消えゆく彼らの純真を、僕らはオワコンとせせら笑う
これ
第1話 配属先は
観客の声が高い天井に吸い込まれていく。見渡す限り、座席は満席。フランクフルトの香ばしい匂いがどこからともなく漂う。大江戸ドームは溢れんばかりの期待で満たされていた。
当然だろう。今日は東美ラビッツの本拠地開幕戦なのだから。
「おい、
あけすけな声が埋もれずに届く。大学で同じゼミに通っていた、
「わりぃ、少し寝坊しちまった」
「お前、今何時だと思ってんだよ。一八時前だぞ。まさか今日ずっと寝てたんじゃないだろうな」
呆れるように須田がこぼす。右手にはコップに注がれたビール。顔が少し赤い。
「だって今の時期ってあまりやることないだろ。四月になって会社に入ったら、ずっと働かなきゃいけないからな」
「だからって、いつまでも寝ていちゃダメだろ。今のうちから生活リズム整えておかねぇと」
ゼミ長をしていた佐治が、もっともらしいことを言う。眼鏡の奥の目は優しいようで厳しい。
「ああ明日からちゃんとするわ。で、どうよ。今年のラビッツ」
「評判いいよな。昨日もテレビの開幕前特番で、全員が優勝予想してたし」
自信満々に胸を張る須田の姿を見ていると、俺まで誇らしくなってしまう。応援する球団が高評価されて嫌なファンはいない。
ラビッツは去年、日本シリーズでアルバトロスに負けて、惜しくも日本一を逃した。それがよほど悔しかったのか、ストーブリーグではトレードで、ライバルチームの主軸を何人も獲得し、戦力の拡充を図っていた。
「でも、これだけ評判がいいとかえって怖い感じもするけどな。どのチームも打倒ラビッツに燃えてるだろうし」
水を差すような佐治の言葉。心配性は大学を卒業しても、変わっていない。
「あんまネガティブなこと言うなよ。今は高揚感に浸ってようぜ」
遠い目でグラウンドを見る。シーズンは始まる前が一番楽しい。想像の余地がある。そして、高揚は開幕投手が第一球を投じた瞬間に、ピークに達するのだ。
俺たちが他愛もない話をしていると、ドームに音楽が響き渡った。歌手も分からない洋楽に、改めてシーズンの始まりを思う。先発の
「本当、寺町が残ってくれて良かったよな」
佐治がしみじみと語っている。もちろん俺も同感だ。
「今朝のスポーツ東美にも絶好調って書かれてたしな。ここ数年で一番状態はいいらしいぜ」
「やっぱり入社先の新聞は読むんだな。どんなにぐうたらな生活していても」
大きくなるざわめきの中で、須田が茶化すように言った。
「そりゃそうだろ。元々、野球やってた頃から東美は読んでたしな」
「本当不思議だよな。お前みたいなヤツが東美の試験に受かったなんて」
「面接じゃとにかく東美への愛を語りまくったからな。リトルで野球を始めたときから愛読してますって」
「思う一念岩をも通すってヤツか」
グラウンドを見つめたまま、佐治が呟いた。たまに佐治は意味の分からないことを言う。
「なんだよ、それ」
「しつこいぐらいに徹底すれば、思いは届くっていう意味だよ。仮にも新聞社で働くなら、これぐらい知っとけよ」
そうたしなめる佐治の隣で、須田が口を開けて笑っていた。つられて俺も笑う。こいつらといるのは、贅沢なほど楽しい。もうすぐ会いづらくなることが、信じられないくらいに。
選手が登場して守備位置に着いた。都知事の始球式が終わって、バッターボックスに打者が入る。寺町が洗練されたフォームから、第一球を投じる。湧きかえる観客。俺は、瞬きも忘れて、ドームの全景に見入っていた。口角が上がる。選手を取材する姿がはっきりとイメージできた。
快音がキャッチャーミットから、雑踏を越えて耳に届いた。
雨が窓を叩く音がする。冷房がなくてもまだ涼しい。社内には半袖の人間も見られる六月の末日。研修は最終日を迎えた。人事課の
「それでは、配属先を発表します。最初に言っておきますが、この配属先は研修を通して見た適性が一番の判断基準になっています。しばらくは異動はできませんので、そのつもりで業務に当たってください」
道上さんの乾いた声が、第二会議室に響く。隣の部屋からは編集会議の模様が聞こえてくる。まだシーズン真っただ中とあって、そこまで紛糾してはいない。
俺の希望は運動第一部だ。スポーツ東美の編集局には四つの運動部がある。野球の第一部。五輪競技とサッカーの第二部。競馬・競艇・競輪を扱う第三部。大相撲をはじめとしたその他のスポーツの第四部。第三部は新入社員を今のところ必要としていないらしいから、実質三択だ。
「では、まず運動第一部から。呼ばれた人は前に出てきてください」
いよいよだ。俺の名前が呼ばれる。ここから俺のスポーツ記者人生は幕を開けるのだ。
準備は万端だ。煙草を吸う古河さんに近づきたくて、学生時代も吸っていなかった電子煙草を入社してから吸い始めていた。喫煙所に出入りする新入社員は俺だけで、古河さんとの会話を独占することができた。その度に野球の話題を振るなど、第一部希望であることをさりげなくアピールしてきた。
手応えはある。他の同期にはない積み重ねが、俺にはある。
「
耳を疑った。道上さんは俺の名前を呼ばなかった。なぜだか分からない。エントリーシートでも、面接でも、入社してからも、散々野球のことをアピールしてきたのに。全てが無駄だったということか。
辞令を貰う二人を半ば呆然と眺める。足が震えていた。
自分の名前が呼ばれたことに気づいたのは、隣に座った同期の中で唯一の女性社員である
俺は我に返り、勢いに任せて席を立った。椅子が倒れてしまう。視線が集中して恥ずかしかった。
「可児純真。七月一日付で編集局運動第二部への配属を命じます」
道上さんの声が脳に入ってこなかった。受け取った辞令はあっけないほど軽くて、こんな紙切れ一枚で俺の命運が決まるなんて、嘘でもつかれているみたいだった。
同じく第二部に配属になった徳永とともに「よろしくお願いします」と頭を下げる。周囲の拍手がままごとみたいだ。
それから細々した注意点を聞かされて、この日は解散となった。俺は挨拶が終わると、帰り支度もせずに、一目散に古河さんのもとへと駆け寄った。理由を説明してほしい。そうしないと帰って眠ることすらできなさそうだった。
「古河さん、どうして俺が一部じゃないんですか? 希望出したじゃないですか」
「ああ、その件な。俺が道上に言ったんだよ。お前をウチによこさないようにな。なんでか分かるか?」
古河さんは、面倒くさそうに俺を睨んだ。古河さんは背も高く、休日は草野球に興じているらしく体格もいい。蛇に睨まれた蛙の気分だ。
何も言い返せず、黙ってしまう。徳永がきまりが悪そうに、そっと会議室の外へと出ていった。
「研修の成績じゃねぇよ。お前はさ、野球が好きすぎるんだよ。喫煙所でいっつも野球の話してたよな。他にネタないのかってぐらい」
「それはいいことじゃないですか。愛情が深いほど、理解も深まりますよね」
「お前さ、記事を書くときに一番大事なこと、何か分かってんのか?」
「締め切りに間に合わせることですか」
とんちんかんな返事をしてしまう。口にしてから、後悔する。古河さんは頭を掻いて、ため息をついていた。
「それは前提条件。当たり前のこと。俺が言いたいのはそういうことじゃねぇんだよ」
吐き捨てるように言われた。それでも、見捨ててはせず、続けてくれる。
「客観性だよ。主観まみれの感想なんて、素人のSNSかブログにでも書かせとけばいいんだ。俺たちはプロの記者なんだから、事実に基づいた客観報道を心掛ける。たとえ娯楽色が強いスポーツ新聞だったとしてもだ」
視線の先では、道上さんが心配そうに俺たちを見ていた。古河さんはその事に気づいたのか、振り返って手を振る。外に出ろというサインだ。道上さんが退室して、俺たちは二人きりになった。
「お前の書いた記事、読んだけど、酷いもんだったよ。なんだよ、『惚れ惚れするスイング』だの『針の穴を通すようなコントロール』だの。そんな大げさな形容詞いらねぇつうの。挙げ句の果てには『もっと軸足を固定してみれば、大幅な打撃成績向上が見込めるだろう』って。評論家にでもなったつもりかよ」
「でも、読者に伝えるにはこれくらい書いたほうが……」
「お前の記事からは自意識が溢れ出てるんだよ。野球が好きすぎて。それじゃ記者としては使いもんになんねぇよ。まぁ、今まで自分の知らなかった分野で勉強するんだな。そっちの方がお前のためになると思うぜ」
拠り所を根こそぎ否定されて、ガラス瓶で頭を殴られるような衝撃を味わった。最大の武器を失い、呆然と立ち尽くす。「精々頑張れよ」という古河さんの、申し訳程度の励ましも、心には響かない。
古河さんが去って、誰もいなくなった第二会議室は、生温い空気が流れていて、気持ち悪いほど正常だった。
やっていけるだろうか。初めて不安になった。
明日は運動第二部の面々と顔を合わせる。今の俺にとっては、憂鬱以外の何物でもなかった。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます