。女性は父に金の無心に来ているようでした。

 彼女の言い分に対して父や祖父母が口を出すこともありましたが、彼女がわたしの実の母親であるという点は誰も否定していませんでした。

 祖母が小さな声でわたしに謝ってきました。「あのとき、私たちがこの人を追い出さなければ、辛い想いをさせなかったのに」と。これを聞いて、幼稚園児だった頃に祖母が、優しく背をさすってくれた理由がわかりました。

 わたしはお腹の奥、身体の中心から肉体が腐っていくかのような錯覚に見舞われました。

 わたしは、自分の母親を知っているはずでした。幼い頃からずっと。

 乾いた長い黒髪、皮膚が骨に張り付いた青白い腕、わからない表情。生を失って尚も、いつもわたしを見守り続ける愛情を持った人。わたしは彼女を、十年近く母だと信じ続けていました。

 目の前にいる女性が実の母親であるならば、あれはいったい何者だというのでしょうか。

 嫌な脂汗が噴き出て、血の気が引いていくのがわかりました。わたしの足元が渦を巻き、世界がじわじわと揺れ動き、わたしの知っている法則が塗り替わってくかのようでした。

 思えば、子供に母の死を隠すのも無理があるでしょう。母方の親戚は? 家に仏壇もないのか? 一度も墓参りにすら行かないのか? わたしが少しでも聡明な子供であれば、気付いていたでしょう。しかし、わたしは自己完結で全てを勘違いしていたのです。

 いつの間にか父は立ち上がり、母を無理やり押し出そうとしていました。母は喚き散らしながら玄関のドアにしがみつき、近所迷惑など考えずに大きな声で泣き叫び助けを乞いました。わたしは茫然とそれを眺めていました。まるで世界と自分との間をぶよぶよとした白濁色の膜が阻んでいるような感覚でした。母が、わたしからも父を説得するようにといった気がしましたが、そんなことはどうでもいいことでした。

 わたしは引っ越す直前、あれに新しい家の場所を教えたことを思い出し、後悔しました。

 すぐに、身に覚えのある嫌な感じがしました。鳥肌が立ち、全身の血液が冷え込んでいくような感覚です。

 わたしは見ました。開けたドアの隙間、実の母の向こう側にあれの姿を。

 あれはいったい、誰なのか。

 わたしをずっと見続けてきたあれは。

 冷たい体でわたしを母のように抱き締めたあれは。

 いま、わたしにはっきりとした気味の悪い笑みを母の肩越しに向ける、あの女は誰なのか。


 わたしにはわかりません。

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