第20話「世間を騒がせるもの」
「ちょいとちょいと! 柚子ちゃん!」
呼び鈴とともに店へ入ってきたのは、顔見知りの女性だ。よく彼女の売る野菜を買わせてもらっている。
扉の前から進む気配のない女性に、柚子は目を丸くしながら首を傾げた。
「おば様。どうされましたか?」
「ここ最近の吸血鬼騒動は知っているかい?」
「いえ、何かあったのですか?」
「犠牲者が両手を超えたって話さね。しかも若い女性ばかりが狙われているって噂だ。柚子ちゃんも気をつけなよ」
「お気遣いありがとうございます」
「それだけだよ! これからうちに買いにくるときは明るいうちに済ましちまいな!」
そう言って女性は返事も聞かずに出ていってしまう。
そんな様子を唖然と眺めていれば、カウンターの端から笑い声が聞こえた。
柚子がそちらへ視線を向ける。
「帝国人ってのはお節介だなぁ。柚子が吸血鬼に襲われたって関係ないだろうに」
「そうね。私が襲われて関係あるのは吸血鬼ハンターのあなただもの。ねぇ、ケリー?」
「はっ、違いねぇな」
三つ揃いのスーツをかっちり着こなし、紅茶に手をつけているのは吸血鬼ハンターのケリーだ。
彼は紅茶を銀のスプーンでかき回すと、一気に飲み干した。
立ち上がり、けだるげにポケットへ手を突っ込む。
「じゃあ期待に応えて俺も仕事に行くとするか」
「あら、どういう風の吹き回し? まだ活動時間には早いのではなくて?」
「今回の獲物は規格外なんだよ。情報が交錯しすぎて整理するのも面倒なんだ」
「へぇ。そんなに厄介な吸血鬼なのね」
「さっき両手を超えるつってたが、本当は両手両足でも足りねぇ犠牲者がでてる」
悔しげに顔を歪めたケリーは深刻な声色で告げた。
初めて見る彼の表情に、柚子はごくりと息を呑む。
こつこつと革靴の音だけが響き、それは扉の前で止まった。
半身だけで振り返ったケリーが片側の口角だけを上げる。
「だからまぁ、夜は気をつけるこったな」
「そうするわ」
「あぁ、あと依頼してた黒猫の捜索。あれやるなら昼間だけにしろよ」
「……わかった」
柚子の返事を聞くと、ケリーはひらひらと手を振って出ていってしまった。
一人きりになった柚子はケリーの飲んでいたティーカップを片付けはじめる。
「あれ、スプーン……」
確かにケリーが使っていたはずだが、銀のスプーンがどこにも置かれていない。
椅子の下を覗き込むが落ちていなかった。
不思議に思いながらもティーカップを洗い場へ持っていく。
洗い物をすませると、丁度からからと呼び鈴が鳴った。
今日はお客が多いなと目を向けると、そこにはアランが立っていた。
少し慌てた様子の彼に、柚子は驚いて表情を止める。
「柚子」
「どうしたのですか、そんなに慌てて」
「吸血鬼騒動は知っているね?」
「はい。つい先ほど耳にしたところです」
「なら話は早い。この騒動が終わるまで、君は
告げられた言葉に柚子は固まった。ゆっくりと驚愕を呑み込み、口を開く。
「……なぜです?」
「危険だからだ。稀血の君が吸血鬼の理性を奪うと教えたね?」
普段よりも大股で近づいてきたアランが、柚子の流水で冷たくなった手を取った。
彼の体温が伝わりじんわりと熱が広がる。
「はい、お聞きしました」
「もし今回の騒動が吸血鬼の仕業なら、確実に君の匂いに誘われてしまう」
「ならば、私が囮になれば解決が早くな――」
「馬鹿なことを言うんじゃない」
それは心配と怒りが
突然の気を張った声に柚子の肩がびくりと強ばる。
柚子の反応を目に入れたアランが、はっと我に返ったように目を見開いた。
握られた手に力がこもる。
「すまない。つい声を荒げてしまった」
「いえ……」
「でも覚えていてほしい。自分の体は大事にしないと駄目だよ。柚子は自分の身を顧みないところがあるから」
「……はい」
「分かってくれたらいいんだ」
握られた手を引き寄せられ、柚子はアランの胸にぶつかった。
訳が分からないと言わんばかりの顔で彼を見上げる。
柚子が顔を上げると分かっていたのか、視線が絡んだ。
「僕がいいって言うまで、外に出ないで」
「……そんなに危ない相手なのですか?」
「そうだね。もし君が人質に取られでもしたら、僕は手加減ができないかもしれない」
「……わかりました。できるかぎり外にはでないよう努めます」
「ありがとう」
目尻をさげて微笑んだアランが、柚子の額と自身のそれを合わせた。
憂いを帯びた金色の瞳と、それを増長させる銀色の髪が視界を埋めつくす。
一気に体温が上昇し、柚子の頬が朱に染まる。
「ちゃんといい子にしてるんだよ」
「っ、はい」
「いい子」
誰もを魅了しそうな笑みを返され、柚子は卒倒寸前だ。
アランは色気にくらくらとしている柚子から離れると、カウンターの椅子からひょいと何かを摘まんだ。
「それと、トロールが着いてきちゃってるみたいだから、その子と一緒にいてくれたら嬉しい」
「トロール? え、着いてきちゃったんですか!?」
アランに摘ままれているのは小さな毛むくじゃらの生き物だ。
それは確かに山の中で見たトロールと一緒だった。
摘ままれたトロールは暴れることもなく、諦めたようにじっとしている。
アランがトロールを柚子の手に置く。
「トロールは子どもを守る妖精だからね。常に、とは言わないけど、できるだけ一緒にいてほしいな」
「わかりました。あなたも、わかった?」
びしっと敬礼をしたトロールに思わず笑みがこぼれる。
安堵の息を吐いたアランはトロールをひと撫でして、早足に扉へと向かった。
「それじゃあ僕も吸血鬼騒動について情報収集してくるよ」
「はい、いってらっしゃいませ」
「うん。それじゃあいい子にして待ってるんだよ」
そう言い残してアランは店を出て行ってしまう。
残された柚子は手に乗ったトロールとしばらく扉を見つめていた。
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