第2話 早期退職と異世界への招待 -2
定年退職前夜。
健一はいつものようにベランダでミニトマトの手入れを行っていた。
夜空には、普段よりも一際明るい月が輝き、澄んだ空気が心地よい。
都会の喧騒も、この時間だけは遠く、静寂が彼の心を包み込む。
彼の心は、明日からの未知の生活への期待と、同時に拭いきれない不安との間で揺れ動いていた。
ミニトマトの葉に触れた瞬間、鉢植え全体が淡い光を放ち始めた。
その光は次第に強まり、健一の全身を包み込み、彼の意識は遠のいていく。
最後に視認したのは、夜空に瞬く無数の星と、光り輝くミニトマトの葉であった。
その光景は、あたかも彼を新たな世界へと誘う、神秘的な招待状のようであった。
意識が完全に途切れる直前、彼は「これで、何かが変わるのだろうか…」と漠然と思った。
それは、人生のやり直しへの渇望にも似た、切実な願いであった。
覚醒すると、ひんやりと湿った土の上に横たわっていた。
肌に触れる土の感触、頬を撫でる風が、全てが現実であることを告げていた。
見上げるほどの巨木が天に向かってそびえ立ち、その葉は陽光を遮り、森全体を神秘的な薄暗さで覆っている。
聞いたことのない鳥の鳴き声が森に響き渡り、嗅いだことのない花の香りが鼻腔をくすぐり、彼の五感を刺激した。
空には、見慣れない二つの月が輝いている。
一つは白く、もう一つは淡い青色に光り、幻想的な光景が広がっていた。
「夢…?」
健一はかすれた声で呟いた。
「いや、これは現実である…」
混乱しつつも、心の奥底にはどこか冷静な自身が存在していた。
この信じ難い状況にもかかわらず、彼の心には、前世で感じていた重圧から解放されたかのような、不思議な安堵感が広がっていた。
定年後の漠然とした不安や、空虚な日々への恐怖から、彼は解放されたのだ。
まるで、長年背負っていた重い荷物を下ろしたかのような軽やかさであった。
足元から、光る蝶のような幼い精霊「リルル」がふわりと浮上した。
その声は、透明な鈴の音のようであった。
「お目覚めになられましたね、健一様」
リルルは健一に語りかけた。
その言葉遣いは丁寧で、健一の心を落ち着かせた。
「え…?」
健一は驚きを隠せない。
「君は…そして、なぜ私の名を?」
リルルは健一の驚きを察し、優しい笑顔で続けた。
「わたくしはリルル。あなた様の導き手です。ここは、あなたが新たに生きる世界、『アース・グレイン』」
彼女はさらに言葉を重ねた。
「創造神様が、あなた様に『第二の人生』を用意してくださいました。あなた様の真面目さと、完璧を求めすぎた疲弊をお見通しだったのです」
異世界に転生したことを完全には理解しきれないながらも、健一の心の奥底には、言いようのない安堵が広がった。
定年後の漠然とした不安、そして空虚感から解放されたかのような清々しさが、彼の心を包み込む。
「これが、定年後の私の人生か…」
健一は独白した。
「もはや、誰かに完璧を要求されることも、満員電車に揺られることもない」
彼は、前世の重圧から解放された自由を噛みしめるように言葉を紡いだ。
その言葉には、新しい人生への静かな期待が込められていた。
彼の心は、まるで長年の埃を払い落とされたかのように軽くなっていた。
この世界での生活が、彼の心をどのように変えていくのか、かすかな好奇心が芽生え始めていた。
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